桜 1 廊下で、何かが動いている。 そうしてドアを開けたと同時に、雹の視界へと横から黒いものがするりと入り込んできた。 隣のコンパートメントの中から声にならない悲鳴があがる。 黒。 真っ黒な一枚布を頭から纏った人型の影が。 不気味の一言に尽きた。 天井ぎりぎりの背丈に、水の中で腐った金魚の腹のようにどろりとした手。 その色はものが燃え尽きて灰になる一歩手前の白い灰色。 呼びかけに応えず、吸魂鬼は向こうを見ているらしい。 どちらが顔か分からない。 ぞわり、と。 体中を悪寒が襲う。 まずい。 動けなくなる。 脳裏に黒が閃く。 ――これが、吸魂鬼。 ディメンター。 自覚した瞬間、雹はとっさに閉心術をかけた。 効果があるかは分からないが、リドも同じ事を考えたらしい。 (ていうかリド、お前動物の姿だからって私の魔力使ったな。) ――まずい、思い出してはいけないことを思い出しかけていた。 同時に、自分自身に誘導術をかける。 これも意味があるのか分からないが、自分の意識をもっと刺激の軽い記憶にたどり着かせるためだ。 軽い自己暗示。 そうでもしなければ、動けなくなる。 (・・・ッ・・・・・・) クラスメイトの腕を偶然見たとき、そこにリストカットの痕が20本ぐらいあることに気が付いた瞬間の気分が溢れた。 ぎゅうっ、と臍の辺りが締め上げられるような痛みが襲う。 痛い、苦しい。 精神的な痛みがそのまま恐怖という感情を通して体に痛みをもたらしてくる苦痛だ。 呼吸が止まる。 眼球の裏に張り付いて消えない残像に一週間は悩まされるだろう。 (――なるほど、苦しい。) どこからか雹に冷静な自分自身の声が響く。 しかし実際は精神的な苦痛と、それによる身体の疲労によって冷や汗が張り付くようだ。 (2メートルほど近寄るだけで、これか。ナメてかかったらまずいな) この距離が、相手のテリトリーというわけだ。 苦しいが、それは今考えても仕方がない。 生徒を守るのは教師の役目だ。 杖を握り、念じる。 (たしかに苦しいが、あの樹の琥珀に触れた痛みのほうが、これよりずっと苦しかったな) あの負の感情と闇のオーラの応酬は二度と勘弁願いたいところだが、こんなところで役に立った。 (出直して来い、半端者) 動く。 肩に乗ったリドもしっかりとしがみついている。 だから、大丈夫。 イメージした。 幸せの瞬間を―――― 『エクスペクト・パトローナム』 (闇も苦しみも、これではまだまだ許容範囲だ) [*前へ][次へ#] [戻る] |