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NOVEL 天使の顎 season1 宇宙戦争編
session 8*WHEN A MAN LOVES A WOMAN*A
聡明そうな母親が言っていた。
彼女は、天使なんだと。
この世にどんな災厄が降りかかろうと、彼女がいれば大丈夫だと。
真っ白な廊下を歩いていくと、大きなガラス越しに真っ白な部屋が広がっていた。
 そこに、白い服の、天使が閉じ込められていた。
 ギオは母親の手をつかみながら訊ねた。 

「どうしてあんなところにいるの? 天使は、天国にいるんじゃないの?」

 敬虔なカトリックだった母の教えを忠実に聞いていたギオは幼いながらも神を恐れた。
 母が、この天使を天国からさらってきたのではないかと心配になった。
 天使はガラス越しにこちらを見ながら不安げな表情を浮かべている。

「そうね、そうだけれど、少し違うの。あの人は、天使になったの」

「死んじゃってるの?」

「そうかもしれないし、違うかも。さぁ、ご挨拶なさい。あなたがいつか困ったときに助けてくれるようにお願いしなさい」

「うん」

 ギオはガラスの前にたった。
 小さなマイクが取り付けられ、そこからの声を部屋の中に伝える。
 ギオはマイクにかじりつくように元気よく口を開いた。

「こんにちは! はじめまして!」

 困惑した天使は、ギオの母の顔を見て表情を探った。
 母は、小さくうなずく。
 天使も頷き返して、恐る恐る近づいた。
 ガラスを挟んだ反対側に、天使が座る。

「ねぇ、天使さんはどうしてそんなところに閉じこもっているの?」

 ギオの問いに天使は複雑な表情を浮かべた。
 不安げな、しかし、誇らしげな。

「世界から、怖いことを無くすためです」

 特別な声質だった。
 身体の中を洗われる様な、清らかな、透明な声だった。
 ギオは感動した。
 もっと、喋って!
 他愛のない質問を繰り返した。
 たくさんのことを聞いた。
 内容よりもその響きが忘れられない。
 ギオはその天使の元に何度も母に連れて行ってもらった。
 赤い髪、緑の大きな目、自然界の何よりも綺麗な声。
 彼女はその声を褒めると気恥ずかしそうにしながら歌ってくれた。
 ”エデンの東”。
 ギオはその天使が大好きだった。
 でも、天使がどうなるかは知らなかった。
 ただ、日に日に痩せていく天使のために、彼は言った。

「世界から、怖いことを無くすとき、もし、天使さんに怖いことが起きたら俺が助けに行くよ。約束だからね!」

 そのことははっきり覚えている。
 でも。どうして彼女は忘れてしまったんだろう。
 あんなに苦しそうだったのに、あんなに悲しそうだったのに。
 それが不思議で仕方なかった。
 体力温存のために夕方から眠っていたギオは夢うつつ、あの歌を聞いた。
 ”エデンの東”。
 床で寝転んだままうっすら目を開くと、紫がかった窓辺でアンジェラが鼻歌を歌いながらレモネードでジンを割ったものを傾けている。
 ジェラードは、いないようだ。
 そういえば、遠出用の日用雑貨を買いに言ってくるといっていった。
 陰影を持つアンジェラの横顔をしばし眺める。
 到底、天使には見えなかった。
 いくつもの戦いを乗り越えた戦士の顔をしていた。
 彼女は、変わった。別人になった。あの天使じゃない。
 声も随分と印象が変わった。
 物憂げな動きで目の前のテーブルにおいてあった簡易ラジオのスイッチを入れる。
 そのチャンネルは、毎日夕方から古い映画の挿入曲を流しているようで、レコード独特のざらついた音が流れる。
 今回は”WHEN A MAN LOVES A WOMAN”だが、ギオが知るはずもない。
 からん、とアンジェラのもったグラスの中で氷が鳴いた。
 遠くを見つめて何を考えているのだろうか。また、知らない男のことだろうか。
 ラッセルといったか、それがアンジェラにとって大きな存在で、裏切られたことは知っている。
 だが、聞けなかった。恐ろしい答えが返ってきそうだった。
 床が軋んだ。
 廊下のほうからだ。ジェラードが帰ってきた。
 その足音で起きたフリをしてギオは目をこする。
 豪快に扉が開いて、大きなトートバッグを抱えたジェラードが部屋の真ん中にドカンとその袋を下ろす。
 大漁だ。

「こんなにどうしたの?」

 アンジェラは窓から目を部屋に戻してバッグを覗き込んだ。

「どうしたもこうしたも、戦闘機と違ってトラックじゃ<天使の顎>まで丸一日かかるんだよ。
 さすがに丸一日運転しっぱなしじゃアタイも疲れるからLv3のコロニーで休んで再出発さ」

