リコリス
五説
そして数年は怒涛の時代となる。
遡る事幾年。
八木紀一郎がまだ若輩者として細々真面目に幕府に仕え始めて数年目の頃。
天人に降伏してすぐの頃だった。
兄の心の友というべき存在となりつつあるあの人が突然投獄されたという話を聞いたのは。
後に安政の大獄と呼ばれるようになる、大勢の知識人や著名人を投獄した幕府の政策が発令され始めた時だった。
少しでも徒党を組む者がいればすぐさまお裁きの場にしょっ引かれる、窮屈な時代は。
幕府経由でその話を聞いた八木は、その時すぐに兄に連絡を取った。
心配は烏羽軍のことである。
元々天人軍から村を守ろうと作られた自警団だ。
天人と協定を結んだ幕府に、協定を脅かす反幕府集団と判断されては最悪だ。
どこから情報を仕入れていたのかは定かではないが、兄自身もその気配に気が付いていたらしい。
何事も先手を打たねばならないと、まずは烏羽軍という名前を改め、烏羽組と名乗るよう村中に言い含めた。
付け焼刃であったが、村の漁業組合として誤魔化すことにしたのである。
そしてそれは功を奏した。
丁度村に戻ってきていた昔の工場連中、瞬火星の猫面たちがその組と手を結びたいと言ってきたのだ。
軍と名前が付いていては手を出しにくかったが、組となるなら言い訳も立つからだそうだ。
一体何を考えているのかわからない連中であるが、とりあえず魚をやっておけば幕府との口利きも多少は融通が利くようになった。
その烏羽組がそのうち江戸にまでその力が進出させ、有力なやくざ組として町の一角を纏めることになろうとは誰も思ってはいなかっただろうけれど。
まあとにかくどうにか烏羽軍のことは落ち着いたと思っていたそんな時に、訪問を知らせる書状も無しに実の兄が突然訪ねてきたのだから騒然となったものだ。
しかもほぼ旅から帰って村にも寄らず、着の身着のまま、深刻な顔をして。
「頼む。」
そう言って、頭を下げたのだ。
弟が、兄に。
身分的に見れば兄は流浪の旅人、八木は若輩とはいえ幕府の役人で社会的な力の差は大きい。
しかし数々の事情により、実家でも村でも、二人の立場は必ず兄の方が上である。
八木はそれを身に沁みて知っていた。
戦争がもう少し早くに終わっていれば、いくらでも道はあったことを知っているのもあるし、今の兄が過去に自ら選んだ選択を誰より立派な行いだったと信じていたからだ。
だから兄を尊敬していたし、憧れてもいた。
だからそんな兄に、自分がまさか頭を下げられることなど、予想もしていなかった。
驚く弟に、兄はつらつらと事情を述べた。
曰く、兄の友人、あの萩の男が幕府に連行されたと。
刑務所に足を運んでも面会ができる気配では無く、最悪の事態も頭をよぎると。
絶対に幕府に渾名すような人物ではない。
どうにか助けたい、と。
村の子供を拾って育てた、恩人でもある。
何より友人が首を斬られるなど、そんなもの想像したくない、やっと戦争は終わったのに、もう見たくない、と。
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