皇帝も人間。 会議中、何に集中しているかといえば、視界に入ってくるあの“女”に集中している。 「陛下。ちゃんと集中してください」 小声でそっと隣にいる皇帝補佐官、パナフィート・ズィヤーダ・マウハードに告げられる。今日何度となく聴く言葉だ。 「分かっている」 そしてこの言葉を何度も補佐官に返しているのがグワバール帝国皇帝、ハイル・イード・アリー・ダルウィーシュだ。 ハイルの視界にはいま、小柄な宰相中将補佐官、シュクリー・ヒッリザ・アッ・サラームが意見を言っているラーイウ宰相の声に耳を傾けている。 彼、否、彼女が女だと知ったのは先日のことだった。彼女が執務室に来た時に思わずあのふくらみを触ってしまったことからだった。彼女は泣き叫び、怯え、目じりにためた涙を零していた。その愛らしい姿が脳裏に焼きついて離れない。 「・・・・・・・・・・・」 自らの身体を抱き締め、涙を流しながら身体を守ろうとする仕草はやけに女らしく、ハイルの心を頭を乱してやまない。思い出すと触れたい、という欲が溢れ出てくる。 頭の中はもう恐ろしいことになっている。シュクリーの姿を見るたび、ハイルの頭の中はシュクリーの泣き顔の映像を繰り返し流してくる。それを思い出すと、思わずシュクリーを好きなようにしたいだとかそういう感情が出てきて、自分を一度思い切り殴ってくれる人がいないか探してしまう。 今もこうやって平静に耳を傾けているふりをしているが、視界には彼女がいる。 「軍部ではこれを解除しようと・・・・・」 ラーイウ宰相の声はよく響き、よく通っている。誰もの耳を傾けさせる声なのだが、今のハイルには全く効果が出ない。 自分のその状態に呆れつつも、ハイルはシュクリーを見つめるのを止められない。何となく見てしまう。 不意にラーイウの声がハイルのほうに向いた。 「・・・・いいでしょうか、陛下」 「あ? ああ」 「それではズワイリズ海岸の警備解除を決定いたしますが異論は?」 遠く離れたズワイリズ海岸はよく密漁のある海岸で、ハフィーズが守っていたのだが国民の協力のおかげでだんだん密漁もなくなってきた。それを誰もが知っているので、国民の信頼を大切にするために、解除をするのは誰もが分かっていた。異論は、ない。 「それでは解除案、決定いたしまする」 ディヤーブのしわがれた低い声が、決定を告げた。あたりでまばらな拍手が起こる。シュクリーも手を叩き、ぽうっとしたように会釈しているラーイウ宰相を見つめている。 何だか面白くない、とハイルは感じながらも、言うべきことではないだろうと口を噤む。 「それでは次の議題に移ります」 ディヤーブのしわがれた声が、また静まった部屋に響く。だがやはりハイルの目にはあのシュクリーという女しかいない。 「ルブラン国の姫がラルシス国に嫁いでしまったことから、外交の」 ディヤーブが指名した外交を担当する宰相が、抑揚のない声で言い通す。 ハイルはそれを耳に入れながらも、あまり集中していなく、ただ一点彼女を見つめていた―――そして、不意に彼女と目が合う。 「・・・・・・・・・・あ」 ハイルが小さく呟いた。あちらの口も同じように開いてじいっとハイルを見つめていたが、唐突に合ったときと同じように、不意にそらされる。 「・・・・・・・・・おいおい・・・」 避けている、ということか。呟いてしまいそうになる言葉を押し留め、ハイルは苛立ってきた心を無視するように、大きな声で言い放った。 「姿勢が悪い! シュクリー・ヒッリザ・アッ・サラーム!」 「すっすいません!!」 ハイルの言葉にシュクリーはぴんっと背筋をはって答える。あたりはざわざわとざわめき立ち、他の宰相たちも少し姿勢を正している。 「悪い、ディヤーブ。続けてくれ」 「御意」 ディヤーブは会議進行の許可を得ると、何もなかったように会議の司会の務めを全うすべく、進行させていく。そのディヤーブの姿勢にざわめきだっていた周りの者達も、ついていった。 