last spurt
6日前
今から思い起こせば、その日はいつもとは明らかに違っていた。
まず朝早くから兄貴に無理やり起こされた。普段は寝ている俺なんて放置して仕事に行くのに。夜遊びしていた俺は兄貴に思いつく限りの悪態をついたが、兄貴は無言のまま俺を居間まで連れてきた。
俺と兄貴が住んでいるのは2階建ての古い小さなアパート。父さんと母さんを事故で亡くした後、俺達はこの狭い部屋に引っ越さなければならなかった。兄貴は大学をやめて働いてたけど、それでもギリギリの生活だ。
「七生」
正座させられ、まだ寝ぼけ眼の俺は兄貴の声をぼんやりと聞いていた。眠い。だってまだ3時間しか寝てないんだ。
「目を覚ませ。大事な話がある」
俺は兄貴の声色を聞いて、ようやくいつもの兄貴とは違うことに気がついた。なんていうか、ちょっと恐い。
「七生、──俺は、家を出ていく」
「………は?」
兄貴が言ったことの意味が理解出来なかった。考えると同時に朦朧としていた俺の頭も冴えてくる。
「え…なにそれ、引っ越すってこと?」
「ああ」
「学校はどうすんだよ」
「…出て行くのは俺だけだ」
「え?」
────っ、
長い沈黙。兄貴の言葉の意味もろくにわかっていなかったのに、なぜだか俺はぞっとした。
「兄貴だけって…どういうこと?」
俺の声は震えている。兄貴はひどく真剣な目をして、俺を見ていた。
「よく聞け七生。お前には父さん達が残してくれた遺産と、俺が今まで貯めた貯金を残していく。これで高校卒業までは生活していける」
「……?」
兄貴の言わんとすることがわからなくて─いや、わかりたくなくて、俺はただ呆然と座っていた。
「お前は今日から、ここで1人で暮らすんだ」
兄貴の断固とした低い声が、俺の耳の奥の奥まで届く。嫌な予感がじわじわと現実になろうとしていた。
「な、んで…っ、なんでだよ、兄貴っ」
兄のしようとしてる事すべてを理解してしまった俺は、かすれる声で問うことしか出来ない。理由も原因も、はっきりしてるのに。
「お前には、寂しい思いをさせた。まだ小学生だったのに親が亡くなって、つらかったと思う。だから未波さんにお前を任せてた。俺はずっと働きづめだったから、七生が1人にならないように」
さも、それが間違いであったかのような口ぶりの兄貴。彼が何を言いたいのかは手に取るようにわかる。
「お前は中学生になってから、悪い連中とつるんで喧嘩するようになった。何度も注意したけどやめなかったよな。でも未波さんに義理立てしたいっていうお前の気持ちもわかったから、俺も強くは言わなかった」
「………」
そう、そうだ。俺は未波さんのためなら何でもやった。未波さんの右腕になって役に立つことが、俺なりの恩返しで存在理由だったんだ。
「それなのにお前は、未波さんがいなくなってからも夜遊びをやめなかった。せっかく入れた高校も遅刻、欠席ばかりして喧嘩、殴り合い。俺が何度怒っても聞きもしない」
俺と同じように立っていた兄貴が、ゆっくりと立ち上がった。
「七生、お前にはほとほと、愛想が尽きたよ」
「───っ」
その時になって俺はようやく、壁に立て掛けてある大きなスーツケースの存在に気がついた。兄貴は本気だ。本気でこの家を出ていくつもりだ。
「携帯も新しいものにした。番号はおしえない。お前がもし少しでも反省したなら生活を改めろ。高校をちゃんと卒業して生きるために働くんだ」
そのままスーツケースに手をかけ玄関に向かう兄貴。俺は彼に無理やり突き放されたような気がした。
俺はいつかこんな日が来るのではないかと思ってた。……いや、それは違う。こうなってもおかしくない状況だったってだけのことだ。兄貴は俺のために大学までやめて働いてくれてたのに、俺がしていたことは何だ? 結局のところ俺は兄貴に甘えてた。弟だから、何があっても見捨てられることはないと高を括ってたんだ。
「…じゃあな、七生。元気で」
俺は兄貴を見ることも出来ずにうつむいていた。カチッとドアの閉まる音がして、薄い壁のせいでここを立ち去る足音が聞こえる。
「─兄貴っ……」
俺は絶対に彼には聞こえないような声でぼそりとつぶやいた。今の俺に兄貴を引き止める権利なんてない。兄貴を俺から解放してやらなくちゃ──
狭かった部屋が、急に広くなった。孤独で冷たい俺の、俺だけの家だった。
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