side:藤
「ほら、入れ」
ガチャ、と玄関のドアを開けて中へ入るように促すと、そいつは少し戸惑いを見せた。
数秒の間を置いて部屋に入ったそいつの後に続き、俺も家の敷居をまたぐ。
靴を脱ぎリビングへ案内するが、キョロキョロと物珍しげに周りを見回す気配に自然と口元を緩めてしまった。
居間に通すと一面の窓ガラスの前で立ち止まり、呆然とした様子で遠くを眺めている。
それなりに高いビルの最上階、あまりの景色に目を奪われたらしい。
表情は変わらないが、こいつの心情が何となく分かる。
「初めて見るだろ、こんな景色」
俺が問いかけるとこちらを振り返り、小さく頷いた。
「すごく綺麗だろ?夜になると星もすごいぞ」
続けてそう言うとほんの少しだけ瞳を輝かせ、外へ顔を向けた。
どうやら星に興味があるらしい。
意外と可愛い反応を見せるこいつに、思わず頬がにやける。
「今日からここがお前の帰る場所だよ。──楓」
無機質な顔がゆっくりと俺の方へ向けられる。
その虚ろな目はちゃんと俺を見ているのだろうか。
もっと早くにこいつを迎えに行けば良かったんだ、そうすれば楓はあんな目にも合わなかった。
あの義母に渡さなければきっと笑顔でここに居たはずなんだ。
…いや違うな。
元々、その原因を作ったのは──
「藤」
徐々に悪くなる思考は、楓の一言で途切れた。
そうだ、もう楓のそばに居るのは俺だ。
笑顔はこれから作っていけば良いんだ、今の俺は何も出来なかったあの時の俺じゃない。
「どうした?楓」
にっこり、と満面の笑みを浮かべる。
「腹減った。オムライス食いたい」
「……」
──何だろう、この良い雰囲気を台無しにされたような気分は。
──じわじわと意識が浮上してくるのが分かる。
ピントの合わないぼやけた視界に映るのはおそらく自分の足だ。
(……)
椅子のもたれ掛かっている…俺は何をしていたんだっけか。
ボーっとする頭で思考を巡らせ、体を起こすと何かが乗っている事に気付いた。
黒いスーツの上着。
一体誰の…
「──起きたか、藤」
突然聞こえた声に肩を揺らした。
バッと顔を上げると、よく知っている人物がテラスの手すりに寄り掛かってこちらを見ている。
周りが暗かったせいか、酔い潰れていたせいか、俺はそいつの顔が目に入った瞬間、心臓が押し潰れるほどのショックを受けた。
「──かざ…ッ!!」
「…え?」
違う!
雲に隠れていた月が顔を出し、光りがもれる。
今、俺の目の前にいるのは少し驚いた表情を浮かべて固まる楓だった。
「……かえ、で…」
バクバクと鼓動がうるさい。
冷や汗が頬を伝い、足元へ落ちた。
絞り出した声は柄にもなく震えている上に、俺は立ったまま楓を凝視している。
情けない。
沈黙が二人の間に流れている。
これは非常にまずい。
口を滑らせた。
動揺を隠せずに楓から顔を背けているがこのままでは誤魔化しきれない。
いつも通りに…
「藤」
ぎくり、と大げさな反応をしてしまいそうになるのを必死で堪え、取り繕うように出来るだけ笑顔を作った。
「…楓、すまんな。これお前の上着だろう?」
「ああ。それにてもよく寝ていたな、珍しく」
「自分でも驚いてる。調子に乗りすぎたな」
はは、と乾いた笑い声を上げながら上着を手渡すと、楓は素直にそれを受け取り、椅子に掛けた。
…特に変化は無い。
どうやらさっきのことは疑問に思っていないらしい。
ホッと静かに胸を撫で下ろす。
「見ろよ藤、満月だ」
楓の目線を追って空を見上げると、雲に隠れていたはずの星空と丸い月がちょうど正面にあった。
「道理で酒が美味い訳だ」
「紫暮といいお前といい…飲み過ぎだ。学生だらけの中で酒なんざ飲みやがって」
「う…」
呆れ気味に吐かれる正論に返す言葉もない。
「耳が痛いな…」
苦笑いを浮かべて横を見ると、満月によく似た金色の双眸と目が合った。