「それでは何か提案がある者は挙手を願いしまする」 シュクリーは少し鼻をぐすっと言わせ、目じりに涙をうっすらと溜めている。そして呪文のように口を動かし、何か言っているようだった。だがいかんせん距離があるため、聴こえない。 ハイルはその涙をため、堪える姿を見るとぞくぞくと身体が震える気がした。 そして自分の中にある何かが、燃える。やばいな、と身を案じつつも、やっぱりシュクリーを見るのを止められない。 とりあえず、自分はあの女を泣かせて、罪悪感はないのかと頭をかかえた。 会議も終わり、執務室に戻って一息吐いていたころにハイルはドア付近に立っているパナフィートに声を掛けた。 「おい、お前そこに座ってこれを飲め」 さっき小間使いの女が淹れていったグワバール帝国特産の、クコ茶を勧める。 パナフィートはそのクコ茶をありがたく受け取り、静かにすすった。甘い香りがしたあとにふっと感じる苦味。どちらつかずのその味がパナフィートはあまり好きには思わなかったが、もらった手前文句は言えない。 「この前話した宰相中将の女・・・・・知ってるな?」 「ああ・・・存じております。確かシュクリー・ヒッリザ・アッ・サラームといいましたね」 男のくせに少し高い声で、パナフィートはその名をつむぐ。 ハイルはそうだとでも言うようにこくり、と頷き、今日のことを話した。会議でシュクリーがラーイウに見とれていたのに腹が立ったこと、思わずそれを見たくなくて失言してしまったこと。 パナフィートはその話を聞いた途端、一瞬で目の前に座っている皇帝の地位を持つ男が、その女にどんな感情を持っているのか分かった。 だが目の前にいる忠誠を誓った男は、全く分からないと言う。 「・・・・・・・・・・・・」 我が主人はもしや鈍感なのではないか、という疑いがパナフィートのなかで浮かんできた。だがあえてそれを言わず、ただ淡々とこう言った。 「恋わずらいというやつですか・・・。とりあえず謝らなければならないのではないのでしょうか。このままだとその補佐官は、陛下を・・・失礼ですがお嫌いになると思われます」 「き、嫌い? 恋?」 その言葉を聴くとは思ってなかったのか、ハイルは素っ頓狂な声を上げて少し考え込むように顎に手をやった。 そしてしばらくの間があき、その間パナフィートは静かにクコ茶をすする。 「・・・・・とりあえず謝りに行ってくる・・・・」 「そうしたほうがいいでしょうな」 ハイルはだるそうに動き、執務室から静かに出て行った。 とにかく適当に歩いて探すか、と幼いころから馴染み深いルウィーズ宮をゆったりとした足取りで歩く。暑い陽の光が、容赦なく宮殿を照らす。 「・・・・・・・どこにいんだよ」 ウェーブがかった髪をくしゃっと掻くと、そう呟く。はっきり言って当てもなく歩くのは嫌いだ。 帰ろうか、と足を止めた矢先、目の前の曲がり角から白いローブの端がゆらゆら揺れているのを見て、あれはそうじゃないか、と足を進める。 「・・・・・・・あ」 確かに、さっきの会議で怒鳴ってしまった女だった。後姿しか見えないが、あの女だとすぐ分かる。窓辺に立ち、窓の外を見ている。 声をかけようとするが、何かに夢中になっていることに気付き、少し近づいて視線の先を追う。目の前の女はとても小さいのに比例し、ハイルは長身だったので上から見上げた。 「・・・・・・・・・・・・・」 視線の先は、他の宰相と打ち合わせをしているラーイウ宰相大将だった。 「・・・・・・相変わらずかっこいー」 後ろにいるハイルに気付かず、シュクリーは言ってのける。何も知らずに何も感じずに、ただ己の心が思ったことを、思ったように口にする。それがどれだけハイルの怒りを燃え盛らそうとも。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・このくそっ」 小声で息を吐くような声で小さく呟くと、ハイルはシュクリーから遠のいた。そして心の中の大きく燃え盛る怒りを抑えず誓う。 “謝るものか!”と。そして“恋じゃない!”と。 [*前へ][次へ#] |