113昔の話と
四年前、黒川大一が在学していた頃の東鳩山中学校にはちょっとした問題があった。
荒れ果てていた、当時の東鳩山中学校野球部の二、三年の非行、そして後輩いびりである。
野球部の素行の悪さは年々酷くなり、黒川が一年で入部した頃に、おそらくピークに達していた。
それでも何故か教師達からは遠巻きに放置され、運動部としては機能しないまま排除もされず
床に散らばったガラスの破片のように、関係者以外からは見て見ぬ振りで誰もが避けて通るような存在であった。
それでも、遥か昔は甲子園出場選手も所属していた時代もあった鳩山中学校野球部には、自分達の代ではかつての栄光を取り戻すきっかけを作りたいと夢見て、毎年内情は承知で、それでも、と入部を希望する一年生も少なくなかった。
そんな新入部員の九割が、一週間以内に夢から醒めて退部していくのであるが。
その年は珍しく、一ヶ月を過ぎた時に、黒川を含み七人の一年生が残っていた。
一ヶ月毎日、部活時間中、部活時間外に限らずいびられ続けてきたタフな心身と切り抜けるポイントを見分ける知恵を身につけて。
その例年には無い反骨精神こそが、東鳩山中学校において前代未聞の事件を起こす事になるとは、思いもしないままに
【昔の話と】
閉めきったままの喫煙のせいで、年中空気の悪い部室に最後までいるのは黒川達一年生だった。
二、三年が全員帰るまでは帰ってはならないという掟は上が作ったものだが、黒川達にとってもそれは都合が良かった。
「クソ浦松、しつけーんだよ死ね」
一人の部員が吐き棄てながら制服をめくり床に叩きつけたのは、半分にゴッソリ裂かれた週刊誌だった。
それは二、三年が帰宅する数分前までゴム製のバンドで彼の腹部にプロテクターとして仕込まれていたものだ。
時刻はもう7時過ぎ。一年生七人は皆、ウンザリしたようなそれでいてホッとしたような、けれどもどこか緊張も残るような複雑な表情で円を囲んでいた。
「浦松さあ、勘付いてきてんじゃねえかな、だってあいつだけ、今日笑って無かったし」
床に捨てられた週刊誌のクズを見て、また別の一人が暗い表情になる。
その発言に周囲は否定も肯定もしないまま、少しの沈黙が流れた。
「んな事言ったら、もうどうしょうもねえわ、これ以上やられたらオレらん身体ぶっ壊されんべ。野球とか、言ってらんなくなんじゃん」
沈黙を破り、細く鳴くような声で言ったのは、その発言に違和感のあるような大柄な一年だった。
キャッチャーミットにボールを掴んでは離し、掴んは離しを繰り返し、気を紛らわすそぶりを見せる。
その間の会話を、黒川は黙って聞いていたけれど、彼の発言に少し間を置き、口を開く。
「今まで通りやろや。目ざといのは浦松だけだし、オレらが思ってた通り他はもう飽きてる感じだし、夏休みまで上手くやればいーべ」
夏休みになるまで、堪えれば。
それは当初、一年同士で誓った、自分達の精神を保つ為に繰り返された呪文のような言葉だった。
夏休みを迎える前に三年は引退する。夏休み中の一月半は二年はわざわざ学校に訪れてまで一年をいびりには来ないであろうと予測し、その間に自分達で同級生を勧誘しようと話し合っていた。
辞めた者の中にはまだ野球に未練がある者も居ると聞く。
現在三年は八人。二年は六人だ。
今の時点では計十四人で向こうの方が多いが、三年引退時では二年のみ六人。
現在の七人にあと五人勧誘し、倍に増やせば、いくら一年と言えど入部したばかりの頃のような手だしは出来ない。
上手く行けば夏休み中に学校に掛け合い、素行の悪い二年を保護者会で問題にして、野球部ごと潰し、自分達で新しく作る。
同好会のようなものからでも構わない。
それでも、今の状況に比べれば、天と地ほどまともな環境で野球が出来るはずだ。
子供なりに、考え出した唯一の方法であった。
それを希望に、黒川達一年は、堪えていた。
自分達の身体を人形だと思い、心は潜伏するスパイであるかのように。
傷め付けた身体を転がす七人の瞳には、誰一人として異なる感情を持つ者はおらず、お互いを心底信頼しきった眼差しで見つめる。
