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先憂後楽ブルース
002




「死ぬ…ってクロエが言ったのか?」

「ハイ!」

「まぁさぁかぁ〜」

リーヤはゼゼの話を笑って受け流した。クロエに限って、そんなことあるわけがない。殺しても死なないのがあの男だ。

「ほんとデスよ! 信じてください!」

「はいはい」

年上であるゼゼの頭をよしよしとなで、いつもと同じようにリビングに入る。だがそこで見たものは、とんでもない光景だった。

ソファーにクロエが横たわり、傍らにはエクトルが床に膝をついている。けれどその様子はいつもとはまるで違っていた。

「死ぬ、死ぬ"〜っ」

「………」

本当に言ってる。間違いなくクロエの声だ。ゼゼの言っていたことは真実だったらしい。いったい彼に何があったんだ。

「クロエ!」

途端に不安になったリーヤはクロエの元へ慌てて駆け寄った。クロエの顔は真っ赤で眉間に見たこともないような深い皺が刻まれていた。

「大丈夫かクロエ!? どうしたんだよ!」

クロエがまともに話せる状態ではないと判断したリーヤは、後ろを振り返りゼゼを問い詰めた。

「わ、わかんな…、ゼゼもいま来たとこなんデス〜」

顔に血色のなくなった彼女はただ首を振るばかり。しまいにはぽろぽろと泣き出してしまった。

「兄ちゃん、死んじゃやだ!」

隣には兄の手をがっしり握るエクトル。クロエは息も絶え絶えで瞳の焦点もあっていない。

「大変だ…しっかりしろクロエ!」

リーヤの叫び声が聞こえたのかクロエが反応した。瞼が震え意識を朦朧とさせながらも、弟に握られていない左手を伸ばしてくる。

「リーヤ…」

「ああクロエ! 俺はここにいる!」

クロエの大きく武骨な手をリーヤは自らの両手で優しく包み込んだ。いつもは猛々しいクロエの声は別人のようにかすれていた。

「苦…しい、頭痛ぇ…」

「クロエ、大丈夫だよ。きっと助かるから」

普段の彼からは想像もつかない弱々しい姿。一刻を争う厳しい状況だ。リーヤは隣でうつむいているエクトルに向き直った。

「エクトル救急車呼んだのか!? 早く病院に連れてかないと」

「…駄目だよ、リーヤ」

うなだれるエクトルの瞳には希望の光などなく、あるのは負の感情だけだった。

「駄目ってどうして?」

「救急車なんか呼んでも無駄だ。兄ちゃんは上気道感染にかかって…」

「な、なんだよそれ!」

エクトルはただ悔しそうにうつむいているだけだったが、リーヤは何かせずにはいられなかった。クロエの苦しむ顔をこれ以上見ていられなかったのだ。

「とりあえず救急車…っ」

リーヤが電話を探しながら立ち上がったその時、入り口からクロエの兄であるジーンが姿を見せた。彼はなぜか盆にのせた皿を手に持っている。

「あ、おかえりリーヤ、意外と帰るの早かったね」

のほほんとしたジーンの言葉に、リーヤは絶句した。

「ジーン! 何でそんな余裕かましてんだよ、クロエが大変なんだぞ!」

「大変って、何が?」

「病気なんだ! 見てわかんないのか!?」

「…ああ、そうだね。でもそこまで騒がなくても」

「そうだね、って……クロエがこんなに苦しんでるのに、騒がないわけにはいかないだろ!」

ジーンの危機感のない様子にリーヤの苛立ちは募るばかり。その間もクロエは譫言をいいながら荒い呼吸を繰り返していた。

とその時、緊迫したムード漂う部屋にピピッ、という電子音が流れた。リーヤが何だろうと考える前にジーンがクロエに近づき盆を机の上へのせ、彼の脇から何かを取り出した。

「37.8℃。なんだ、熱下がってるじゃない」

訳が分からずそのまま立ち尽くすリーヤの前で、ジーンが手にしていた体温計を盆の横に置く。そして苦しむクロエの額に手の甲をのせた。

「マジ熱い、無理、俺ぜってぇ死ぬ…」

「大げさだよクロエ、発熱ぐらいじゃ死なない死なない」

黙って2人の様子をうかがっていたリーヤは、こわごわと声をかけた。

「あのー…」

「ああ、心配かけてごめんねリーヤ。クロエったら大げさで…。今まで病気らしい病気なんてしたことないから、びっくりしてるんだと思う」

「………」

リーヤはジーンの説明に唖然としながら、ただの風邪かよ! とつっこみたいのをひたすら耐えた。それでもクロエにとっては重病なのだ。

「いや初めてじゃないよ。兄ちゃん、10年前の冬にも1回熱出してる」

そう口をはさんだのは兄を案ずる悲劇の弟ごっこをやめたエクトルだった。彼は握っていたクロエの手をポイッと投げ捨て、身近にあった椅子に腰をおろした。

「なんだよそれ…俺覚えてねえぞ…」

熱に浮かされたクロエは、自分のちっとも可愛くない弟を睨みつける。そこに普段の猛々しい迫力はない。

「へぇ〜良かったじゃん。でも俺はよぉーく覚えてる。人生最高の日ベスト5には入るね」

さっきまでの兄を思いわずらう弟の姿はどこへやら。いつもの生意気なエクトルへと戻ってしまった。それに反発したのはリーヤだ。

「ってことはエクトル、クロエがただの風邪って知ってたんじゃん! 騙したな!」

「嘘はついてない」

「上気道感染だって言った!」

「リーヤ、リーヤ」

「なんだよジーン!」

2人のやり取りを見かねたジーンが口をはさむ。興奮していたリーヤは思わず声を荒げてしまった。

「上気道感染ってのはね、風邪のことだよ」

「……っ!?」

リーヤはショックだった。エクトルにまんまと騙くらかされたからではない。感染症について調べつくしたはずの自分が、そこにまったく気づけなかったからだ。

「人を使って遊んじゃ駄目だよ、エクトル」

「うるさい、ジーン。偉そうに指図すんなよ、ただのジョークだろ」

なんて悪質なブラックジョークだ。こらっ、とジーンの拳骨をくらったエクトルは頭をおさえてうずくまってしまった。一方ゼゼは安心したのか気の抜けた表情で床にへたり込んでいた。

「でもクロエの命の危機じゃなくて良かったよ。あ〜、びっくりした」

「…じゅうぶん命の危機だっての」

毎日喧嘩ざんまい、恐いもの知らずの不良のセリフとはとても思えない。リーヤは握りっぱなしだったクロエの手を再度掴み、安堵の笑みを浮かべた。

「安心してクロエ、俺なんか1年に1回は熱出してるけど今でもピンピンしてるよ。さすがに、夏風邪はひかないけどね」

「お前、こんな苦痛を年1で…!?」

「ははっ」

自分を哀れみと尊敬の眼差しで見つめてきたクロエの頬に、リーヤは自らの冷えた手をのせて和やかに微笑んだ。


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