「そのときの食料ってわけね」

 アンジェラが腕を組んで何度も頷く。
 だが、ギオは納得いかないようで挙手をした。

「はい。何でLv3コロニーで買い物しないんだ?」

「ああ、Lv3コロニーはそれこそ地球軍の手が伸びてるからね。入港したら一歩も外に出らんないよ。密入したらばれないように出て行く」

「危なくないのか?」

「この世は金があれば少しの無茶は通る。門番に渡すもん渡せば入れてくれんのさ」

「なるほど」

 ジェラードはその筋では顔が利く。
 特別な危険はないようだ。
 楽しそうにジェラードが胸を張って仕切った。

「ようし、じゃあメシ食ったら出発だよ。」

* * *

「カプリコーン、帰還します…………!」

 今回も勝てた。
 いつも何とか勝てたが次が怖い。
 アンジェラ・バロッチェ不在の中、少女はその代わりになろうとしていた。
 もはや、復讐をしている暇はない。生き残らなければならない。
 敵から<灰の断頭台>という二つ名も頂戴した。
 カプリコーンは、驚くほどフラウに従順だった。
 カプリコーンが食らう感情、理性はまさしくフラウとの相性がよかった。
 だが、最近になって、自分がカプリコーンのパイロットであることに疑問を感じていた。
 ラッセルは、どうして自分に最高のパートナーを与えたのだろうか。
 それに、激情を食らうアリエスもアンジェラととてつもないコンビネーションを生み出していた。
 ラッセルはマグダリアに貢献していたのは事実だ。 

「嬢ちゃん、また難しいこと考えてんのか?」

 廊下をあることカルヴィンが呑気に声をかけてくる。
 この男は恐ろしく有能だった。
 フラウと共に戦闘に出てフラウの三倍の成果を出して帰還する。
 カルヴィンの乗っているスコーピオンとの相性はまずまず、といったところなのに格段に腕が上だった。

「現状打破をするべきなんでしょうか」

「…………。は?」

「いいえ、現状は、変わっていないような気がします」

「と、言うと?」

「やっていることは変わらないじゃないですか。観測員がレーダーで敵を捕らえたら出撃、討ち倒す。
 もともと、ラッセルは何を目的としてマグダリアに潜入したのかわかりません」

「ああ、まあな」

「でも私には彼が裏切ったようには感じられないんです。あまり長い間共闘していないからトリコさんにはわからないかもしれませんが、
 あなたはわかるはずです。ラッセルはどちらかというと地球軍を裏切ったように思えます」

 大胆なパラドックスにカルヴィンは眉をねじった。
 フラウは話を続ける。

「マグダリアに潜入しながら、なんだか仕事が完璧すぎます。むしろ、やり終えた感が私には……」

「そ、それは、ラッセルは、仕事を終えたから地球軍に戻ったってことか?」

「はい、マグダリアの士気は高まって最高の状態にありました。最高の状態に整ったからこそ彼は地球軍に戻った。
 最高の状態で去られたから私たちは彼を失うこと恐ろしさあまりに裏切ったと定義づけましたが、考えるうちに違う気がしてきて……
 少なくとも、ラッセルがマグダリアにきたことはプラスなんです」

「……そうか」

 本心はなるほど、と声を上げていたカルヴィンだが、あまり大きな反応をせずに、でも、と付け加えた。

「その話はあんまり人にしないほうがいい。特に……」

「柴卓郎には、ですね」

 カルヴィンは深く頷く。わかっているならそれでいい。
 卓郎は少なくともラッセルのように人を道具としか思えないような冷たさはもっていない。
 だが、容赦はない。
 そういう男だからこそ怖い。その死神は、優しくそっと、そして簡単に命を摘み取ってしまう。

「しかし、柴卓郎は何者なんでしょうか。ラッセル以上に挙動が納得できませんね」

「”殺す者”、”死”、死神、悪魔、天使、神とも俺たちは呼ぶ……そんな存在なんだろうよ」

 卓郎の言葉を引用してカルヴィンは肩をすくめた。
 この手の堅い脳みその人格は詮索させるとトリコの二の舞になりそうだ。
 だが、意外にもフラウもおどけた表情を見せる。

「そうですね。元来、死神って気まぐれですからね」

 まさか、それで納得をしたわけではないだろうが、フラウはそれ以上考えようとはしていないようだ。

「ところで」

 フラウの切り返しに首をかしげる。

「あなたが司令官長になるって本当?」

「え? なんだそれ?」

「観測員が食堂で噂をしていました。どこが出所かわかりませんが」

「…………」

 どこがじゃねえよ!!
 120%卓郎しかいねえだろッ!!
 カルヴィンは感情を押し殺し無理矢理下まぶたと唇の両端を持ち上げた。
 できの悪い人形のような笑顔でカルヴィンは笑い声を上げる。

「うははははははははは!! 所詮、噂はウワサ! 俺が司令官長になるなんてラクダのこぶがなくなるくらいありえねぇっての!!」

「なくなりますよ」

「え?」

 カルヴィンの無駄な努力むなしく笑顔が一瞬にして崩れる。

「ラクダのこぶ、栄養分蓄えてるらしいですから、餓死寸前になるとなくなりますよ」

「…………。いや、ぁ。え?」

 歯切れの悪いカルヴィンの返事が虚しく廊下に響いた。

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