繚乱のドラグレギス
第六節<空飛ぶ街> 束の間の安穏
「アギくんも……私に関わるのをやめてください。私はブラフマーに用があるだけです」
「も〜……」
モアは縁に座りただ床を見ている。
ふてくされた横顔、彼女は歯をくいしばるようにやはり何かをこらえていた。
「……リカオンは、俺がちんたらしてるからダメ何だって言ってたよ。
少なくとも、今のところブラフマーに乗れるのは俺だけだし――」
「そおですね」
「――モ、モアもブラブマーが大事なんだろ……列車の時みたいに一緒に戦うこともあるかもしれないじゃないか。
だからリカオンもあんなに言うんだと……っていうか、殴られたところ、大丈夫か?」
「……大丈夫です」
いや、物凄い音だった。
身体が吹っ飛ぶ勢いで元軍人からビンタなんか食らって女の子が泣いて叫ばないのが不思議だ。
よっぽど根性悪い――いやいやいや根性据わっているんだろうな。
そう思いながらアギがモアの前に回り込んでしゃがみ込むと、彼女の左頬は熟れた桃のように赤くなっていた。
「う、わ……」
「大丈夫です、全然」
「いや、大丈夫じゃない。大丈夫って言い張ってる時点で大丈夫じゃない!」
「だ――!」
大口を開けて痛んだか声なき悲鳴を上げたモアにアギも思わず自分の頬を抑えた。
「言わんこっちゃないよ……あれ拳だったら奥歯折れてるぞ……」
「あの――」
「反論しない、いいから黙ってろ。確かアリサの救急箱がこの辺に……」
「…………」
アギがぐるりと振り返って荷物の山を漁り始める。
アリサの救急箱を引っ張り出すとその中から見覚えのある白いシートを取り出した。
何度か治療を受けてさすがにアギも覚えていたのだ。
パッケージを見ると確かに「うちみ、腫れに」と書いてある。
「うん、これだ。モア」
振り返ると、モアは口元に手をやって苦しそうにしていた。
「気分でも悪いのか……?」
いや、そうじゃない。
虹色の目にたっぷり涙を湛えながら声を殺していた。
指の隙間から食いしばった口元が見える。
アギにはその様が気の毒でちっぽけで、危うげに見えた。
信用されていないし、信用も求められていない。
そして、威嚇するようなギリギリと締め付けるような気配をモアは放っていた。
それがどこか懐かしい気がして、アギはそのままじっと動かず視線を向け続ける。
モアは深呼吸をしながら段々と無表情になっていった。
何も考えない、何も受け入れない事によって己を守っている、アギにはそんな風に思えた。
そうしているうちにアギは思い出す。
テルティウのジャングルには当然野生の竜がいて、ばったり出くわすこともある。
その時、大抵竜は警戒音を放って追い出すように威嚇してくるのだが、
どうしようもなく睨みあいになってしまった時には目をそらさず敵意が無い事を分かってもらうしかない。
「モア」
呼びかけると彼女は少し呼吸を乱し、そして視線をアギに向けると同時にぼろりと涙を流して声を殺しながら咽び泣いた。
窮屈に思えた。無駄が多いな、と思った。
アギ”くん”なんて呼ばれる筋合いはやっぱり無いと思った。
隣に座り手早く透明フィルムをはがして構えるとモアがアギの手を拒みながら首を横に振る。
「やだ……それ、しみるでしょ……」
「……な」
何と言う反則技だ。
内心ぐぅの音を放ってアギは愕然とした。
無愛想な上に高圧的、そのくせ敬語で一方的にしかものを言わないせいかコミュニケーションがほぼ取れなかったモアと初めてまともに会話した気さえした。
弱々しい彼女の泣き顔がとてつもない破壊力で胸に突き刺さった。
「……しみるけど……そのままじゃ腫れが引くの遅くなるし、凄く目立つよ。
でもどうして、避けなかったの。あんな大ぶりな平手」
「……つい……逃げたくなかったから……逃げたら、何かが終わっちゃうような気がしたから」
リカオンはモアが人と違うと言ったし、それは確かなことだった。
彼女の虹色の目に宿った葛藤、そして何度も何度も繰り返してきた敗北がアギには見えた。
本当に性根が曲がっていて、諦めが悪くて、強くもないくせに強がりで。
おかしな少女だった。負けを認めているのにそれでもずるずると戦い続け
意地悪く起死回生のチャンスを――あわよくばその戦いそのものが破綻してしまうことすら祈っているようだった。
アギにはそれがとても純粋で、とても暗くて、とても激しい意志に思えた。
少し怖くなってアギは隙を狙ったかのように彼女の頬に湿布をぺたりと張り付ける。
驚いた様子できっと鋭い視線でアギを貫いた彼女だったが、すぐに耳を垂れた子猫のようにバツの悪そうな表情になった。
「ごめんなさい……」
何の事だか思い当りすぎてアギには彼女が何のことを言っているのかわからず首を傾ける。
するとモアは視線を落として顔をぬぐいながらぼそぼそと喋った。
「私は寺院で、リデーヴァと呼ばれていて……とても大事にしてもらっていたんです。
でも、それは僧達にとって大事な”モノ”であって、私を人間として扱っているわけではありませんでした。
