NOVEL 天使の顎 season2 ジュブナイル編
6 *変動/wish*4
甘い匂いが鼻を掠める。
とても懐かしい感覚だ。
胸が締め付けられて、しかし、それが心地よく感じられる。
頭の中心と、胸の中心がぎゅっと痛む。
「起きて……」
オレンジ色の光がまぶた越しに目に届いた。
もう少し、夢を見ていたい。まどろんでいたい。
「起きて下さい、祇雄先生」
「…………」
自分が誰だか思い出して現実を取り戻すともう夢には戻れなくなってしまう。
とてもいい夢だったような気がする。
とても激しい夏の嵐の夢を見ていた気がする。
それもおしまい。
「ギオ」
「!?」
心臓が壊れそうなほど強く早鐘を打って上半身を跳ね上がらせる。
目の前には赤い髪の……。
「…………天使」
「?」
赤い後光を背負った彼女はくすくすと笑ってそれを否定した。
どうして笑うんだろう。
そうか、彼女は天使じゃなかったんだ。
夢うつつ、現実と非現実の狭間で納得をして祇雄はリアルを取り戻す。
ここは学園の中の保健室だ。
目の前にいる女はここの職員。
後光は夕焼けが窓から刺し込んでいるもの。
ただ、それはとても綺麗な光景だ。
「良く、眠っていましたよ、祇雄先生。きっと、仕事の疲れが溜まっていたのでしょう」
そうかもしれない。
自分が神経質で気が小さくて悲観的なのはわかっている。
そうかもしれない。
自分は疲れていたのだ。だから、たくさんおかしな夢を見る。
教師が保健室のベッドで寝ているなんて情け無い。
だが、どうして?
記憶の糸を辿ると曖昧だった。
最後の授業中にあまりに廊下がうるさかったから注意をしようとドアを開いて顔を出して、それから、それから……。
「?」
良くわからなかった。
保健医がその様子を見てまた笑う。
「俺、まさか、授業中に倒れたとか、そんな情けないコトになったんでしょうか?」
「半分正解。情けなくなんかありません。仕方が無いことです」
あんなものぶつけられたらね。
庵慈としては知らないほうがいいコトとしてその事実を隠しておくべきと判断していた。
知らないほうがいい。
知ってまたショックで倒れられても困る。
「祇雄先生、気持ちよく眠っているところ起こしてごめんなさいね。でも、時間が時間だから」
時計を見れば両方の針が下向きになっている。
最終下校時刻を過ぎていた。
「やべぇッ! 俺、今日、見回りだった!」
そんなことでこの世の終わりのような顔になる祇雄。
本当に噂通りの挙動不審っぷりで庵慈は嬉しそうに笑う。
まるで慌てるのを楽しみにしていたような笑顔だがそれに気がつくほど祇雄は冴えてはいない。
さっさと行動すればいいものの、祇雄はしばらくおろおろしてやっとベッドを降りた。
「俺、いつもはこんな凡ミスしないんですよ、本当に!」
必死に庵慈に言い訳をしているあたり小物である。
だが、庵慈はゆったりと、いつもの毒々しいものではない聖母のような笑みで頷いた。
「他の先生が代わってくれると連絡、ありましたよ」
「え、え…………」
「あんまりな状態だったんで、私がドクターストップかけたんです。いけませんでした?」
「そ、そんなことはない、です…………」
やや納得はいかない、そんな表情がありありとわかる。
口を尖らせて拗ねる様に庵慈は微笑んだ。
「祇雄先生、おかしい」
「え、そんな」
そっと庵慈の手が伸びる。
祇雄の頬に当たったそれはそっと撫でてくすぐった。
「顔にシーツの痕がついてる」
「あ」
庵慈が噴出す。
祇雄はがっくりと肩を落とした。
「保健室のベッドがそんなに気に入りました? 自室の一人寝じゃやっぱり寂しい?」
「…………」
上目遣いの庵慈の目に再び魔性が灯る。
ねずみをいたぶる猫のようにじっと見つめられて祇雄はぞくりとした感覚を覚えた。
そして彼女の言葉を反芻すると嫌でも顔が赤くなる。
「私はいつでもここにいますから。何かあったらご相談くださいな」
「あ、は、はい」
どもる祇雄をさらに弄ぶように庵慈が彼の前髪をわける。
熱っぽい眼差しから目をそらして祇雄は横を通りながら言い訳を呟いた。
「俺、そんな柔じゃないですから。あ、そうだ、デスクまわり片付けないと……!」
