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NOVEL 天使の顎 season2 ジュブナイル編
9 *封魔/Seal*1
 テニススコートから伸びる健康的な素足。
 ラケットを持つ細い腕、身を捩るたびにまくれ上がる白いシャツ。
 黄緑色のボールが往復するコートの一方は優等生の風見チロル。
 そして、もう一方は普段おっとりとしている清楚可憐な少女、藤咲乙姫だった。
 精密機械のように軌道を読み、そして打ち返すチロル。
 リズムをとりながら身体を揺らして危なげながら素早く対応する乙姫。
 何度もボールがいったりきたり、クラスメイトの視線もいったりきたり。
 体育の授業だというのに他の誰もが手を休め、さらには校舎からも見物人が窓から上半身を乗り出している。
 文武両道のチロルと、トロ臭い乙姫が張り合っているとなるとこれは意外で面白い勝負だ。
 何度も打ち返す互いの一球。
 何度も鳴るシャッターの音。

「風見せんぱ〜い、頑張ってくださいよ〜!」
 
 フェンスの外からカメラを構えた小林が一人興奮した様子で唸る。
 制服を着ていなかったら完全に変質者扱いだ。
 相変わらず例のファンクラブの鉢巻をつけて授業を抜け出してまで追いかけているあたり立派である。
 とはいえ、彼が狙っているのは風見チロルのチラショットであって、彼女を応援しているようでしているわけではない。
 もう一枚、とカメラを向けたその瞬間、小林の顔面はカメラごとフェンスに押し付けられた。

「何をやっている……」

 嫌味で、自信満々なこの声。
 小林は身構えたまま振り返った。
 そこには、あの陰湿神父、黒金絹夜――と、思いきや、ごく普通の体育の授業中の学生――そんな姿のやっぱり黒金だった。
 上がった左足で後頭部を思いっきり蹴られたと判断した小林は早速紳士的態度で応じる。

「突然後輩の後頭部にお蹴りをお入れになるとは、随分お腹立ちになっていらっしゃるんですねッ」

「俺が言うのもなんだが日本語間違っているぞ」

 絹夜はコートの中に目を向けた。
 そして眉間に縦皺を刻む。

「騒ぎの中心がアレとは……」

 睨み付けるように絹夜は二人を見る。
 その表情はどちらかというと遊びで楽しんでいるとは思えないものだった。
 だが、乙姫はもうスタミナが限界らしく、チロルは鉄のように眉一つ動かさない。
 見るからに風見チロルは手を抜いている。
 それを絹夜は察してさらに事態の理解に苦しんだ。

「ところで、黒金先輩」

 返事の無い絹夜に小林は言った。

「ジャージ、似合いますね」

 ガメシャアアァァァァァッ!
 金網模様の痣が出来るほどフェンスに顔面を叩きつけられる小林。
 確かに彼の言うとおり、赤いラインの入ったジャージは凡個性的容姿の絹夜には似合っていた。

                *                  *                 *

 結果は3−0、チロルの圧勝だった。
 試合内容はどの試合も、乙姫がハーフポイントまでたどり着くとチロルが追い抜いてセットアップ、
 という残酷なもので、まるで喧嘩でもしているのではないかと影で言われたりもしたが二人は仲良く着替えて教室に向かう。
 先に勝負を挑んだ乙姫と、力の差を見せ付けたチロル。
 ギクシャクしているのか、そう周りは心配するがチロルも乙姫も普段どおりに振舞っていた。
 何より、風見チロルはそんなことがあれば隠そうとはしない。

「乙姫、昼ごはん食べに行こう」

「うん」

 その会話を中間で聞いていた絹夜も特に何か変わったことがあったとは思わなかった。
 例の如く警備室に誘われたが今回は巻き込まれたくない。
 面倒を感知して絹夜は断って購買に向かった。
 ちょっと出遅れた時間だ。
 もしかしたら何も無いかもしれない。そういう時はそういう時だ。
 購買部は二階端にある。
 狭い廊下を人だかりが塞いで通ることも出来ない。
 並ぶのも面倒で絹夜は近場の壁に背を預けて人の波が引くのを待った。
 いつもなら十分もすれば引くはずの波。
 だが、今日は遅い。
 人が多いわけではなく、単純に商品の受け渡しの速度が遅い。
 何をもたもたしている、と周りからブーイングが上がるが、それでも速度が変わるわけが無い。
 二十分して、やっと購買のショーケースの中身が見える程度になったが、そのショーケースの中はほとんど空だ。

「えーっとね、えーっとね……牛乳と、メロンパンと、ポテチ。あー、あとこれとコレと此れ」

 そして最後の品を掻っ攫っていく小さな女子。
 小学生が紛れ込んだのではないかと思うほど小さな彼女の身長はガラスのショーケースに並んでいた。
 かわいこぶっているのか本当に身長が足りないのか、ユマは背伸びで料金を払って受け取る。
 振り返って絹夜と視線を合わせるとユマはにやりと他人には絶対見せないであろう不敵な笑みを浮かべた。

「残念だったな、黒金。今ので完売だぞ」

「牛乳? カプチーノじゃなかったのか?」

「のうがぁッ! な、なんでお前はそれを……!」

 正体のばれた悪役のようなポーズでユマは固まった。
 当然卓郎がべらべら言いふらしているわけだが、それを言うとまた面倒な話に発展しかねない。
 肩をすくめて誤魔化すとユマは拳を握り締め、威嚇するように言う。

「他のヤツに言ってみろぉ! また呪ってやるからな!」

「カプチーノに呪い殺されるんじゃ死に切れんな」

「ムギャー!」

 ユマの奇声に予鈴のチャイムが重なった。
 予鈴から本鈴まで五分だ。

「やば。いらんもんにかまってるから時間が!」

 声をかけて構ってきたのはユマのほうだが、絹夜はそこでまた話を盛り上げる気は無い。
 文句のいくつかを聞き流して自分もその場を離れようとした。
 帰ろう。面倒だ。

「ちょっと、君」

「…………?」

 周りに人がいないことを承知で振り返る。
 ショーケースの向こう側で男が笑っていた。

「…………?」

 購買員、にしてはどうにも派手な印象だ。
 いつもなら鈍そうな四十路の女性がニコニコとしながらやり取りしていた購買部。
 だが、今は別人がそこに居座っている。
 オレンジ色のバンダナに、サングラス、ヒッピースタイルの怪しげな男だ。
 年齢は、二十代とも三十代ともとれる。
 おにいさん、というには言いにくく、おじさんというには気の毒な男を認識して絹夜は下まぶたを持ち上げた。
 男はゆっくりとした動作で手招いている。
 電動式の招き猫のような、幽霊のような動きに絹夜は限界まで遠ざかって様子を見た。
 そのまま本鈴が鳴るまでにらみ合う。
 本鈴が鳴ってもにらみ合う。
 ぴちゃん、とどこかしらの水道で雫がこぼれる音がした。
 遠い教室では授業が始まっている。

「…………」

「…………」

 それでもまだにらみ合う。
 これはいつまで続くのだろう。

「…………何、やってんのぉ?」

 終わりはあっけなくやってきた。
 妖艶で、甘ったるい声。
 それが割り込んで首をかしげた。

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