数秒経ってからその目が細められ、楓が小さく微笑む。
しっかりと着込んだシャツや、軽く後ろへ流している前髪のせいでいつもより表情の変化が分かりやすい。
いつの間にかこんな表情をするようになったのか…
不意の笑みと、見慣れているはずの瞳に見惚れた。
月明かりに照らされる姿が妙に色っぽく、変な気分になる。
「──…楓」
これは酒のせいだ。
ダメだと分かっているのに体が勝手に動き、楓の頬へ手を添える。
不思議そうに俺を見る瞳を眺めながら引き寄せられるように顔を近付け、触れるだけのキスを落とす。
ゆっくりと離すと見開いた目が俺を見ている。
「藤…?」
「……悪い、楓…少しだけ…」
もう片方の手で楓の顔を優しく挟み込み、今度は勢いをつけて口付けた。
「ッ!んんッ…」
貪りながら奥深く舌を絡めると楓から苦しそうな声と荒い息遣いが聞こえる。
酸素を取り込もうと口を離そうとするが、しつこく追い回す。
より深く口付けようと、腰を支えて体重をかけると楓の体はそれに従い、後ろへ反れる。
「ふ…ぅ…ッ…」
「…は……」
口端から零れる唾液すら舐めとり、また舌を絡める。
どのくらいしただろうか。
ひとしきり楓の唇を貪り、顔を離すと息の上がった楓がぼんやりと俺を見ていた。
頬が赤い。
微かに潤む目元がまた妖しい色香を漂わせている。
「…ッ…」
ぐっと腰を引き寄せて体を密着させ、耳朶を甘噛みすると引きつった声を出した。
意外と楓は耳が弱い。
そのまま耳を唇で挟んでは舐め、時々軽く歯を立てると、楓はふるふると震えだした。
目を固く閉じ、眉根を寄せて俺のスーツをシワになりそうな程に握りしめている。
腕力だけならば俺の方が強い…が、楓には逃げようとすれば俺を負かす事も出来るはずだ。
どうして逃げないのだろうか、そんな風にされると期待してしまう。
「楓…」
耳元で低く掠れた声で名を呼ぶや否や、俺は楓の耳の中へ舌を入れた。
「、あッ…」
「っ!」
直後、楓からいつもより高い声が上がる。
初めて聞いたその声に反射的に体を離し、顔を見合わせた。
楓は自分自身も信じられないという表情で口を押さえている。
あまりの衝撃に頭から冷水を浴びたようだ。
おかげで冷静になれた。
危なかった…
流石に、あれ以上触れていたらキスだけじゃ済まない…
「…こっの…っ!アホ!」
「ぐっ…!?ちょっ、楓…お前、な……」
熱が醒めてきて安堵していたのも束の間、腹へすごい痛打を喰らった。
加減はしているようだが相変わらず鋭い一撃だ。
普通に油断していた俺は腹を押さえて膝から崩れ落ちる。
「飲み過ぎだってんだろーが…俺は女じゃねえんだよ。間違えんなこのエロ魔人が…切り落とすぞ」
「待て待て待て落ち着け楓!確かに飲み過ぎたかもしれんが俺はお前を女だと思っていないぞ」
指をゴキゴキと鳴らしながら俺を見下ろす楓の冷たい目つきに、割と本気で焦る。
氷の死神と言われる所以なのだろうか、これはかなり堪えるな。
「どーだかな…節操なしめ」
「いでで…悪かった、楓」
座り込む俺に合わせてしゃがみ込み、頬を抓られた。
明らかに警戒された目だが、そこまで殺気は感じない所を見ると、キレてはいないようだ。
怖いけど。
「次、また勝手に変なことしたら…」
「……した、ら…?」
楓の後ろから地鳴りのような音が聞こえる。
緊張しながら言葉の続きを待つと、月明かりが雲に隠れ、辺りが再び暗くなり始めた。
闇に浮かぶ金色の瞳が2つ…まるで獲物を前にした獣だ。
「二度と人に突っ込めなくしてやる。…色んな意味でな」
ツイ…と人差し指で俺の顎をなぞる。
その仕種と眼差しに、寒気立った。
「……肝に銘じておこう」
末恐ろしい子供だ。
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