誰も傷つかぬよう 「最近、宮廷内でおかしなことが起こっているようだから、気をつけなければなりませぬぞ」 久々に同僚の執務室に来たときだった。 ラシードは帰り際にそういわれた。 ラシード自身も、宮廷内のことには詳しいので、何が起こっているのかは知っている。だが宮廷内のことに疎いはずのその同僚に言われ、おかしな気分になったのだ。 そこからの帰り道だった。 シュクリーが皇帝の治療室から資料をかかえて帰ってきているだろうから、なるべく早めに仕事を終えさせようと思い、小走りになっていた。今頃書類の山にかこまれ、混乱している事だろう。あの部下は本当に面白い表情を見せてくれる。まるで幼い弟を持った気分になるのだ。 思わずこぼれる微笑に、ラシードは苦笑した。それから顔を上げて歩く速度をあげる。 曲がり角を曲がったときだった。何か赤いものが飛び散ったのが見えた気がした。不審に思って歩きを止め、そっと角の影から向こうをうかがう。 銀色の何かも見えた。 それが、赤い液体をまとって笑っているように見えたのが、やけに眼光にこびりついた。 それが血なのだととっさに分かったラシードは、思わず声が出そうになるのをおさえる。赤いのが血なのならば、あの銀はナイフ。 それを持った大きな人間を見た。 短髪の、穏やかそうな顔をした青年。なのにその頬は、その顔ににつかわない赤い血を流している。返り血だろう。 その頬にすべる血が、ぽたりと床に落ちた。 やがて下に転がる人間を見下ろしてから、彼は走り去っていた。 ラシードはその背中が見えなくなるまで見送ると、血だらけで倒れている人間を見る。 心の蔵をひとつきされ、生き絶えた、まだ幼い少年が倒れていた。 少将助役だろうと気付いたのは、その頼りない肩口に落ちているバッジ。きらりと輝くそれは、まだ彼が新米なのだということを現していた。 シュクリーの姿は、ない。 朝の小鳥のさえずりが、まぶしい陽のひかりとともに窓から入ってくる。まぶしくてたまらなくなったラシードは、目を細めた。 なぜ、あんなことを。そんな疑問がふつふつとよみがえる。夜中何度も寝返りを打った。そのつど答えを求めたが、ひとつも浮かばない。 あの幼い少年の幼い顔立ち。その表情は冷たく凍っていて、絶望というものをひたひたと背中にはわせた。 まだ15歳だった。まだ。 彼の上司は泣きながらその名前を何度も呼んだ。何度も何度も、大きな声で、けれど弱弱しく、その名前を何度もつむいだ。 返ってこない彼の声が聞こえないという事実に、その上司は泣き崩れた。 そんな彼を救護班がかかえていったのが目に焼きついている。 自然と涙があふれたのは、当たり前のことだ。悲痛な叫びがいくつも飛び交い、宮廷中を響かせた。 頭をかかえて椅子に崩れるように座ると、ラシードは机につっぷし、静かに溜め息をもらす。昨日は全く眠れなかった。暗闇がひどく、その孤独を色濃くさせた。 ぼうっとそうしていると、ドアがノックされた。 声も出ない気がしていたのに、まだ気力は残っていたようで、彼の口が勝手に「どうぞ」と動いた。 「失礼します・・・あれ」 そういいながら入ってきた人間は、戸惑うようにきょろきょろとあたりを見回した。 朝日にてらされて顔がよく見えなかったが、ラシードが「誰に用事があるのでしょうか」と言うと、ドアを閉めてまっすぐラシードの机の前に跪いた。 ラシードの目は、その瞬間大きく開いた。 「あの、シュクリー・・・シュクリー・ヒッ・リザ・アッサラームがここにいると聞いたのですが」 どくん、と大きく心臓が鼓動を打つ。 声が出ない。 急速に口の中が乾いていくのがよく分かった。 「・・・・シュクリーは、いません」 「そうですか・・・すみません、失礼しました」 立ち上がったその男は、静かに部屋を出ようとしたが、ラシードはそれをとめた。「待ってください」 頭ではあの少年の顔、血まみれの床、あの銀と赤の色合い。そして、目の前の、殺人犯の顔が早々とよこぎっていく。 「・・・昨日・・・どこにいました?」 男は一瞬意味不明だ、という表情をしたが、うっすら笑って「この通り私はハフィーズなので、練習場で剣をみがいていました」と言った。 ラシードは白々しい、と吐き捨てるように笑い、はっきりとした声で言った。 「昨日・・・・見ました。この宮廷内で、あなたが、幼い少将助役の少年を殺していたのを」 ラシードは男をねめつけた。 すると男はうっすらとした笑いを深めた。「じゃあ」 「あなたにも、死んでもらわなければ」 深い笑みが急速に近くなっていく。だがラシードの体はまるで重石をつけたように重い。 うしろにも前にもいけないラシードは、突進してきた体を、受け止めた。 [*前へ][次へ#] |