NOVEL 天使の顎 season2 ジュブナイル編
5 *誘惑/sexy*4
甲高い声が月夜を貫く。
絹夜が苦々しく舌打ちをした時、絹夜と同じように囲まれて術を使う隙もなくユマの香りに沈みそうになっていた乙姫は気がついた。
何か、別の香りがやってくる。
ユマのものとは比較にならない、濃厚で、粘っこくて、キツイ。
「うぇ……」
わずかに吐き気がして、さらに意識が朦朧とする。
だが、その香りに反応したのか、男子生徒たちが動きを止めた。
「な、何、この悪趣味な香り!」
ユマも奇声を上げて鼻に手をあてる。
タイミングを見計らったのか、とうとうそのシルエットが絹夜たちの背後から姿を現した。
「悪趣味はあなたでしょう! 私の絹夜君を下僕だなんて!」
何を好き勝手言ってやがる。
絹夜は思うものの言葉に出来ない。あまりにどぎつい薔薇の香りがユマのそれより意識をぼんやりとさせる。
いや、ぼんやりとではない。はっきりとしてくるが、確実に自分の意識とは別のものが働いている。
「いいこと、彼らはあなたの魅力に従っているのではないの。魔女たるもの男を誘惑するなら生かして誘惑しなさい!」
赤毛を派手に掻きあげて庵慈が強烈な薔薇の香りを撒き散らす。
いつもよりがっつり開いた胸元。いつもより短いスカート。
眼鏡を外して胸元のポケットにしまう仕草がまた艶っぽい。
おお、と男子生徒から感嘆の声が漏れた。
「ほら、私のほうが可愛がってあげるわよ」
庵慈が手招きをしながら熱い溜め息をこぼすと、目に輝きを取り戻した男子生徒たちが庵慈の元に我先にと駆け出す。
「え? え、エーッ!?」
ユマ同様、目を点にする乙姫。
どうやら庵慈の悪臭、もとい、やたらめったら強烈な薔薇の香りは男にしか効果が無いようだ。
庵慈の足元にすがるように、崇めるように男子生徒たちが完全に集って庵慈が勝利の高笑いを挙げた。
――春の夜の、月夜を砕く、高笑い。
「女の魅力では負けなくってよ、おーっほっほっほっほほほ!」
「こ、このぉ!!」
ならばとユマは庵慈に直接香りをばら撒こうとステッキを振り上げる。
だが、そのステッキははじかれ、宙を舞った。
「!?」
「昼間のお返しだ」
校門前には煙を吐く銃を構えた金髪の少女、風見チロルの姿があった。
その後ろにはペンギンを担いだ警備員も健在だ。
「〜ッ!!」
チロルの銃が照準を向けている。
その限り、ユマに抵抗の余地はなかった。
一方、まだ戦闘中の絹夜。
「絹夜君、特等席よ〜」
「…………」
庵慈の毒気、もとい、色気は意識朦朧で隙だらけだった絹夜の神経に食いついている。
野郎どもを踏んづけながら歩み寄ってくる庵慈。
それを怯えるように殺気を放つ絹夜。情け無いことに足が踏ん張っている。
なかなか強情な絹夜に痺れを切らして庵慈は見下すように反り返ってきつく言い放った。
「さっさとしろよな、下僕」
「…………ッ」
意外にも、それがトドメを刺したのか絹夜の脳内に選択肢が表示される。
一、下僕になる。
ニ、世界の中心で愛を叫ぶ。
「…………が、ぅ」
「絹夜君!?」
――三、文字通り悩殺されて意識を失う。
* * *
同じころ、学園の屋上にて、二人の男女が言い交わしていた。
「作戦は失敗でしたね、副部長」
通りのいい男の声だった。
「問題はありません。所詮、黒金絹夜は部長のお眼鏡にかかるようなもったいぶった存在ではないのです」
答える氷のような声。
だが、それに男の声は笑う。
「部長が聞いたら怒りますよ、きっと」
そして、男は屋上の手すりにつかまって遠くを見据えた。
茶の短髪と制服の上の白いコートがなびく。月の光を飲み込む瞳の下には赤い星が三つ並んでいた。
「副部長の不死身のウルフマン、たくさんやられましたね」
「あんなもの、いくらでも替えがあります。牧原、経理ごときのお前が口を挟む問題ではありません」
女のほうは、眼帯に手首に包帯という痛々しい出で立ちだった。
「ま、いいですけどー……」
経理の男は関心なさそうに返事をして身を翻した。
「どこに行くのです、牧原」
