先憂後楽ブルース
007
「ど、どうした?」
何かを思い出したような声にリーヤは少し肩をビクつかせた後、恐々とフィースを見上げる。犯罪者顔の彼は情けないほどに表情を崩しながら、自分の着ていたコートをたぐりよせ持ち上げた。
「これの存在、忘れてた」
「これ? …ああっ、冷却コートか!」
フィースの手にあったのは、着たままの状態で身体を冷やせる文明の利器だ。これは少し無理をすれば庶民でも買える代物で、フィースのコートには無論、冷却機能がそなえられていた。
「俺もつくづく馬鹿だよな。これを着ればこの暑さから解放されるはず。……よし、冷えてきた」
いそいそと冷却コートを着込んだかと思えば、フィースば満面の笑みでコートを開けっぴろげた。
「ほら、こいよリーヤ」
「え!? …いや、俺はいいよ!」
フィースの当然ともいえる誘いをリーヤは断腸の思いで断った。本当は死ぬほどフィースの胸に飛び込みたかったが、それをすれば取り返しのつかないことになる。
「…さっきは動揺しちまったが、俺は今ここで誓う。まだ婚約もしていない以上、お前には何もしない」
「…いや、そういうことではなく」
(俺が、お前に何かしそうなんだよ!)
きりりと凛々しい表情で宣言してくれたのはいいが、問題はそこではない。判断能力がこの暑さで正常に働いていないのか、先ほどもあと少しでフィースにほだされるところだったのだ。
「とにかく、俺はいらないからな!」
その一度捕まったら逃れられない視線に背を向け、リーヤは膝を抱えて顔を伏せる。ところが、ダヴィットが来るまでひたすら耐えるつもりだった肩に、柔らかい物が覆い被さり熱を持った身体が一気に冷えた。
「息あがってるじゃねえか。これはリーヤが使え。俺は暑さに慣れてるからな」
「フィース!」
身体を包み込む冷却コートに、リーヤはうろたえる。慌てて突き返そうとする手をフィースが止めた。
「いいから黙って使え。頼むから拒否なんかして無駄な労力使わせるなよ」
フィースはコートを押しつけるようにしてリーヤに渡すと、腕を組んでそっぽを向いてしまう。その優しさについ胸がいっぱいになってしまうが、そんな恋する乙女のような女々しい思考は一瞬で捨て、リーヤはフィースの傍らに立った。
「フィース、やっぱりこのコートは一緒に使おう」
「リーヤ……、いいのか?」
「同じコートに一緒にくるまるだけだろ。こんな命の危機に恥じらってる場合じゃない」
「ああ、わかった」
いったんコートを戻し、フィースが袖に腕を通す。優しく手を引かれ壊れ物のように扱われたリーヤは、大人しくフィースの胸の中におさまった。
(とりあえず、目を合わせなければ大丈夫。)
その言葉を呪文のように心の中で何度も唱え、乾き始めていた喉を唾を飲み込むことで潤す。後はこのまま、できるだけ水分を失わないようにして救助を待つだけだ。
リーヤの心臓はその思いに反するように激しく脈打ち続けたが、『とにかく顔を見ないようにする作戦』は思いの外うまくいった。確かに今も胸は高鳴っているが、それ以上の乙女思考、フィースへの恋心のどちらも、表に顔を出してくることはなかった。
自分さえ耐え抜けば何事もなく乗り切れるはず。そう思い始めた矢先、新たな不安がリーヤの頭をよぎる。そろそろ喉の乾きが限界なのだ。それにいくらひやされてるとはいえ、顔はそのまま熱い空気にさらされたままになっている。フィースの肩幅が広すぎて、身体全体をつつみきれてないのも事実だ。そのことにはフィースも気づいたようで、そのたくましい身体をさらに密着させてきた。
「リーヤ、もっと寄れ」
「ぃあっ…!」
フィースの冷えた腕が腹部にまわり、リーヤはついつい変な声を出してしまう。恥ずかしさのあまり、もともと赤かった顔はさらに真っ赤になった。
「…悪い」
「いや、だ、大丈夫…」
これ以上激しくはならないだろうと思っていた鼓動がいっそう強く脈打つ。何かまったく関係ないことを考え、平常心を保とうと必死だった。
「……リーヤ」
「なに?」
「うなじが綺麗だ」
「……、…は?」
う、な、じ!?
フィースの意味不明な発言に顔が引きつる。慌ててフィースの様子をうかがうと、彼は何ともいえないうっとりした表情でリーヤの首もとを見つめていた。
「ははっ…女じゃあるまいし、なに血迷ったことを…」
「リーヤ」
髪の生え際あたりにむずがゆい感触。平生の彼とは別人のような表情をしたフィースが、そこを啄んだのだ。
「いやいや何してんだっ、ちょっと待て! 人がせっかく耐えてるってのに、今すぐやめ――」
その馬鹿な行為を止めるためフィース振り払おうとしたリーヤは、言葉を続けることができなかった。大悪党も裸足で逃げ出しそうな強面の男が、子供のようにぐすぐす泣いていたからだ。
「す、すまねえリーヤっ、やっぱり俺は男だ。口ではどんな綺麗事並べたって、ひと皮剥けばただの情欲にまみれた汚い野郎だっ。そんなことしてる場合じゃないって、俺だってわかってんのに…全然我慢できねえっ」
「フィース? 何言って…」
リーヤの言葉が終わる前に、涙をなんとかこらえようとするフィースに力強く抱き込まれた。胸が押しつぶされそうなくらい、ぎゅっと強く。
「でも俺、ぜったい責任とるからっ。何があっても、リーヤは俺が一生養うって誓う。だから…」
抱きしめられたままフィース自身ごと倒される。真っ赤だったはずのリーヤの顔は、事の重大さを察し真っ青になっていた。
「だ、だめだめだめっ、こういうのは順序があるだろ! って、そういうことじゃなくて!」
「リーヤ、俺の目を見ろ。嫌なら嫌って言ってくれ」
「あ――」
しまった! と思った時にはもう遅かった。フィースの鋭く澄んだ瞳から目がそらせない。目の前の存在が、たまらなく愛しいもののように感じる。
「嫌か?」
「……い、や」
「………」
「…じゃ、ない」
意識がさらに朦朧とし始める。このままではいけないことはわかっているのに、身体は抵抗をやめてしまった。
「俺のことは好きか?」
駄目だ、それを言っちゃ――
「……好き」
――ああ、もう。
どうにでもしてくれ。
もう1人の理性ある自分がいまだに拒絶してるにも関わらず、それはリーヤの心の奥底に閉じ込められてしまう。リーヤの答えに満足したらしいフィースは、定まらぬ意識の中半開きになっていたリーヤの唇をふさいだ。
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