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NOVEL 天使の顎 season2 ジュブナイル編
29 *遺言/Testament*1
 小さな椀に水をはって刷毛を浸す。
 毛先の中に水がいきわたってからそれを勢い良く画用紙の上に走らせた。
 真っ白な画用紙が水を吸って少し伸びる。表裏をぬらして、それを板に張り付けた。
 たて30センチ、横50センチほどのキャンバスは乾くまで少し時間がかかる。
 作業の合間が出来て衣鶴はカバンを美術室に置いたまま自分は保健室に降りる。
 アイスの一本くらいはあっただろう。
 そう思って戸に手をかけたときだった。

「神緋庵慈……いや、”真実の魔女”。法皇庁への裏切り行為でお前は手配されることとなる。
 それでも、絹夜につきたい、と言うのですね」

「その通りよ。法皇庁浄化班副長、黒金雛彦」

 雛彦と庵慈の言い交わす声に衣鶴は戸に伸びた手を引っ込めてしまった。
 法皇庁と魔女。
 その亀裂が埋まるはずが無い。

「手配書が届き次第、俺はあなたを狩るでしょう。ここは一つ、あなたも正式に法皇庁に忠誠を誓うのが得策ですよ」

「あら、珍しくご忠告をしてくれているの? 結構よ。法皇庁は厭ではないけれど、黒金代羽、それにあなたが厭。大ッ嫌い」

「お互い様」

 雛彦は庵慈の神経を逆撫でして、それでも自分は涼しい顔だ。
 彼にとって魔女というだけで神経に障ってそんなことをしているのかもしれない。
 ともかく、雛彦という男は衣鶴には理解できなかった。
 
「しかし、絹夜につこうというあなたを狩るのは気が引けるのです」

「あら、困ったブラコンお兄さんね」

「理想としては絹夜が法皇庁に頭を垂れればいいのです」

「でも、もう彼はそんな”生き物”ではなくなってしまった。法皇庁の手に負えるような軟弱な”生き物”ではなくなってしまった。
 人間として生きる人の子がどれだけ恐ろしいかあなたは知っていて?
 いいえ、誰よりもあなたは知っているわ。か弱い人の子として”魔”と戦い続けた誇り高い法皇庁のエージェントですもの」

 庵慈の言葉は少なからず馬鹿にしていて、少なからず賞賛していた。
 魔女である彼女にとっても、法皇庁は恐ろしい存在でありながら、か弱い人間のまま戦おうという強い人々だと知っていた。
 だから雛彦を嫌悪するし、ダイゴに惹かれたのだ。

「さて、あなたがどんな答えを出すのかが楽しみだわ」

 意地悪く言った庵慈の口調。
 まるで形勢逆転が決まったのか、雛彦はそれ以上言わなかった。
 まずい。
 即座に判断して衣鶴がドアの前を離れようとた時、すでに戸が開かれていた。

「おやおや。盗み聞きとは良くないですよ」

 衣鶴と視線をあわせた雛彦は驚いた様子も無い。
 にっこりとうまく微笑んでその場を何事も無かったように去っていった。
 衣鶴が保健室を覗き込むと同じように庵慈がニコニコとしている。
 こちらは付き合いが長いだけあって不自然に感じられた。

「偶然……立ち聞きしたわけだけど〜……」

 その後が続かずに萎んでしまった。
 しばらく黙っていると微笑んだままの庵慈が冷蔵庫を指す。

「アイスとクーラーが目当てで来てるんでしょう?」

 そういわれるも、今はそんなことよりも気にかかることがある。
 冷蔵庫のアイスを出していつも通り診察席に座ってかじりながら衣鶴はデスクに向った庵慈に問う。

「センセ、黒金につくの? 法皇庁と戦うってことでしょう?」

 デスクでファイルを広げた庵慈は生返事を返してしばらくペンを動かした。
 命を、未来をかける判断だというのにまるでどうでもいいことのように返事をした庵慈に苛立ちを覚える衣鶴。
 以前はそんなこと無かったはずだ。
 誰が何をしようと自分には関係ない、響いてきても避けるだけだと思っていた。
 しかし、今はそれを許さない。
 以前はそんな――いや、ずっと昔は確かに感じていた。
 ダイゴが死んで封印してしまったのだ。

            *                      *                     *

 紙のパレットに青をたっぷり乗せて青空を描く。

「いや、違う」

 青いラインを四本描いて衣鶴は筆をおき、キャンバスを作り直した。
 これは頭で描いている。
 キャンバスに何かが浮かび上がっているのを感じたが、何が浮かんでいるのか、色すらもわからなかった。
 今浮かび上がっているのは魔法陣ではない。
 そうではないが、それがなんなのかつかめなかった。
 無理矢理引き出そうとすると懐かしい想いが胸を逆撫でる。
 絶対に悲しい出来事だ。
 それはダイゴを機縁している。
 そこまでわかっていて、色すら見えなかった。

