桜
2
『…見つけた』
「え?」
まただ、と振り返ろとした首が、動かなかった。
いや、動かせなかった。
――ぞくり。
春真っ盛りで、あたたかくて明るかったはずが今は違った。
寒いからでもあり、精神的なものでもある冷たい汗がつうっと額から流れ落ちる。
何かがおかしい。なんだ?この寒気は?
「―――――っ」
なんかやばい、と。
本能的に逃げることを体に命令が下る。
しかし体のどれもがそれに従わない。
『…見つけた』
声が、はっきり聞こえた。
――英語のような言葉な、知らない言葉だった。
しかし彼女の脳には、“理解できる言葉”として流れ込んだ。
語学の成績がどうのというより、頭の中に直接響く感覚がする。
カチンと凍ったように動けず、頭が回らないが本能的な恐怖を感じ取り、喉すら振るわせられない状態で叫んだ。
誰?
桜の薄ピンク色が消え、辺りは黒と身をつく寒さがあるのみだ。
指先が冷えてくるのを感じながら後ろに居るのであろう何者かを見ようとする。
もしかしたら人でもない、この世のものですらない気がする。
恐怖の渦が頭の中を回るが、
瞼1つ動かせなかったが、
しかし振り返ろうと思わずにはいられなかった。
「・・・誰っ?」
おかしな力と、震えが邪魔をしていたくちびるがやっと動かせた。
もてるだけの力で叫んだつもりだが人が居ないここでは助けは期待ができない。
どっちにしろそこまで大きい声ではなかった。
バッ、と写真のフラッシュのような、突然の光が目の前を埋め尽くす。
緑色の光だった。
まぶしさに目をギュっと瞑り、身を硬くし、頭の中で叫んだ。
(たすけて)
ふっと、体が軽くなり、手足が自由に動くことを理解した。
寒い日に暑い湯船に浸かったときにじーんとするような感覚がした。
例えようの無い安心感のようなものが胸を満たし、そろっと目を開いた。
「―――ァ」
白い、優しい光が、あった。
さっき見た、あの雄鹿だった。
あっという間も無かった。
目の前の雄鹿が白い光に包まれているのか、それとも白い光を発しているのか認識する前に、その鹿はばっと地面をけって脇を通り過ぎていった。
「・・・・・・?」
もう、さっきの悪寒も恐怖も無かった。
あるのは取り残されたような表情と桜吹雪。
風が出てきたのだ。
とにかくもどろうとふらふらしながら歩き始めた。
驚きと恐怖がカーテンのように記憶を隠し、思い出させようとしない。
しまいにはなぜここに来たかすら思い出せないでいた。
それでもどうにか映像(イメージ)がまとまるか、
そうでないところでもう1つの事件が起きた。
「うわっ!?」
ぶつぶつ言いながらビニールシートの方向を見たら、可愛らしい雌鹿がそこに置いたままのリュックサックの中身を鼻の先でつついていた。
それだけならまだ良い。
糞をされるのはたまったものではないが、舐められた程度でどうこう言わない。
ひどいのだ、スケッチブックが破られている。
「わ、ちょ、ちょっとストーップ!」
大急ぎで走り、見えたのはスケッチブックの無残な残骸。
・・・こいつ、紙食べたな!
知らない人もいるだろうけれど、鹿は紙も食べる。
沢山の鹿を放し飼いにしている奈良じゃなくても伊勢とか他の動物園でそれを見た人は居るかもしれない。
口をむしゃむしゃさせているのがその証拠だ。
むしろ鹿せんべいが無いからどんどん食べる。
「鹿せんべ、買ってくっから紙なんか食べんなお腹壊すぞっ」
・・・ハプニングにより、このとき彼女は今まで考えていたことを忘れてしまった。
スケッチブックの、ちょうど描いたページは雌鹿の腹の中。
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