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NOVEL 天使の顎 season2 ジュブナイル編
16 *煉獄/Purgatorio*4
「あ……!」

 やはり人の目がなくなるのを待っていたのだろうか。ロビーの自動ドアを抜けて、暗い闇に黒い影が飲み込まれていく。
 あたりを見回すが、誰もない。
 乙姫も自動ドアを抜けて蝉時雨降る夏の夜に出た。

「絹夜君……!」

 少し陰になった林道でそっと声をかける。
 法皇庁の鷹の印が入った神父服の黒い影、絹夜が振り向く。
 驚いた様子もないことから、気づいてはいたのだろう。
 まだ淡く、宿舎の光が届くが、気の影になってこちらの姿は見えないだろう。
 声を出しても蝉の声がかき消す。
 うんざりするような鳴き声に紛れる声を乙姫は取りこぼさないように集中した。

「何か用か」

「どこに、行くの……?」

「どこでもいいだろ」

「…………ついていってもいい?」

「勝手にしろ」

 今朝上ってきた道を下る。舗装されていない山の斜面の道が足に応えた。
 それでも絹夜は先に、先に進んでいく。
 振り切られる。
 そう思って乙姫は休まずに追いかける。
 しかし、だんだんと絹夜は道を外して歩いた。
 前日に雨でも降ったのか、ぬかるんだ山道に何度もサンダルがとられる。

「あ」

 履きなおそうと思って顔を下げたが、すぐに顔をあげた。
 絹夜の背中が遠い。暗闇に目を凝らしてやっと捉えていた輪郭が闇に溶けていく。

「…………」

 思い切ってサンダルを脱いだ。これなら走れる。
 一気に間合いを詰めて乙姫は指先に力を入れながら歩いた。
 泥の感触、苔の感触、得体の知れないがさがさした硬いもの、尖ったもの。
 時にはそれが足を切ったが乙姫は声一つ上げなかった。

「…………」

 どこまで行くのだろう。
 もしかしたら、自分を振り切るまで絹夜は歩いて回るのだろうか。
 ふと、そんな恐ろしい考えが浮かんだが、山間半分以上下ったことろで絹夜は足を止めた。
 開けた川原だった。
 木々が裂け、エアポケットのようにぽっかりとあいている。
 大地から天空まで吹き抜け、蝉の鳴き声よりも潤うせせらぎが耳に入る。
 一度、天を仰いで、再度うつむいた絹夜は2046を召喚した。
 呼び出された青い光の剣は幽霊のように虚ろに揺れる。
 聖魔混在の剣を正眼に構え、絹夜はそれを重力に任せて振り下ろした。
 ガツン、と石ころの断片が弾かれる。
 そのまま、絹夜は動かなくなった。

「…………」

 なんと声をかけていいのやら、乙姫は数メートル距離を置いて見守る。
 時折、苦しそうに顔をゆがめる絹夜。何を考えているのか、唇が動いていた。
 やっと動いたかと思うと、細く名もわからない川に入っていく。半ばまでくると、先ほどのように足を止めた。
 剣先が川の水面をすくう。あっという間に、2046が回転し、煌めく水の円を描いていた。
 水滴は回転しながら飛び散って、消えていく。
 何度かそれを繰り返して、絹夜は2046を杖にするように川底に刺し、目を閉じた。

「…………。歪んでいる」

 やっと聞き取れた言葉らしい言葉は溜め息と一緒に吐き出されていた。
 乙姫にも、何のことだか分かっていた。
 水の描く円が歪んでいた。
 正眼に構えていたのは、あらかじめ歪みを感じ取っていたからだろう。
 2046が歪む。それは使い手の魔力が何らかの形で変化したからだろうか。
 それとも、魔力ではなく、扱う精神が変わったのだろうか。
 確かなのは、絹夜の内側の変化が武器である2046を侵食している。

「…………」

 彼は優しくなった。拒絶をしなくなった。
 以前のように揺ぎ無い精神は持ち合わせてはいないだろうが、だからこそ彼は楽になったはずだ。
 だが、それではいけないと聖剣が忠告している。
 あの凶暴な、哀れな彼にもどれというのか。
 彼には優しさは与えられないというのか。
 まるで押し付けがましいその聖剣は、以前の彼に良く似ている。
 ――拒絶。
 ありありとそれがわかった。
 2046が絹夜を拒絶している。
 彼が優しさをそうしたように、剣は変化を拒絶する。

「絹夜君……」

 いてもたってもいられなくなり、乙姫はつい呼びかけてしまった。

「…………お前の言うとおりだな」

「え……?」

 いつもと調子の違う声は笑っているようでもある。一体何故?
 問いかけるとまたこじれそうで乙姫は黙った。

「話さなければならないことが山ほどあるな」

「……うん」

 声が聞き取りやすいように乙姫は砂利道を歩いた。今日はどこか違う。
 そして、できるだけ絹夜に近づく。それを待っていたかのように絹夜は口を開いた。

「俺は……黒金の人間じゃない。それは知っているな」

「うん……。”腐敗の魔女”の息子だったって聞いてるよ」

「”腐敗の魔女”……。それが俺を生み出し……」

「…………?」

「…………」

「絹夜君……?」

 ぐっと2046を引き寄せ、うめき声を上げた絹夜の顔を覗き込もうとした乙姫。
 だが、その表情を窺う前に唇が動く。

「逃げろ……!」

「え……?」

 がくっと体重を剣にかけ、絹夜は傾く。
 そのまま水面に倒れてしまいそうになるが、剣を握りなおし、立て直す。
 だが、その動きの流れのまま剣を引き抜いた。

「――あ」

 星色の光を点々と灯した蛇のような目が乙姫を捕らえた。
 邪眼。
 それと分かった時点で動きは封じられている。
 2046が水を纏って目の前でラインを引いた。
 一体どういうことなのだろう。
 でも、とても悲しいことだ。
 涙腺を涙が駆け上がって、噴出した。

「――」

 ほんの一瞬、甘い香りの風が漂った。
 ほぼ同時に風の割れる音が落ちてくる。
 目の前が真っ白になった。
 いや、真白ではない。灰褐色だ。

「――!」

 重々しい金属音が鳴る。
 乙姫はやっと目の前に壁が現れたことに気がついた。
 顔面から上半身を守るように現れた壁は左右に広がっている。
 反対側では剣先を向けた絹夜の目が垣間見れた。
 右側は壁が一メートルほど先で途切れており、先は斜めに磨がれている。
 そして、左側にはぞっとするような鋭い視線を絹夜に向けた字利家の姿があった。


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あきゅろす。
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