桜 1 「・・・それは」 少年は言う。 次の言葉を待つ。 「僕自身、分からない。判断しかねているんだよ」 『・・・・・・?』 雹は、琥珀を握る力を強める。 それの隣で、少年の方は、日記帳をなぞる。 なめらかに、確認するように話し始めた。 「僕は、記憶だ。それは分かる。 ・・・けど、今の僕――《記憶としての僕の記憶》がとても曖昧なんだ。」 今の彼は、曖昧。 琥珀にあった記憶が分霊した魂ではなかった。 純粋な記憶の塊。 しかしそれが今、日記の中にあった記憶と魔力とが交じり合い、形創られている。 そこまで言ったことは分かった。 「《琥珀の中に入っていた僕》はちょうど今、この体のベースと舵を取ってる。 ・・・君と別れたあの日の記憶までの記憶が保存されていた記憶の僕がね。」 『・・・どういうこと?』 「別人・・・もう一人の僕、というべきかな。 けれど元は殆ど同じ。 琥珀に入っていた過去(幼少)の僕と、日記に入っていた未来(学生)の僕。 過去の方が情報は少ないはずだけど、なぜか記憶の量は同じ。 琥珀の中で僕は本体の僕の記憶を絶えず入手していた。 ずっとリンクしていた、というのかな。 ただ向こうから一方的に送られる情報を記録し続けていたわけだけど。」 『・・・・・・?』 「琥珀の僕と日記の僕は殆ど変わらない。けれど決定的に違う部分が1つ。 幼少の記憶はサクラと言う少女を知っていた。 学生の記憶はサクラと言う少女を知らなかった。 それだけだ。」 『ちょっとまって、』 琥珀を取り落とす。 なんだって? リンクしていた? 記録? 『学生の君は、サクラを忘れていた?』 「そう。なぜだかすっぱりと。」 『他の記憶は?』 「何も変わっていない。7歳の3月の末にサクラと別れたその日、本体の僕はサクラとの記憶全てを失った。」 『・・・・・・』 ワケが分からない。 『あのとき考えてみるとおかしな魔力があたりを占めていたから・・・あの場所での記憶を、桜の木に奪われたって事?』 「分からない。けどそのおかげで本体の僕はサクラを探すことどころか覚えてすらいなかった訳だったからね。学生時代に作成した日記の僕がサクラを知らなくてもおかしくは無い」 『・・・・・・』 淡々と。 彼は確認するように続けた。 彼は、琥珀の中の彼は日記の中の記憶を上書きした状態だ。 記憶の情報から言えば、学生の彼となんら変わりない。 けれど。 ――混乱してる。 雹は彼を見て思った。 彼は今、子供と学生の精神が同居していると言った。 だから、混乱している。 精神と意思は必ずしも同一ではない。 子供の記憶をベースとした意思が、もう片方を受け入れられていないのだ。 ――まさか、未来の自分が殺人を犯して分霊箱などを作りあげるなど、7歳の子供が考えるだろうか? そして、彼の心のうちはそれだけでもなかった。 日記の中に居た記憶も意思を持っているのだ。 幼少の彼にとって、サクラという少女は何より大きな存在だった。 そしてあの日の約束も、また。 必ず探し出すと。 必ず忘れないと。 けれど決意は虚しく、崩れ。 一体自分は何をしていたのか。 顔も知らない家族を追うよりも、サクラと言うたった一人の少女を探すことの方がずっと重要だったはずだったのに。 分霊箱など、なんの役に立った? 学生の記憶にとって、それは自分の存在価値を脅かすものだ。 なんのために人一人を殺して分霊箱を作ったのか。 作る意味などなかったというなら、「作られてしまった」分霊箱は一体何のためにここにあるのか。 分霊箱である彼にとって、一番の苦しみを与えてくるそれは彼を押しつぶそうとする。 今、彼の体は精神と肉体が細い細いつながりで保たれている。 そのつながりを助けるのが、精神の意思だ。 そして今の彼の中には二つの意思がある。 片方は記憶と肉体、もう片方は魂。 その二つを離してしまえば意思そのものが消える状態にあるわけだ。 けれどその片方はもう片方を受け入れられず、もう片方は自分すら受け入れられていない。 統一されない意思は、肉体と精神のつながりを補助するどころか、知らずに逆の作用を引き起こしていた。 少年自身も、目の前の少女も、それに気が付かない。 緩やかに、まるで花がゆっくりと花弁を一枚一枚散らせるかのように。 少年の体は、誰も知られることなく、崩壊を迎えようとしていた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |