繚乱のドラグレギス
第一節<始まりの前夜> Re:Deva
じりじりと炎さえも控えめに空気中の酸素を食っていた。
蛾が羽音を立てる事も憚られるような完全静寂の中で少女が一人、照らされた巨大な地母神像の前で静かに座禅を組んでいた。
橙色と紫の布を纏った華奢な少女だった。
淡く、僅かに桃色めいたチャイ色の長い髪、足首の上でゆるく組んだ両手には百と八連なる真紅の珠。
ざらついた壁面を照らしていた洞だが、ふと炎の全てが消えて辺りは漆黒に塗りつぶされた。
闇、静寂、己の存在すらも曖昧になる黒の中、少女は熱心に聞いていた。
そして声を聞き終えると闇の中で目を見開き、地母神像を見上げた。
暗闇の中でも彼女の目は、柔らかな翼を持った天女の姿を捕えていた。
重たい音を聞いて僧たちは顔を上げた。
時刻は真夜中、ようやく丑の刻を回ったころだ。
赤や青、鮮やかな色合いで塗装された柱の数々ははげかけ、かつては栄えていただろうことが知れる本殿、
その奥の洞窟に繋がる巨大な門戸を押しあけたのは青い顔をした少女だった。
中は空気の流れが無く、一度はいれば灯で酸欠になってしまう。だが、入る以外にそこを開いてはならない神聖な場所であった。
出口で彼女の無事を祈っていた僧たちは皆剃髪しており、男性ばかりだが出てきた少女に恭しく礼をした。
少女はこの寺でも特別な存在だった。
ぺたり、と寒空の下で少女の裸足が儚い音を上げる。
ぺたぺたぺた、と階段を下りるとその場に座り急に両膝をつき前のめりになる。
「リデーヴァ様!」
若い僧がそれを抱きとめると、彼女は頭を振りながら無理やり体を置き上がらせる。
「夜明けと共に発ちます」
少女の美しい声、そして来るべき時が来たという意味の言葉を聞いて僧たちはおお、と声を上げた。
それは神々しい瞬間を目にした感嘆であり、別れの時を惜しむ悲しみでもあり、予言が動きだす様への喝采でもあった。
無事と健闘を祈る経文が上がる中、彼女は支えてくれた僧に礼を言い、一人で本殿に向かう。
神への、守護の、勇ましい、それらの経文は次第に折り重なるコーラスにかわり、本殿の中にまで響き渡る。
本殿のきらびやかな装飾の中、埋もれた大僧正の正面、絢爛な模様の上に正座し深く一礼したまま少女は言葉を待った。
骸か聖者かわからないような風体の大僧正はしわがれて隙間風の様になった声で少女に言った。
「貴女様がこの寺にやってきてから十年。この日が来る事を恐れながらも心待ちにしておりました。
貴女のアートマンがお導きになる道、我々は我々のアートマンと共に祝福いたします」
少女は顔を上げ、両手を合わせ小さく唱えた。
「これまでの加護を忘れません」
そして少女は立ち上がる。
その背に大僧正は呼びかけた。
「モア」
少女が振り返る。
大司教は枯れ枝の様な腕を伸ばし、粒の大きな青い数珠を差し出した。
「貴女様の母上が残したものです、決意の日が来るまでは渡さぬ約束になっておりました。
貴女様がお持ちになってください」
数珠を受け取り、少女モアは深く一礼すると七色に光沢する瞳を大僧正に向け、柔らかく微笑んだ。
夜明けのざわめきがやってきた。
非活動時間と活動時間の境目、経文を上げ続ける僧の列を通り、茶ともいえる橙色のローブを纏ったモアは進んでいった。
進みなさい。進みなさい。
お前の足が消えようとも。
経文はまるで煽りたてるように空に渦巻いていく。
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