            *                      *                     *

「お前らさー」

 以下延々と続く卓郎の愚痴を聞き流しながら秋水とモブとチロルが口を動かしている。
 冷蔵庫に入っていた高菜を冷や飯にぶっこんでバターでいためた貧乏料理をうまそうでも無くまずそうでもなく口を動かすだけ動かす。
 人口密度の増加を気にしているのは卓郎だけなのか祝詞は卓袱台を前にしたチロルの膝の上にのっかって相変わらず軽口を叩いていた。

「メシ食うだけ食って無言なのはどうなんだよ。この沈黙が嫌なの。団欒しようよー」

「おかわり」

「へーい」

 チロルの冷めた要求にさっさと動く卓郎。
 それを見計らってモブと秋水も茶碗を突き出した。
 秋水は渋い灰色のどんぶりサイズ、モブは黄色地にクマの描かれた可愛らしいもので、
 どちらもチロルがお節介にもメシをたかる二人のために通販で購入したものだ。
 卓郎が三人分の茶碗を持って台所に引っ込んだところで秋水が魚の名前が入った湯のみの冷たくなったお茶をすする。

「風見大先生はあの眉なしの操作方法を良く心得ていらっしゃいますね」

 膝を立てながらすっかりくつろいでいる秋水にきちんと正座のままのチロルが答える。

「祝詞がやっているように私も真似ているだけだ」

「たっくんは構われたいだけだから」

 器用にひれをまげて肩をすくまるようなポーズをとった祝詞。
 何を言われているのか聞こえていなかったのか卓郎はきょとんとした顔で台所から出てくる。

「やれやれ、困ったチャンだな」

「何が?」

 茶碗を並べながら祝詞に聞き返すも答えを得られず卓郎は釈然とせず、しかし聞き出そうともしなかった。

「ああ、そういやあ、魔女部も実質解散という形になっているわけだが、なんでこうも皆々様はつるんでいるわけだ?
 嬢ちゃんたちや、マッキーに陣屋も。NGのお考えは黒金絹夜に入れ込んでるってことでいいのか?」

 茶碗を傾けつつ秋水がチロルと祝詞を窺うと、祝詞はふん、と軽く鼻を鳴らした。
 考えるようにヒレを結んくちばしを左右に振る。
 コミカルな動きではあるが、彼が考えていることはきっと面白いものではないのだろう。

「NGの目的はただ一つ。”神”の踏破だ。不完全な”神”黒金絹夜、”洗礼者”ヨハネ、”力”の<天使の顎>、どれか一つ潰さねばならない。
 敵は状況により、どれか一つ。状況により、全てだ。ただ、NGは今、黒金絹夜を利用してヨハネ一つを敵として絞っている。
 でも俺たちゃ信用ならねぇよ。いつ裏切るかもわからん。踏破のために誇りを捨てる、それがNGたる誇りだ」

「まあ、お前達はそういう”生き物”だもんな」

 一気にメシをかき込んで秋水がお茶で一服する。
 祝詞の放った言葉で見るからに卓郎が動揺していた。
 何かの変革を感じ取った秋水だが、特別声をかけることは無い。
 それが選んだ道なら止めたりはしない。

「ふぅ。なんだか冴えないメシも腹に詰めたことだし。持ち場に戻るか」

「あ、私も教室に戻る。ごちそうさま」

「…………」

 三人仲良く茶碗を空けたところで丁度良くチャイムも鳴った。

「はいはい。帰った帰った」

 追い出す卓郎の言葉に素直に応じ、だらだらと警備室を後にする。
 日ごろ、モブが何をやっているのかはわからないが彼も思い当たる目的でもあるのか足早に校舎裏に向っていった。
 振り向かずに教室に向うチロルを横目に、何歩か歩いた秋水が入り口に突っ立っていた卓郎の前までバックする。

「ネガティヴ・グロリアスって生き方はよ、最終的に神も己も否定し続ける生き方なんだろうな」

 チロルの後姿を顎で指しながらおどけると卓郎は頷いた。
 殺す権利を得るために己の心臓を差し出す死神どもだ。善悪を無視し、己のプライドをも利用する死神どもだ。
 あまりに正しく、正気じゃない死神どもだ。

「誰も彼もを否定して、やつらには何が残るって言うんだ」

「……何も」

 何も残らない。
 笑いあったことも、戦ったことも。
 だからこそ生きるには無理だった道だ。
 そうか、と秋水はほっとしたような表情を浮かべた。

「なんだかな。ずっと昔からつかえていたような気がしたんだ。お前に黒衣は似合わないってな」

「…………」

「いや、たいした意味じゃない。お前があのおっかない嬢ちゃんとは違うんだったらそれでいい」

「チロルが……?」

「そうだ。おっかないさ」

 声を潜めた秋水。
 すでに視界にチロルは無いが、それでも言葉を沈めるように言った秋水に卓郎は返答できない。
 チロル。
 その異質な雰囲気はわかっている。
 あらゆる意味で人間らしく、あらゆる意味で人間離れしすぎている。

「人間はなぁ、真っ暗な闇も怖ければ、強すぎる光も怖いもんだ。そうだろ?」

 同意を求められても卓郎は返事をしなかった。


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あきゅろす。
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