しかしこの中の誰もが、自分以外の全員に、拳向け血を吐かせた相手でもあった。
もう慣れたものだから、恨む事などありもしないのだが、疲労感を蓄積させた心は腹部や頬の痛みを感じ、血の渇いた指の間を見て、やはり、思わない事はない。
なぜ、こうなったのか。
なぜ、こんなことをしなければならないのか。
誰もが、口に出したら、終わりだと分かっていた。
そういう時こそ、頭の中で夏休みまでのカウントダウンをし、近い未来をイメージする。
必要以上に口に出すのは希望以上に不安を消す為でもあったのだ。
夏休みまで堪える、命綱のようだったその言葉には、本当は、願い悔しさプライド全ての張り裂けそうな気持ちをただ一つに重く乗せられて、いつでも契れそうなほどにグラグラしていた。
「で、その時の三年の一人が、浦松ってやつなわけ」
「そう」
予鈴が鳴り少し過ぎた頃に、赤部ストアーにはちらほら人が増え始めてきた為、現在オレと黒やんは場所を変え、ニスつやベンチに居た。
ベンチに移動して直ぐに、黒やんはケータイを開き一通のメールをオレに見せた。
説明を受ける前に見せられたそのメールの内容の真意は分からなかったものの、その短い文面だけで穏やかな類の物ではない事がオレにも理解出来た。
「つっても、黒やんが中一の頃の話じゃん。もう何年経ってんのよ。それまで何もなかったんでしょ?」
「ん、無かった。オレもわかんねーよ、あれ以来、何もされてねーどころか、顔も殆ど見てない。」
「んー、それもそれで、なんでそんな極端なったの。一応同じ学校で。」
「オレがケロちゃんで遊んでたから」
ケロちゃん、とは以前にれなから説明を受けた、鳩中の変なサークルの事だ。
確か、野球部を辞めた黒やんは、何故からしくもなく一時期、坂本のような乱暴サークルで日夜チャンバラで汗を流してたという。
「ケロちゃんに、笠上さんていう、浦松の同級生が居て、笠上さんと浦松はめっちゃ仲悪かったんだわ。元々、ケロちゃんと運動部は仲悪かったんだけど、その中でも笠上浦松はお互い嫌い過ぎて周りがあんまり会わせないようにしてた。」
「んじゃーケロちゃんが実は黒やんの安全地帯だったわけだ結果的に」
「まー今思えばね。その時はあんまり知らなかったけど」
場所を移動して15分程経った今の段階で、黒やんが話してくれた因縁の話に出てくる主要人物は三人のようだ。
黒やん、浦松、笠上。
時を経て今更に巡ってきた因縁のメールには、どうやらこの三人の過去が関連している、と黒やんは予測している。
しかしながら、オレの頭にはまだ複数のクエッションで埋め尽くされている部分が多々あるのであった。
「でも、なんで浦松って人が、らんの事知ってんの」
「さーね」
「本当にらんの事?坂本っていう可能性はないわけ?」
「わからん。でも坂本には他人に揺すられて困る秘密なんてねーだろ」
「らんだって、別に困んねーしょ、黒やんだって、分かるだろ、黒やん本人に、自分の事を言った時点で、世界中の誰から何を言われてもかまわないっていう覚悟だったってさ、」
「だから、だめなんだって」
思わず力強く出てしまったような黒やんの声に、オレの言葉はあっさり途切れる。
同時に後悔。ああ、今の黒やんには、一番言っては駄目な事だった。
「知ってるよ、分かってる。今のあいつからビンビン感じるわ。でもさ、これはオレの問題じゃん。浦松がオレを気に食わなくてやってる事にあいつは1ミリも関係ねえのにあいつの事がとやかく言われていいわけがねえんだよ」
「黒やん、ごめん」
「…いや、言う奴はなんでも言うんろうだけどさ、付け込まれて欲しくないんだわ。想像、出来んだよ」
「想像?」
黒やんはこういう人だから、こんなふうに痛い位に力説させる前にちゃんと分かってあげていなければいけなかったのだ。
ベクトルは違えど、黒やんがらんの事を思う気持ちだって、らんの長年蓄積してきた想いと同等に深いという事を。
先程、始めて見た黒やんの泣き顔は、泣くという行為からすればとても静かだった。
苦悩する瞳にほんの数的だけ落ちた滴は、流すというよりも、あふれてこぼれたという表現の方がしっくりとくる。
