NOVEL 天使の顎 season2 ジュブナイル編
10 *魔喰/MAGU*4
「牧原め、怖気づいたな」
透明な液体を湛えた大きな紅の杯に一輪の彼岸花が浮いている。
その杯を殺は丁寧に両手で支えながら苦々しく呟いた。
杯の中には彼岸花の他に小さな桜貝がいくつも沈んでおり、波も振動も無い水の中でずるずると動いている。
正座を崩して立ち上がると、殺は部屋中を照らしていた蝋燭一本一本に杯の水をかけて消していった。
「不死の狼ならばあの男を止められるも…………」
口惜しい。
とにかく、今回の襲撃は逆にこちらの戦力を極端に減らしてしまった。
まんまと罠にかかったのだ。
これを聞けばさすがの温厚な、冷静な部長も心穏やかではないはずだ。
牧原の撤退を理由に殺も狼の森に返す。
多くをとられたのは誤算だった。
だが、全てが無駄だったわけではない。
封魔の力をもってすれば黒金絹夜も自分達と同様、極端な能力の低下を見せる。
次を万全に整えれば…………。
殺は暗闇の中、すでに次の策略をめぐらせていた。
* * *
氷の割れる美しい音がほの暗いろ廊下に広がった。
「わーはははははは!! この超美少女マロンちゃんにかかればこんな連中、木っ端微塵よ!」
廊下に散乱したのは祝詞のブリザードブレスで凍りついたウルフマンであるが、今はもう原型をとどめない。
「このッ、くのッ!!」
すでにウルフマンたちは撤退を決めたのか、ここに残っているのは祝詞によって氷漬けにされているものと、乙姫の琴に眠らされているものくらいだ。
それをユマが蹴り倒しては粉々に砕いている。
眠っているものも、祝詞によって冷凍され、ユマによって粉砕されるのだろう。
無敵モードでおおはしゃぎなユマとそれに付き合って冷気の息を吐く祝詞。
一方で、チロルと乙姫は微妙な距離を置いていた。
「怪我は、無いな」
「うん…………」
あの金のワイヤーが完全に守っていた。
触れるだけで皮膚が裂ける合金の糸はチロルが腰に巻きつけていたキーボードを操作すれば簡単に解けてしまうような単純なトラップだが、
ウルフマンには効果覿面だったことに違いない。
「囮に使ったことは申し訳ない。だが、乙姫たちを守りながら戦うとあっては私には他に思いつかなかった」
「うん、いいの」
乙姫には、それが正しく、効果的であったことは理解している。
それに、うまくいったのだ、罠に関しては文句は無い。
むしろ、完全に被害なくことをなしえた彼女がまたすごいと思える。
だが、どこか、それを理由に憎みたい気持ちがあった。
とにかく彼女が許せなかった。
「チロちゃん、謝りすぎ。大丈夫だから!」
無理矢理明るく振舞うとチロルは無理矢理苦笑する。
音を立てて何かに亀裂が走ったのがわかった。
許せない。
「ともかく、本当に無事でよかった」
手を差し伸べるチロルの手を握って乙姫は大げさに頷く。
感情に任せてその手を握りつぶさないように乙姫は耐えた。
「チロちゃんもね」
許せない。恐ろしい。あまりに眩しい。
欠陥の無い冷徹さ、欠陥だらけの感情。誰にでも頼られ、皆を守ろうとする存在。
足手まといにならない、ただそれだけでうらやましい。
こんなにも恐ろしい理不尽な感情が自分の中にあると思うだけで自分も許せない。
「乙姫」
「!?」
名を呼ばれてはっとした。
目の前ではチロルが心配そうな表情で首をかしげている。
「…………あ」
「乙姫、封魔の香水のせいで調子が悪いのだろう。もう、帰ろう。後は私達が始末をつける」
「…………」
慈しみを知っている目だった。
青い光が優しく、乙姫は自分の感情を彼女が良くわかっているのではないかと不安になる。
だが、それも調子が悪いせいだとけりをつけて、乙姫は諦めたように何度も頷いた。
「あ、それと」
乙姫が踵を返す前に、チロルが呼びとめ、小さなガラスのビンを彼女の手に握らせる。
”治癒”の小瓶だった。
「これ…………。だめだよ、チロちゃんが使ったほうがいいよ!」
チロルの身体はウルフマンの大群から攻撃を受け、黒い衣装にべっとりと血がついている状態だった。
だが、彼女の顔色はいつもと同じように小奇麗だ。
「私は必要ない。いざというときのためにとっておいて欲しい」
「…………。あ、チロちゃん…………」
「なんだ」
「…………ごめんね」
震えてうまく言葉にならなかった。
それに背中を向け、チロルは仲間を見やった。
「乙姫、お前はいつでも正しいよ。誰か否定する奴がいるなら私が肯定する。
お前が私を否定しても私はお前を許そう。私はお前にそれしかできない、しかし、それができる。
おやすみ、乙姫。お前が苦しまないように祈っている」
そうして闇に紛れていく小さな黒い影。
解き放つような、諌めるような言葉は彼女の気持ちを知ってのことだろう。
彼女は恐ろしく、眩しい。
何故だろう。
彼女の言葉に気持ちは落ち着いたのに、乙姫の”魔”の部分は酷く震えていた。
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