NOVEL 天使の顎 season2 ジュブナイル編
15 *御神/tirol*5
あらかたトランクに詰め込んでさっさと引き上げようとした秋水を小さな影が捕らえる。
「逃げんのか!?」
「人聞き悪い言い方すんなよな、嬢ちゃん……」
サングラスのブリッジを持ち上げ、秋水はユマに向き直った。
「今度はどんないちゃもんだ? 何言われたって返品返金は受け付けないよ」
「ダーッ! きっちり忘れ腐りやがって! お前がタバコ買うのに貸した五百円返せーッ!」
「返しただろ?」
「利子」
「…………はぁ?」
「五百円貸したから、利子が百円」
「なんだ? そのぼったくりな利子は」
「この私をそこらの安い連中と一緒にすんじゃないよ」
つんと口を尖らせてさも当然のように右手を出したユマ。
これから夏休みだというのにわざわざ取り立てに来る当たりさすがだ。
へいへい、とポケットの小銭入れから百円玉を取り出し、ユマに向けて弾く秋水。
「これでジュースでも買いな。夏休みだからって悪さすんなよ」
そのまま背中を向けていく秋水だが、途中で足を止めた。
何歩か後退して背を向けたまま百円玉を握り締めるユマに問いかける。
「ええと、臨海旅行はどこに行くんだっけか?」
「熱海だよ?」
答えてからユマは思い切り眉を寄せた。
「まさか、お前……」
「じゃ、俺は次の商売の仕込があるんでな」
「…………」
飄々と去ってゆくその背中を見つめながらユマは顎に手をあてた。
本場商売人が首を突っ込む前が稼ぎ時だ。
にやり。
何かいいことでも思いついたのか、ユマは手の中の百円玉を弾いてキャッチする。
「秋水だけに甘い蜜を吸わせてなるもんか!」
まったく余計な企みを用意しつつ、ユマは臨海旅行に控えるのだった。
* * *
廊下の先を歩いていたチロルを捕まえて、乙姫はいつものように一緒に帰ろうと声をかけた。
そして、いつものように振舞おうとチロルはうつむきながら首を立てにふる。
「おい、貴様ら……」
「あ、絹夜君!」
銃を片手にした絹夜。
引き金に指を突っ込みながらそれを弄んでチロルに押し付ける。
「後始末させてくれるなよ、風見ヒヨコ。俺までお節介が感染したら暑っ苦しい」
相変わらずの嫌味である。
だが、乙姫とチロルはそれぞれ顔を見合わせて笑った。
それを機嫌を損ねた様子で睨む絹夜。
だが、それもすぐにあざ笑うかのような見下した笑みに変わった。
時、晴れたりし、夏の音。
* * *
Amazing grace, how sweet the sound
(”アメージング・グレイス” なんと素晴しい響きなのだろう!)
That saved a wretch like me
(こんなろくでもない私ですらお救いくださった)
I once was lost, but now am found
(私は、一度なくしてしまったが、今、また見つけることが出来た)
Was blind, but now I see.
(盲目だった私にも、光が与えられる)
黄金の夕日が照らす音楽室。
天地を貫く歌声。
反射の刃。
黒衣の死神。
黒鍵を押さえそこなう指は不協和音に耐え切れずに止まってしまった。
「アザリヤ……その名はラファエル……」
抜き身の刀を窓側で構えた卓郎の影は字利家から見ると牙の光る獅子にも見えた。
グランドピアノの開いた蓋の奥に字利家の整った顔が覗く。
卓郎はその目を睨みつけた。チロルを怯えさせるその脅威が分からない以上、手加減などはない。
だが、字利家の視線はまだピアノの鍵盤の上だった。
「神の熱、人の癒し手、自由の天使、ラファエル!」
かつてないほど低い声で威嚇する卓郎に字利家は無反応で応じる。
業を煮やし、卓郎が動いた。
ピアノの蓋を持ち上げる棒を刀の背で払い、それが勢いよく口を閉じるのと同時に字利家の背後に回りこむ。
その細く白い首筋に刃を当てるが、字利家は全く動かなかった。
「これで俺はいつでもお前を狩ることが出来る……! 答えろ、大天使!」
「…………。そんなに僕の首が欲しいのなら斬るがいい。思ったより手ごたえはいいはずだ」
「…………!?」
「本当は斬るどころか、刃を当てることも怯えているというのに」
鍵盤から刀の刃に視線を向け、字利家は気だるく微笑んだ。
聖母の笑みのように優しく、そしてどこかあざ笑っているようでもある。
「やってごらんよ。後始末は、サポートの男がやってくれるだろう? それとも尻拭いくらいは自分でできるかい?」
「バカにするのもいい加減に――!」
「優しいからねぇ、たっくんは……」
卓郎はそう呼ばれて身の毛を逆立てた。
そう呼ぶのは諫村祝詞か、小さいころの友人くらいだ。
それもこの世界では誰も知りえないこと。
字利家は知っている。この世界でのNGの動きだけではない。
卓郎が眠っている世界のこともハッキングしているのだ。
それも、自分や祝詞に気付かれないように。
「そんなに機嫌を悪くしないで欲しいな。僕もそう呼んでみたかっただけだから」
「お前の目的はなんだ? ”神”を狩らせないつもりか!?」
「”神”……? ああ、”神”、ね。残念だが、彼らと遊んでいる暇は僕にはない。僕が遊びたい相手は、君達だ」
そっと刀に手を添えて頬擦りするように首に寄せる字利家。
顎の下が裂け、血が噴出す。
反射的に卓郎は刀を引こうとするが、指先を絡めた字利家の力は相当だった。
「可哀想に。お前は彼女とは違って、人類と同じ<知恵の実>の末裔だ。
か弱いお前がこうして時空移転を繰り返していて、精神的に無事でいられるはずがない。
彼女のように爆発的な生命力を持たないお前の身体には負担が大きすぎるだろうに」
「何の話だ!?」
「おや、何の話だろうね」
「とぼけるな!」
「…………」
その指が刀を放す。
首筋を拭って、その血を舌でふき取ると、字利家は肩をすくめた。
「口の堅い女は厄介だね。彼女は……そう、チロルと名乗っていたか。チロルを信じるな」
「…………?」
字利家は優雅に立ち上がって黒板にチョークを滑らせた。
カンカン、と音を立てながら彼が書き終わり、そして、身体をずらして提示する。
「偶然、だとすれば、それは誰が取り決めた運命なのだろうね?」
言葉の出ない卓郎に字利家は怒りとも嘲笑ともとれない歪んだ表情向けた。
だが、卓郎の目はただその文字を何度も追っては否定した。
”tirol → lor it”
(チロル→「それは主なる御神なり」)
<続く>
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