あふれていた物は黒やんの中にある。黒やんの過去にある。
らんに対して、言葉に出来ないものに、ある。
「自分を見下げて、誰から何されても、こんな自分たがから仕方ねーって悟ってるようならんが、目に浮かぶんだわ」
ああ、凄いな。なんで黒やんはすぐにこんなに分かってしまうんだ。
ああ、しんどいな。なんでこんなに分かってる二人なのに今お互いの為に自分を擦り減らす事に一生懸命なのか。
なぜに簡単なパズルはいつまでも完成しないのだろう。
誰かがいたずらでピースを隠してるとしか思えない苛立ちで、オレ達はいつも完成途中すらぶち壊したい衝動に駆られる
「で、黒やんはそのメールになんて返したわけ」
「いや実はまだ返してない」
「え、どうするの、シカト貫く?」
「いや、てわけにもいかないだろうし、オレが思うに文化祭が危ない。誰でも入れるから浦松だって来る可能性がある。あんま時間ねえから浦松のその後を知ってそーな友達にアポ取ってくるわ」
「あ、例の笠上さん?」
話の流れ的についさっき知った重要パーソンになりそうな人物の名前が自然と口から出たら、黒やんはもの凄い微妙な顔で首を横に振った。
「や、笠上さんは最終手段だな。正直、嫌いじゃないけど、すっげ苦手なタイプなんだわ。決して嫌いじゃないけど、うん。結局、浦松の恨みを100万倍増させたのは、やっぱどう考えても笠上さんのせいだし」
「…え、でも浦松をボコボコにして病院送りにした時点で十分個人的に恨まれても仕方ないんじゃない、笠上さんのせいにしたら申し訳ないよ」
「いやいや、それを更に磨き上げて今になって爆発させるまでに膨らませたのは間違いなく笠上さん。ケン、笠上さんは、一言で言えば根暗な坂本なんだよ」
「…う」
オレが言ってしまえばおしまいかもしれないが
根暗と坂本、そんな両極端なマイナス要素を持ち合わせた人間がこの世にいるなんて
激しく気になる。黒やんと浦松と笠上さんとの間には
「結局、夏休みまでに、何がどうなったんだ」
大まかな流れは、らんからも聞いていたのでもう大体理解していた。
野球部入部五週間目にしてブチ切れた黒やんが浦松に反撃し、野球部をクビになりケロちゃんに加入。
気になる所はそことそこの間の話である。
それだけ、「夏休みまで堪える」という信念をもってたのにも関わらず、浦松に向かってしまったという理由と
それから、何故に柄にもなく浦松の天敵である笠上さんのいるケロちゃんに行ってしまったのか、という理由
「…それは」
「うん」
「ま、これが片付いてからゆっくり話すから」
「面倒がらないでよ!」
「実際面倒な話だからね。わり、ケン、とりあえず浦松の事調べっから、オレしばらく消えるかも、坂本アートはお前に任せる」
「黒やんどーせ最初っからやる気ねーだろ」
オレの前で涙してしまった事に、やはり若干気まずいようで終始話ながらも目を合わせてくれなかった黒やんだったが
最後に珍しくオレが突っ込めば、ちょっと申し訳なさそうに苦笑いで目を向けて、オレは不満が残りつつも、ようやく少しほっとした。
「黒やん」
「んー」
「なるべく、早く、帰ってきてよ、もちろん、こんな事になってるなんて言わねーけどさあ」
やっぱりオレは、小心者つーか心配性で、きっと言わなくとも大丈夫なんだろうけど
それでもやっぱり言わずにはいられなくて、しばらく消える、と言う黒やんの背中に駄目押しのように情けなく叫ぶ
「らんだって、もうそんなにはもたないよ」
黒やんと、ケンカしたって、素直に泣きじゃくってる今は、まだ健康的だ。
縋るような、オレの声に黒やんはぴたりと立ち止まった。しかしふり向かないまま、どんな顔をしてるのかオレにはわからない。
「大丈夫、分かってるから」
澄んだ秋の空に、黒やんの声はスッキリと響いた。
「大丈夫」その根拠が頼りない事は発した黒やんも自覚してるはずだ。
それでも、「分かってる」その強さで、きっと全てを信じさせる事が出来る。
そうオレは思った。
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