繚乱のドラグレギス
第七節<鱗片の一族> マドラスの亡霊
その夢の中で、アギはこれが夢だという事に気がついていた。
白くかすむ柔らかな宮殿内のオアシス、日差しの中、濃紺色の髪を緩く束ねた母が歌っている夢を何度も見ていたが、
いつもの場所に座っていたのはワインレッドのラバースーツを着たモアだった。
それでも変わらぬ異国の歌にアギは思わず一歩踏み出す。
すると、足元でシャン、と一つ黄金色の曼荼羅が刻まれ歌が中断される。
もう一歩踏み出すとやはり曼荼羅が描かれ、モアはじっとアギを睨んだまま痛む自らの胴に腕をからませていた。
来ないで。
口元がそう動き、そして唇からは重い赤の血が流れ出る。
傷つけちゃいけない。
そう思って足を止めたアギだが、暗がりから薄ぼんやりとしたテラ軍兵士の影が浮かび上がってサーベルを振り上げながらモアに近づいていた。
兵士の足元にも曼荼羅が浮かびモアは膝をつき悶え始める。
シャン、シャン、シャン。
サーベルを振り回し曼荼羅の上を駆け抜けるテラ軍兵士のその様がまるで儀式の舞いのようだった。
危ない!
視界に入った伸ばした己の手は白銀に輝いており、深紅に濡れていた。
胸が突然一杯に、溢れだしそうな痛みに満ちて乱れた呼吸に急かされて上体を起こすと、そこはもう冷たいコンテナの中だった。
かろうじて運転席の窓から光が漏れ出しており、その中でブラフマーが無理やり畳まれたような不細工な格好で座っている。
アギは暗闇の中で自分の手を確かめた。
肌色の、有機的な皮膚がそこにはあった。
夢の中で、いつの間にかブラフマーになっていたようだった。
ブラフマーは暗闇の中でも静かに輝き、ぐっすり眠っているようにも見えた。
あの戦闘の後、モアは乗り合わせていた医者達の手当てを受けたようだ。
命に別状はないようだが、それよりも深刻だったのは彼女が力を使うところを沢山の人間が見ていたということだった。
それに、彼女の治療した医者の誰かがモアの体に走る黒いラインの事を話したらしく、一時は騒然となり医療室からモアを移動させるのも一苦労だった。
やじうまや彼女を売ってくれと主張する商人。モアを非難する声も飛び交う中、彼女は何と思ったのだろう。
誰もがモアを白銀のマキナを操る人ならざる人殺しだと思っているが、実際に手を下したのはアギだった。
アギは自分がやった、ブラフマーには自分が乗っていたと大声で叫びたかったが、話をややこしくするだけだとリカオンに止められた。
どうにか自室に戻りアリサとモアを残し男三人はブラフマーの見張りも兼ねてトラックで休んでいたのだが、アギは浅い眠りを繰り返す。
初めて人を殺した。
ブラフマーのグリップを握る感触だけではなく、この手には何か重たいものがまとわりついているような気がした。
力と殺意。それだけで簡単に人を死に追いやることが出来るし、逆を言えば力のある相手に殺意を抱かれれば自分もそうなることもわかった。
あの瞬間。
あの戦闘で落ちるパイロットの顔をはっきり見たわけではない。
しかし、それが自分であるような気がしてならない。
お前は竜に乗って真っ直ぐ進めばいい。
ふとラエトリトの言葉がよみがえる。
「真っ直ぐ飛べる空なんて、ここには無いよ……」
テラは、世界は自分が思っているよりも何倍も複雑で、理解できない理由も折り重なって、
不自然な調和の中、人々が正常を唱えながら生きている。
次の沈黙の中、囁くようなリカオンの声が聞こえた。
「……わかった。すぐ向かう。お前らは顔を出すな。特にモアが前に出てってぶっ飛ばすことがないようにな」
運転席とコンテナをつなぐ小窓からリカオンがフォンパッドを操作しトラックを降りるところが見えた。
アギもコンテナを出てトラックを降りたリカオンに声をかけると彼は驚いた様子もなく、ひとまずタバコに火をつけた。
「どうかしたのか?」
「大した事ねぇ。寝てろ」
そういう一方、リカオンは頭をぼりぼりかく。
これは彼の、心穏やかではない時のクセだ。
薄暗い駐車場に紫煙が上がって数秒、彼は溜息をつきながら火をつけたばかりのタバコを捨て足でもみ消し
肩をすくめてそのまま借りた部屋の方に向かっていた。
何が起きているかはアギにも察しがついていたが思っていた以上にひどかった。
廊下目いっぱいに響くノックと罵倒。
ガラの悪い二人組が部屋の前でモアを挑発しているようだった。
「おう、化け物! ツラださねぇか。てめえを買い取ってやるって言ってるんだぞ」
ドアにキックを入れては同じようにモアを”化け物”と言っている。
モアはそれでメソメソするような性格じゃない事だけは明確で、恐らく部屋の中から呪詛の念仏でも唱えているかもしれない。
それではアリサが助けを求めるのも頷けるし、このままでは他の部屋の人間にも迷惑だ。
「あ? なんだ、お前ら」
ようやくアギとリカオンに気がついた男二人はぎろりと睨みをきかす。
パンク調の服装の痩せとデブだが、どうにも典型的すぎてすごみに欠けていた。
「ああいうの、テラでは流行ってんの?」
「いんや」
失礼極まりないデカとチビにヤセとデブが青筋を浮かべながら近づく。
「おうおうおうおう! 俺達をナメてかからない方がいいぜ。
この路線じゃ有名なユガ兄弟とぁ、俺達の事よ!」
「旅芸人?」
「違うだろ」
「お前らはどこまで失礼なんだよ!!」
少なくとも息はぴったりな二人が下からねめつける前にリカオンがヤセの方をぶっ飛ばしていた。
当然、”グー”で、である。
悲鳴を上げる暇もなく数メートル先まですっとんだヤセの方を見て、デブの方が相方、そしてリカオンを交互に見やった。
「て、てめぇ、不意打ちとは卑怯だな……!」
「じゃあお前は今から殴る、すぐ殴る、目いっぱい殴る」
どーん、とリカオンの拳が着弾してデブの方の同じようにすっとんだ。
相変わらず理不尽の化身のような男である。
まず起き上ったのはヤセの方だった。
顔面に真っ青な痣を作りながらそこを抑えてようやく立ち上がる。
「き、しゃ、ま〜!」
「ああ? どこのどいつに頼まれたのか言えば半殺しを三分の一殺し程度にマケてやるぞ」
「だぁれが――」
そこでヤセの方のセリフが止まって、彼は急に幽霊でも見たような顔つきになった。
視線が刺さっているのはリカオンの胸元にある朱色のリカオンの刺青だ。
がたがたと顎を震えさせながらヤセの方は唱えた。
「……有翼のリカオン……マドラスの亡霊!」
「……だったらなんだってんだ」
応じたリカオンの声もずっと低く重かった。
途端に慌ててデブの方の体を揺り起こして引きずるようにその場を去って行った。
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