NOVEL 天使の顎 season2 ジュブナイル編
12 *夢幻/vision*3
「例えば、ジュリエットは、ロミオという夢を見ていて、ロミオは、ジュリエットという幻を見ていたんじゃないのかな」
人気のない廊下で乙姫が呟いた。
それを隣で聞いていたチロルは頷くことも首をふることもなく、ただ、窓の外の夕日を見ていた。
裏庭のひまわりが憂うようだ。
「あ、絹夜君」
パタパタと走りだした乙姫。その先には絹夜が足を止めている。
「されど人は夢幻を求め、そのためならば命をも投げ捨てる。それは、まるで、一輪のひまわりのために太陽が輝くが如き感情。
果てなく愚かしく、しかし、その光景は美しい……」
詩的な呟きが乙姫と絹夜に届いただろうか。
チロルは二人に背を向けて来た道を一人、戻った。
* * *
保健室と校庭を繋ぐ裏口を開いて庵慈は足を放り出し、そこに座った。
夕日が綺麗だ。とても、とても。
「先生」
その背中に衣鶴は声をかける。
「黒金絹夜が白銀を狙っているよ」
「…………そう」
庵慈は興味が無いように、それとも黄昏るかのように遠くを見ていた。
「いいの? 白銀が死んじゃっても」
「…………」
答えは無い。
衣鶴は肩をすくめて肩にかけた鞄を背負いなおした。
「じゃあ、さよなら」
伝えるべき情報は伝えた。後は彼女が決めることだ。
衣鶴が保健室をでて、数分もしないうちに、庵慈はそのまま床に上半身を投げ出した。
まどろむようなすみれ色の瞳に涙が浮かんでいる。
涙に煌めく視界に人影があって庵慈はその影をただ見つめる。
例えば、そこに最も会いたい人がいたならば。
「神緋……あ、庵慈、先生……?」
「え?」
シャツの上にジャージという理解しがたいセンスの男だった。
それが大上祇雄であることに数秒かけて庵慈は気がついて、目を瞬かせた。
「あ、あ、アァァァッ! ご、ごめんなさい! ごめんなさい!!」
途端に謝られてさらに状況が分からなくなってしまう。
なんだかよく分からないので放っておけば、どうやら目に溜まった涙にびびっているようだ。
この肝の小さい男には女の涙という物騒なものの対処法なんてわかりっこない。
「いやだわ、ちょっと欠伸をしたら」
目頭に手をあてて誤魔化すと、祇雄は簡単に胸を撫で下ろす。
「祇雄先生、どこかお怪我でも?」
できることなら性格全般直してやりたい。
「いえ、あの、ただの見回りなんですけれど…………」
そういう祇雄の手には綺麗な藍染の風呂敷があった。
態勢を立て直して、庵慈は問い返す。
「なんですけれど……?」
「ちょっと、お願いしたいことがありまして……話だけでも聞いてもらえませんか」
「……あ、はあ……」
真剣、というよりも切羽詰った祇雄の様子に庵慈は珍しく押された。
どうせ大したことではないのだろうけれども、追い返す口実も思い浮かばなかった。
「俺、なんつうか、庵慈先生のこと、そんなすごい魔女だなんて知らなくって……」
いきなりぎゅっと風呂敷の小包を握らせて祇雄が迫る。
「これで」
「は、はい?」
開いてみれば分厚い一万円札の束だった。
「な、なんじゃコレ!」
驚愕のあまり自分のキャラも忘れた庵慈の手を握って祇雄が熱っぽく語る。
「俺の、ウルフマンの呪いをどうにかして欲しいんです! 知らないうちに誰かを傷つけているんじゃないかと思うと……!」
「って、言われても……」
自分でウルフマンの儀式を執り行ったのなら自分で解除するしかない。
だが、祇雄の場合、解除方法が分からないのだろう。どうしてそんなことをしてしまったのか頭が痛くなるばかりだが、現状は変わらない。
それに、彼には悲観的にはなってもらいたくなった。
ウルフマンとはいえ、自分で呪ったその身は生きている。
「出来ません……」
「そんな、全財産なんです!」
「お金の問題じゃないんですけど……とにかく、困ります!」
風呂敷に包みなおして現金を返すが、祇雄は他の案を考えようとしていた。
「無理です、祇雄先生。あなたが使った術式方法がなんなのか、その時あなたは何を思ったのか、使ったのか、願ったのか……。
その全てが分からないと、手出しできません」
自分にはどうにもならない。
ウルフマンになってしまったものがどうしようもないことを庵慈はよく知っている。
「でも、方法はあるはずです、何か……」
「無いわよ!」
鋭く庵慈が一喝した。
その祇雄の希望を打ち消すように。
「…………無い、です。ごめんなさい」
「…………」
メガネを外してデスクに置くと庵慈は祇雄に背を向けたままになった。
「すいません……ッ! すいません!」
何度も続く祇雄のよく分からない謝罪の声。
それがやんだと思ったら今度は鼻をすする音が情けなく続く。
仕方なく庵慈は振り返った。
頭を下げたままの祇雄が全財産だという風呂敷包みをぐしゃぐしゃに握りつぶしている。
庵慈にはこの男がなんどもこうして頭ばかり下げて泣き伏せてきたことがわかった。
身体を鉄で焼かれたことも無いだろう。裏切られてうち捨てられたこともないだろう。
家族もいて、友人もいて、仕事もあって、それなのにどうしてこうも怯えるのだ。
「じゃ、じゃあ、俺もう行きます。本当に、ごめんなさい」
まだ鼻水をすすっている祇雄が頭を上げようとすると、視界に庵慈の足が入った。
下から上に辿るように視線を上げて、顔の見えないうちに両脇に彼女の腕が入る。
「あ、え?」
たじろいでもものすごい力で背中を締め付ける庵慈。
祇雄は棒立ちになって発作に苦しむような庵慈を黙ってみているだけだった。
「助けられなくて、ごめんね……何もできなくて……!」
その言葉が自分に向いているのではないと分かっていて祇雄は両手を下げたまま何も出来ない。
抱きしめ返せるほど器用であれば、何もここで悲しくはならない。
<続く>
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