NOVEL 天使の顎 season2 ジュブナイル編
15 *御神/tirol*2
フラフラとした足取りが危うい。
しかし、どうやって声をかけたものかと乙姫はその力ない背中を見守っていた。
一階まで降り、チロルはいつもの習慣からか警備室の方向に足を向ける。
だが、何かに気がついて方向転換をした。
振り返ったチロルの表情は優れない一方で、とても友達と一緒に夏休みに旅行にいって気分が変わるものと思えない。
だが、東海林の考えはすでに動いていて、クラス中にお触れが回っていた。
ここでダメでした、なんて言えば、皆ガッカリするだろう。
「あの、チロちゃん」
さりげなく声をかけたつもりだが、チロルはすまなそうな顔で乙姫を見上げる。
チロルから覇気がごっそり抜け落ちるとこういう風になるのだな、と感心する反面、なんだか気味が悪い。
「臨海旅行、どうする? 今年、私行こうかなって思ってるんだ、へへへ……」
「行かない」
「う……」
幽霊のような声で鋭く答えてチロルは自分のロッカーを開いた。
彼女が靴を足元にそろえていおる間に、乙姫は次の策を持ち出す。
「皆で舞台の稽古をしようっていってるの! チロちゃん、ロミオでしょ? 一緒に――」
しまった。
乙姫は生温かい鳥肌を立てた。
チロルはロミオ役をやるのを嫌がっていたのだ。
あまりにもはまっていると、周りが散々あおったせいで仕方なく承諾したが、本当は表舞台には立ちたくないのだろう。
「…………すまない」
チロルの背後に落ち武者の霊でもいるのだろうか。
今にも割腹しそうなオーラである。
いっそ介錯したほうがいいような気もした。
「…………すまない」
同じように謝るチロル。
脳内SOSを放った乙姫だが、目の前にすでに帰ったと思われた黒金が階段を下りてきた。
しばらく片手にした紙パックの牛乳を口にしていた絹夜だが、乙姫の惨状に気がついて回れ右、階段を上り逃げる。
「…………」
逃がすものか。
「絹夜君! 未調整牛乳!」
できるだけ大声で明るく手を振る。
一種賭けだった。
このまま逃げ去るか、プライドが勝って平静を装ってやってくるかだ。
すでに階段を上りきった足がまた踵を返す。
どうやら後者に転んだようだ。
「俺を未調整牛乳と同列にするとはいい度胸だ。喧嘩なら買うぞ」
おそらく、未調整牛乳がなかったら無視していただろう。
乙姫もそれは重々承知だ。
いきなり不機嫌な台詞を吐かれたが、未調整牛乳片手では迫力もない。
「…………」
顔の前で思い切り両手を合わせる乙姫。それを忌々しく見下しながら絹夜は舌打ちをした。
このまま未調整牛乳ネタを引きずられてもつまらない。
「おい、ヒヨコ。精神病院は人間様の施設だぞ」
「…………心配してくれるな」
「…………」
鳥肌が立ったのか絹夜は身を捩る。
まだやるのか?
そう求める視線を乙姫に向けると乙姫は力強く頷く。
「なんで俺が……」
文句を言いながら彼もチロルがこのままでは気色が悪い。
それ以前に、NGと協定を組んでいる限り、チロルがこのままでは迷惑だ。
渋々、といった調子で絹夜は気だるく動く。
これもいい傾向だ、と乙姫がちょっと感動していると、絹夜は右手を影にかざし、左手で十字をきった。
「聖剣2046、召喚!」
「…………」
実力行使に出た絹夜。
なんだか止めるのも面倒になって乙姫はその様子を見守った。
空気を切ってその剣先がチロルの耳の後ろに当てられる。
見事な金髪が数本肩に落ちた。
さっきまでにぎわっていたロッカーの並ぶ将校口はしんと静まり返った。
刃物をどこからとも無く取り出す黒金の目撃例は絶えず納まらずであったが、それをチロルに向け、さらにそのチロルは無反応である。
本能のサイレンだけが声高に叫んでいた。
「ッ」
やっと何かに反応したのか、チロルは目を見開く。
気がついたか、と思うと、今度はチロルが背に収めていた銃を引き抜いた。
まるでそれが絹夜だとは認識していなかったらしい。
照準を合わせようと下から銃を振り上げる。だが、その無骨な銃はチロルの手をすっぽ抜けて回転しながら前方に吹っ飛んだ。
さらに長い沈黙。
がしゃん、と銃が落ちる。
「…………」
「…………」
疑問符だらけの空間で乙姫が動いた。
チロルの襟首を彼女らしくもなく掴み上げ、引きずり歩く。
「絹夜君、銃!」
「あ? なんでお前に命令されなきゃ……いけー……な……」
絹夜が反論するのも無視して乙姫はまだ呆然とするチロルを引っ張り警備室のほうに向かっていた。
「チ、お節介は空気感染か……?」
嫌味を言いつつ、チロルの銃を拾い上げる。
無論、空気感染のお節介の予備軍に自分が入っていることも感じていた。
* * *
夏の匂いがする。
太陽の匂いがする。
全くの夏だ。
生徒名簿を整理していた庵慈は仕事を終わらせるとジャスミンの茶葉をガラスのポットに入れる。
それを保健室の奥手のコンロにかけた。
窓を見る。
遠い入道雲に懐かしい影を見た。
「先生」
呼びかけられて出入り口を見る。
はねっ返った銀髪の男子生徒が人懐っこく笑っている。
その後ろに、懐かしい面影も一緒に笑っていた。
「衣鶴くん……」
彼には悪いが、悲しい想い出が甦る。
それを分かって彼も遠縁になってしまったが、時折、顔を出す、仲のいい生徒だった。
「今日から夏休みだね。先生は臨海旅行いくんでしょ?」
「衣鶴くんは?」
「んー……、どうしよっかなー。旅行行くのも家に帰るのもだるいけど、ご飯が勝手に出てくるんだから旅行のほうが楽かなー。
ちょっと迷ってる。海とか砂っぽいしべたべたするから気がひけるんだよね」
「早めに言わないと、締め切りになっちゃうから、忘れないようにしてね。
締め切り当日に電話してあげるから電源切らないように。連絡さえ取れれば私が用紙コピーして書いておいてあげる」
「ありがと」
「ジャスミン茶あるけど、飲んでいく?」
「アイスないの?」
衣鶴は自分の言葉に愕然とした。
庵慈が刹那に悲哀の表情を見せ、すぐに調子よく微笑んだ。
「冷蔵庫、開けてみなさい」
言われるがままに冷蔵庫を開けた衣鶴。
そこには、安っぽい60円のアイスの袋が並んでいた。
「…………。そう、これ」
一本取り出して、衣鶴はそれを見つめる。
同時に懐かしい想い出も取り出した。
「衣鶴くん、ちゃんと授業に出てるの?」
「うーん……わかんない」
包装を破いてゴミ箱に投げ捨てると衣鶴は診察用の椅子に腰を落ち着けた。
庵慈が腕を組むが衣鶴は青いアイスバーの端をかじってさも当然のように付け加えた。
「教室にはあんまり行ってないよ」
「じゃあ、絵は描いてる? もう受験でしょ」
「うーん。最近は魔法陣しか描いてない」
「…………」
困り顔の庵慈だが、ポットの湯気に気がついて一度置くに引っ込んだ。
その間、衣鶴は窓の外を見つめる。
遠い入道雲。そう、こんな暑い夏の日だった。
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