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『誰か、呼んだ?』



幻聴・・・?

ふと後ろを振り返ったが人はいない。

耳に水でも入ったかな、とんとんと耳の後ろを叩く。

朝起きてから今まで、プールに入ったわけでもないし、顔を洗うのに失敗したわけでもない。

今は、春だ。



「・・・まあいっか。」



黒いTシャツにジーパンという、きわめてラフな格好の少女は呟いた。

手に持った黒のリュックサックに手を入れ、ごそごそと取り出したのはビニールシート。

さらにそれを今いる木陰に広げ、座り込む。

靴を脱いで足を伸ばし、木に背中を預けた。



ここは奈良の某公園。

日本に住む人間なら、存在ぐらいはたいていの人が知っている。

さきほども書いたが今は春。彼女はお花見に来ていた。

ここは地元の人間でなければあまり分からない特等席だ。

そのせいだろう、彼女の周りには人通りが無い。



しかし、これは奈良公園の名物というか定番というか。

人間のかわりに、野生の鹿達が彼女の傍にいた。

鹿せんべいが目当てらしく、近づいてもきている。

だがあいにく、彼女は食料は持って来ていない。



「ごめんだけどキミらのご飯は無いよ、川のほうへいって。」



食パンでも持ってきておけばよかった。

だが今から家に帰るつもりも無い。今度にしておこう。



・・・本でも読もうか。

お花見に来ておいて読書とはどうかと思われる方がいるかもしれないが、ここに来るのは今年に入ってから数えても二桁目なのだ。

なにせ地元民。

元日は初詣のために山の上の神社まで登るのだ。



もう一度リュックをごそごそやると、勘違いしたらしくシカ達が催促するように頭を擦り付けてきた。

慌ててリュックのチャックを閉める。

鹿がリュックの中をのぞき込もうとしたからだ。

おかげで奥のほうに入っていた文庫本は取り出せず、ごついスケッチブックしか手元には無い。



・・・絵を描くか。

彼女はポッケに入れておいた鉛筆を取り出し、周りに咲く桜の花木を描き出した。



「あーでもホントいい天気だよねー・・・・・・」



お花見日和。ぽかぽかで、明るい。

ほのぼのとしながら手を進める。



うん、いいかんじ・・・

すらすらと描き上げていくのは風景画。

気分も調子もよく、そろそろ鹿も描こうか・・と思ったときだ。



「うっわあ・・・すごい角・・・・・・」



目の前に、立派な雄鹿がいた。

まずその立派過ぎる二本の角に目が持っていかれる。

すらっとした首、たくましい足腰の筋肉がこの距離でもうかがえた。

毛並みには、触りたくなるようなツヤと光沢があった。



・・・ここのシカ達の王様?



メルヘンもいいとこな台詞が浮かんだ。

しかしそのぐらい格好いいのだ。目がキラキラとコガネムシのように輝いてる。

しかしその黒い瞳は落ち着きがあり、ひたとこっちをまっすぐ見つめていた。



ああカメラを持ってこればよかった。

そのとき自分がスケッチブックを膝に乗せていることを思い出し、大急ぎでページをめくって鉛筆を走らせた。

書き留めないと、描き留めないと。

あとから思えばおかしな考えに疑問を抱きながら手を動かした。

こんなすごい雄鹿を見れたことだけでものすごい幸運だ、宝くじで三億当たるぞ、なんて言われても信じてしまいそうだ。



カリカリカリ・・・

シャカシャカシャカ・・・



ふと顔を上げると、いつの間にかその鹿は消えていた。

・・・音が1つも聞こえなかったぞ?

首を傾げたが、いそいでスケッチブックを置き、靴を履いて立ち上がり、鹿を探し始めた。

もうほんの少しでも、あの姿を目に焼き付けておきたい。

大量の落ち葉のじゅうたんが広がる木々の間を抜け、急ぎながらも音を立てて脅かさないように気をつけて走る。

走ったその先には、行き止まりの標識が立っていた。



・・・山への進行を妨げるフェンスか。


これ以上に無いってぐらいにがっかりし、そして山へ入るのにお金がいることを怨んだ。

・・・帰って記憶の中で描こう、なるべく忘れないうちに戻ろう、と広葉樹林の林を抜けようと来た道を戻り始める。

よく考えると、このあたりは来た事が無い。

そう思いながらも、彼女は歩を進めた。


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