私は確かに他の人とは違っていて彼らにとっては人というより”モノ”であったというのなら仕方のない事です。
だから……私は”モノ”だから、優しくされる資格なんてないし、今更人間扱いされても……どうしたらいいのかわからなくて……」
彼女の表情がすっと無機質になっていくのは、きっと自分でも自分が物質であると思い込んでソートしているからだろう。
アギは己の境遇に彼女の言葉を重ねて怖くなった。
もしかしたら、テルティウの民たちも自分の事をアギではなく、人間ではなく”王子”という権力として見ていたかもしれない。
自分をアギとしてぶつかってくるシュラマナの面々には確かに戸惑いがあるが、それを和らげてくれるのも彼らだ。
特にリカオンは当たりが強くて矛盾だらけで、頭はいいのに気が短くて結局感情論を叩きつけてくるし
女の子を殴っても意地を張ったままで、手に負えない乱暴者の子供みたいな男である。
だが、アギはそのリカオンに尊敬の念さえ抱いていた。
自分をそれ以外の何でもない、自分として扱ってくれるとほんの数日で信頼すらしていた。
それがモアにとっては劇薬だし、リカオンにとっても実態のつかめない存在であり何かぎこちなく噛み合わないのかもしれない。
だからといってモアを誰にも理解されない虚ろげな存在のままにするのも納得がいかなかった。
自分を見捨てるような気がした。
「優しくされる資格、あると思う。モアはラエトリトを助けてくれたし、他にも……その、沢山一緒に痛んできたんだろ。
どんなかっこしてても、姿形でも、モアはモアだ」
「…………」
少し目を丸くしてモアはアギの顔を覗き込んだ。
虹色の目、緑に光沢する髪、傷と鱗。
そして、どこか懐かしい雰囲気を感じた。
「ブラフマーも、ブラフマーですか……?」
モアがらしいのからしくないのか分からないことを言って、アギは思わず笑った。
「ははは、そうだな」
それでもモアは深刻な表情をしたままため息だか深呼吸だかをした。
そして重苦しくかさついた声で呟いた。
「だから……私じゃなくてアギくんを選んだのかな……」
「……あの、そのアギ”くん”ってのいい加減やめてくれよ。アギでいいよ」
「アギ……」
申し訳なさそうにそう呼んだモアにアギは頷き、子供を相手するように微笑んだ。
するとモアの表情もほころびかける。
その時だった。
どかん、と足元が跳ね上がり、ぐらぐらと激しい震動と爆音が響く。
「ぬぁッ!」
「!」
胴にしがみついてきたモアを片手で支え、もう片手でベッドの脚を掴んだが揺れで身体は跳ね上がる程の衝撃が続く。
さらにどかん、という音が響いて壁がぎちぎちと軋んでいた。
『緊急警戒警報。緊急警戒警報。只今、所属不明のマキナ3体より、攻撃を受けています。
乗客の皆さまは自室にて待機、緊急時マニュアルに従ってください』
どこからともなく響いたアナウンスの後、ようやく揺れが落ち着いてアギとモアは目を丸くしながら茫然としていた。
そしてじわじわとこの船が攻撃されているという情報が脳に行きとどく。
「ここ、マキナに襲われてるんでしょうか……!」
モアの言葉が決定的だった。
頭にかっとなるものが走り、アギは立ち上がり小さな窓を覗き込む。
そこには鉛色の――見間違えるはずもない、テルティウを攻め込んできたテラ軍のジェネラルマキナがあざ笑うように飛び交っていた。
「モアはここにいろ!」
「アギ……!」
恐らく彼女は静止するように言おうとしたのかもしれない。
だがアギは勢いよく部屋を飛び出した。
「うわぁッ!」
出入り口、アリサとニックスがちょうど部屋に入ってこようとしていたのか
アギとぶつかりそうになるが狭い廊下をするりと抜けてアギはそのまま倉庫に向かって走って行ってしまう。
あっという間に長い廊下を駆け抜けたアギの後姿に声をかける暇もなかったアリサは部屋の中に残ったモアに視線を向ける。
そのモアもすっと立ち上がると窓の外を見てマキナを確認しているようだった。
「アギ、まさか――ブラフマーで!?」
「でしょうね……」
「”でしょうね”って! どうしてあんた、止めなかったのよ!
いくらブラフマーが特別でも、アギ死んじゃうかもしれないのよ!?」
アリサは言うだけ言ってアギの行った廊下を走りだす。
モアは一瞬顔をしかめたが、すぐに振り返りニックスに命じるように強く言った。
「見渡しのいいところに案内していただけますか?」
「おやおや、こんな時にデートのお誘いなんて、全く僕の美しさは罪だね。
いいよ、ついておいで。君のその度胸に敬意を表すよ」
「よろしくお願いします」
そしてモアとニックスは倉庫とは別方向へと向かっていった。
モアが何をしようとしているのかニックスには察しがつかなかったが、
ようやく魂が灯ったような生き物らしい顔つきをしたものだから楽しみにしないわけにいかない。
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