「あん、祇雄先生」
せっかくのおもちゃに逃げられて庵慈は名残惜しそうに背中を見送った。
だが、種は十分仕込んである。
あとは今夜を待つだけだ。
「さぁ、先生をたっぷり楽しませるのよ、絹夜君…………」
* * *
犯人は現場に戻る。
その通りではないが、チロルの魔の手から逃れた絹夜は再び屋上に戻っていた。
実際に、放課後一番に絹夜の捜索を開始したチロルの盲点を掻い潜って見つかることなく済んでいる。
あのお節介は本当に病気だ。
あそこまできて、どうして他が迷惑がらないかがわからない。
チロルの奇行に周りも困った顔をしつつへらへら笑っているが面白くなかった。
「チッ」
だが、あの小うるさいチロルに関わらないとどうも魔女部に関わる情報が無い。
夕暮れ時まで屋上で模索していた絹夜だったが、結局、暗中から脱出できなかった。
紫色が支配しはじめた空を一度仰いで出口に向かう。
扉を開いて悲鳴を聞いた。
「わきゃ」
「?」
無遠慮に胸にぶつかってきたのはシルクのような綺麗な黒髪の頭だ。
ジャカジャカとロックミュージックを垂れ流したヘッドホンには見覚えがある。
「あ」
顔をあげたのは乙姫だった。
「ご、ごめんね、絹夜君!」
「…………」
そのまま無視して進もうと思うと、乙姫が強引に腕を掴む。
「ちょっと」
「あ?」
「お願い」
「…………」
何か思いつめたような真摯な目で訴えかける乙姫。
面倒くさいとは思いつつ、絹夜は踵を返した。
もう一度紫色の空の下に出ると、乙姫が深刻な顔をうつむかせながらぽつり、ぽつりと言葉を口にする。
「絹夜君、ごめんね…………」
「用件はなんだ」
「う、うん…………」
「さっさとしてくれ。俺はもう帰るところなんだ」
「ありがとう…………」
そのわりに、乙姫の表情は硬いものだった。
「?」
「この前の、毬栗先輩の一件で、私、皆に助けられてばっかりだった……。
卓郎さんも結構痛かったみたいだし、絹夜君なんか、そのせいで大怪我しちゃったじゃない……」
「お前まであのひよこ頭の病気が感染したのか?」
「チロちゃんは、絹夜君のこと心配してるんだよ!」
「バカ言え。あいつが心配なのは…………」
そこで絹夜は言葉を止めて乙姫を見ていた。
チロルは乙姫を心配しているのだ。
もしくは、自分が敵とならないか監視している。
「違うよ……」
絹夜の意志を酌んで乙姫は否定した。
その目が哀愁を帯びて、一瞬で消える。
「違うの」
もう一度はっきりと否定して乙姫は、笑った。
「チロちゃんはね、強いんだよ。誰だって好きなんだよ。皆が大好きなんだよ。だから、ああやっていっつも心配してる。私なんかのことも……」
「それが迷惑だと伝えておいてくれ」
「…………。無理、だと思うよ。私だってちょっと重く感じるけど、チロちゃんは無理だと思う」
「…………嫌われたもんだな」
「違う! チロちゃんは、それに、絹夜君も!!」
「?」
乙姫の怒りが爆発したかのようだった。
「自分を犠牲にしすぎるよ! もう戦わないで! チロちゃんも、絹夜君も、失いたくない!!」
「…………ッ」
赤く染まる教会の絨毯。
フラッシュバックする忌々しい過去を堅く封印して絹夜は歯を食いしばりながらやっと乙姫に向き直った。
まだ肩で息を整えている乙姫。
赤くなった頬に涙がこぼれる。
「守ってくれてありがとう、でも、見てられない……! お願い、危ないことは止めて!」
「何が言いたい」
「魔女部には手を出さないで!! それでもというなら、私は止めるよ!」
「…………!?」
絹夜が切れ長の目を丸くした。
彼女が魔女で、魔女部に入っていることは予想が出来た。
だが、乙姫がそんなことを面と向かって言うのは予想外だった。
「…………。宣戦布告、なのか?」
「絹夜君次第……」
「…………」
「魔女部には……手を、出さないで…………」
苦々しく乙姫がやっと言葉を搾り出した。
風が何度も吹き抜ける。
絹夜は思わぬ異常事態に呆然と彼女を見つめるしかなかった。
<続く>
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