「寒いんで帰る」
さも当然の権利を主張するが如く牧原はのらりくらりとした動きで屋上を降りる階段に向かった。
その背中を忌々しく副部長の女は見ていた。
* * *
――初めて自殺したいと思った。
目を覚まして絹夜はまずそれを考えた。
だが、悪夢はまだ終わらない。
「き・ぬ・や・くん」
「…………」
起きてすぐ目を開いてそこにあるのはあの赤毛の女の笑顔だ。
赤い髪が淡い香りを醸しながら顔をくすぐっている。
「お・は・よ・う」
「…………?」
眉間に皺を寄せて起き上がると、そこは見覚えのある保健室だ。
何故ここに。
窓からは気持ちのいい光が射し込んでいる。
「絹夜君は昨晩、ここにお泊りよ〜」
「…………。はぁあッ!?」
彼にしては本当に珍しく大声を上げて驚愕した。
宙に視線を漂わせ、記憶を探る。
身に覚えが無い。身に覚えが無い。身に覚えが無い。身に覚えが無い。
身に覚えが無い。身に覚えが無い。身に覚えが無い。身に覚えが無い。
身に覚えが無い。身に覚えが無い。身に覚えが無い。身に覚えが無い。
身に覚えが無い。身に覚えが無い。身に覚えが無い。身に覚えが無い。
身に覚えが無い。身に覚えが無い。身に覚えが無い。身に覚えが無い。
(以下無限ループ)
「ぐがー…………」
「ッは!」
怪しげな音に過剰反応して絹夜が右を向くと、隣のベッドでチロルがペンギンを抱きかかえながらすやすや眠っている。
ペンギンが立てる怪しいいびきが気になるのか、時々もごもごと寝返りを打っていた。
さらにその奥のベッド、乙姫がきちんと整えられてそのまま火葬できそうな状態で寝ている。
「…………。おい、保健医」
「なあに?」
「次、紛らわしいいい方したら俺の代わりに三途の川で生態系崩れるまで魚と戯れろ」
「もう、可愛いんだから〜」
絹夜の鼻先に指を当てて庵慈は魔性の笑みを浮かべた。
第一、コイツが最初から出てきていればことは即終息したはずだ。
絹夜の考えを読んで庵慈が駄々をごねるように口を尖らせる。
「だって〜、だって〜、私もファンクラブ作って欲しかったんだもん〜。
チロちゃんに、ユマちゃんに〜、うらやましかったんだもん〜」
というわけでユマがかき集める人員を狙って絹夜たちを泳がせていた庵慈。
絹夜が殺気立つのも仕方ない。
「いやん、怒った。いいのよ、いつでも先生を襲って頂戴。それが魔女と神父の宿命なんだから」
「おい」
「あ、そうそう。ユマちゃんどうするの? 小林君みたいに魔力消しちゃうの?」
突然話をふられて絹夜は混乱したが、ユマをとっ捕まえたら絶対にやらせようと思っていることがあった。
* * *
異常事態だ。
全くもって異常事態だ。
「どうした、風見」
「…………」
「クックックック、どうしたんだ、風見」
ぎらぎらと鷹のように目を光らせた黒金絹夜は気がついたらしい。
チロルの顔色が変わったのは一週間前の化学のテストが採点されて返ってきてからだった。
当然、チロルにとって高校のテストなんて朝飯前だった。
事前に勉強するなんてありえないことだ。
だが。
「おい」
やたら横でにやにやしながら満点の用紙を見せ付けてくる絹夜。
チロルの脳内に選択肢が表示される。
一、無視。
ニ、隠す。
「…………」
おもむろに立ち上がったチロル。
そして、何かのスイッチが入ってしまったのか、絹夜にに襲い掛かる。
「三、殺すッ!」
一時間目からどたばたと荒れ狂う教室。これももう慣れた光景だ。
チロルの攻撃をヒョイヒョイとよけ、絹夜がチロルのテスト用紙をひったくった。
そして、その場で大声で点数を読み上げる。
「風見チロル、一点」
あたりが静まり返った。
当然、百点満点中のテストだ。
先日、絹夜のテストをバカにしていた分、あまりに酷い。
ぱしん、とチロルが紙を奪い取る音だけが響く。
「…………チロちゃん」
哀れみすら通りすぎた絶望的な呟きを乙姫が漏らした。
<続く>
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