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NOVEL 天使の顎 season2 ジュブナイル編
10 *魔喰/MAGU*1
 冷たい轡。
 鉄の轡。
 両手の枷の先には鉄の重石。
 そんなもので自分の罪が償われるとは思わなかった。
 暗闇に閉ざされた場所。
 本当の暗闇。
 何も無い。
 そのまま自分自身の存在も疑ってしまいたくなる。
 重石の重たさ、轡の冷たさが現実を教えていた。
 やることもなく、必要以上の光を与えられない生活。
 ただ、できるのは、空間に垂れ流しにされている聖歌を聞くことだけだった。
 苦しい。
 狂しい。
 繰るしい。
 目が回る。
 感じる自分の中のうずまき。
 何処までも続く螺旋階段。
 我を救いたまえ、そう細く清らかな声が歌った。
 ”恐ろしい御稜威の王よ、あなたは救われるべき者を無償でお救いになる。
 いつくしみの泉よ、私をもお救いください”
 神にすくわれることだけを望むおこがましい聖者の歌。
 お前たちが愛すべきは神ではない。
 隣人だ。

                   *                *               *

 鼻腔を香ばしい香りが刺した。
 自分が眠っていたことにも気がつかず、絹夜は驚いてあたりを見回した。
 警備室。
 奥の台所から物音が聞こえる。

「…………風見?」

 だとすれば即刻退避だ。
 だが、薄汚い暖簾をちょっと捲り上げて顔を出したのは赤渕のプラスチックメガネが胡散臭い青年だ。

「そんなにチロルがよかった?」

「俺は生き残りたい」

 意味深に呟いた絹夜。
 頭がしゃんとしない。
 どうしてここでぼさっとしているんだ。

「魔女部だって、今日仕掛けるかわからない。だが、それでも。それでも、君を潰されるわけにいかないという面目。建前だけ」

 卓郎が大真面目な顔をして机に載せたのは旗のたったチャーハンだった。
 卓郎と、自分だけであのペンギンは何処に行ったのだろう。
 ともかく、その旗のついたチャーハンは二皿、絹のような湯気を上げていた。
 旗の一つは、イギリス、一つはアメリカだ。

「…………」

 沈黙で責めると卓郎が眼鏡越しの目を丸くした。
 そして、すぐに深刻な顔つきになる。

「イタリアはね、なかったんだ……」

「そういうこと言いたいんじゃねぇよ」

 手早く突っ込むことにもいい加減なれた。
 NGの半分は天然で出来ている。
 だからといってその暴走を許してはいけない。
 誰も突っ込まないなら自分で止めるしかない。

「じゃあ、早く食べちゃって。チロルのよりは絶対にうまいから」

 比較対照が恐ろしすぎる。
 絹夜はむっとして跳ね除けようとした。
 だが、身体が正直に空腹を訴える。

「…………」

 吸い寄せられるように卓袱台の前に座った絹夜。
 レンゲを持つ前に彼はイギリスの小さな国旗を引っこ抜いて卓郎のチャーハンにつきたてた。

「独立戦争でも大恐慌でも起こしていろ」
 
「きゃー! タスケテー! ルーズベルト〜!」

 卓郎のエキセントリックな悲鳴は気にしない。
 目の前の食事が食欲をそそる。
 こんなことはなかったはずだ。
 食事は最低限の栄養摂取で、それが不十分でも気力でどうにか生きてはいられた。
 まずくても、味がなくても、咀嚼し嚥下する。
 ただ、それだけだった。
 それだけだったのに、今は、腹が減ってうまいものが食べたいという気が起こる。

「…………俺は、変わったな」

 小さく呟いて黄金色の米粒を口に運ぶ。
 咀嚼して感じる味。
 鉄の轡の端から流し込まれる得体の知れない栄養剤とは違う温かい確かな有機物。
 麻痺していたことにも気がつかなかった。
 暗い牢獄は感覚を全て奪って、しかし、それでも取り戻すことが出来る。
 自分は思ったよりもずっとシンプルな生き物だ。

                 *                 *                *

 屋上のフェンスの上、チロルは腰をかけて天下を見下ろす。
 月はあまりにも眩しく光り、遠くまで見せた。
 強風にあおられればすぐにでも落ちてしまいそうな小さな身体。
 黒い衣装はまるで雨風さらされた黒錆びた風見鶏。
 微風が頬をなで、彼女は目を閉じる。
 歓喜して荒れ狂う”魔”。
 笑うような狼の声。
 感知する。
 そして、涙を流す。
 歌うような狼の声。
 でも、その本当の意味は悲愴。
 広げた感覚に良く知ったものが引っかかってチロルはフェンス内に下りた。
 彼女はあんなところに上っていたら心配をするだろう。
 ゆっくりと、様子を窺うようにドアが開いて、彼女は姿を現した。
 綺麗な藤色の着物が月光に眩しい。

「チロちゃん」

 細く、怯えているのに芯は強い、まるで弦を弾いたような凛とした声だ。
 彼女の異変には気がついている。
 だが、それをあえて助言して導くことは出来無い。

「すまない、無理矢理に巻き込んでしまって。感謝している。都合よく期待させてもらっているぞ」

 彼女が何を言いたいかわかっている。だからこそ、話題を捻じ曲げてチロルは乙姫が返事をしにくい言い方をした。

「あ…………うん」

「狼どもには乙姫の琴が有効だ」

「チロちゃん」

 そんなこと言いに来たんじゃない。
 もやもやとした想いが形になっていく。
 ダメダ、このまま何も言えなかったら自分はチロルを、この聖人君子の友人を嫌いになってしまう。
 そんな自分を嫌いになってしまう。

「お前は私が守る。いや、皆は私が守る」

 断言したチロルの目を覗いて乙姫は言い出す機会を完全に失った。
 黙って頷く。
 自然に笑みを浮かべることが出来た。
 乙姫はそう思っていたが、それすらもチロルには分析できている。
 彼女の目に、耳に入るものは総じて真実なのだ。
 辺りが紺の帳に支配されても青い瞳の輝きが失われない。
 どんなものにも惑わされない意志の強さを示すようなその目で乙姫を射抜いてチロルはそれ以上言わせなかった。

「そろそろだな。先に保健室前に行ってくれ」

「一緒に行かないの?」

「ああ、ちょっとな」

 何かを隠していることは歴然だった。それでも口を割らないだろう。彼女はNGだ。
 論理的に正しく、道徳的にも正しいのがチロルであり、論理的に正しく道徳的に道を踏み外しまくっているのがネガティヴ・グロリアス。
 よくその意向をチロルが受け入れるものであると首を傾げたくなるが、頭の祝詞の決定は絶対らしく、信頼すら受けている。
 その祝詞が今回の作戦を立てた総指揮官にあたる役目だ。
 安心と同時にやたらと不安になるのは何故だろう。

「では、私は行く」

「…………うん」

「すまない、乙姫……」

 チロルが逃げるように背中を見せた。
 それを乙姫は目だけで追う。
 とうとう言えなかった。
 胸のもやもやが膨らんでいく。
 憎んでしまう。憎んでしまう。
 それはとても恐ろしい。


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