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101幼なじみの延長戦(後編その1)
元々器用だったわけじゃない、けれども、いつから自分はこんなにまで不器用な人間になってしまったんだろう。

中学時代、最後の夏休み、黒やんは毎日そんな苛立ちを抱えながら過ごしていた。
朝の海、誰も居ない冷えた砂浜に寝そべり自分の両手を開いて眺める。

右手に浮かべるのは、小屋を出ていった夜から、顔を合わせていない幼なじみについて。

そして左手に浮かべるのは、誕生日の翌日、告げられた時に、何も返す事の出来なかった、たえの言葉。



「本当は、昨日言おうと思ってたんだけどね、この前の大会に来てた人にアメリカのサーフチームに来ないかって言われた」



反応を見せない自分に、たえもどうしていいのか分からず、困ったような顔をさせてしまった。

自分の気持ちを表すのが上手くなくて、人の気持ちも正確に汲み取れない。

元々そうだと知ってはいたけれど、せめて大事な事に関する時位は、そんな自分を振り切って、何をするべきなのか分かっていたかった。





【幼なじみの延長戦(後編その1)】




何を言えばよかったのか、考えるけれども、あのタイミングで黙ってしまった自分が今更何を言っても遅い気がした。

詳しく知れば、たえが誘われたのは結構有名なチームらしく、スポンサーが付いてプロになった選手が何人もいるという。

この街の小さな大会をコーチが見学しに来たのはあくまでプライベートな用事でのついで。
たえの才能を見つけたのは、本当に奇跡に近い偶然だった。

たえがアメリカに渡るとなれば、勿論自分との関係は変わる、それだけを黒やんは冷静に理解している。



まだ薄い夜を残していた空に、朝日が昇り始め、黒やんは眩しくて目を閉じる。
そのまま眠ってしまいそうになったが、波以外に音の無かったその場所に人の気配を感じ、重い瞼を持ち上げた。


「何、黄昏れてんだよ」


上から自分を覗き込んでくるのは、父親の弟、黒やんの実の伯父であった。
この海のすぐ近くでサーフショップを経営し、この辺のサーファーとはほぼ顔見知りな伯父は、勿論黒やんとたえの関係についても知っている。

早朝に一人、砂浜に寝そべる甥が何に頭を悩ませているのかも、言わずとも分かっていた。


「たえと喧嘩してっからだろ」


「別に喧嘩とかしてねえし」

「そんならちょっと落ち着けよ、たえが可哀相だろ、お前が最近ずっと苛ついてっからみんなお前らが喧嘩してると思ってんぞ」


伯父に言われて、ハッキリしない自分への葛藤がそんなふうに態度に表れていたのだと知り、黒やんはますます何も言えなかった自分を後悔した。

真面目に話そうと体を起こし伯父の方を向けば、伯父も黒やんの隣にしゃがみ、煙草に火を点けた。


「たえがさあ、アメリカのチームにスカウトされたんだわ」


「何それ、すげえじゃん」


「なー、すげえじゃん、聞いた瞬間は、普通にすげえって思って、見たかアメリカーて、日本にはたえって女がいんだぞ、すげえだろって」

「たえはお前の王貞治だもんな」


「でもさあ、それそのまま言ったら、たえがアメリカに行くの全然平気みたいじゃん」


「あーなー、何年くらい行くわけ?」


「サーフィンの特待で試験無しで大学まで行けるらしいから、六年弱」


予想以上の数字に、伯父は煙草を加えたまま苦笑いで黒やんを見る。
伯父の意味深な表情の意味を黒やん自身も理解しているようで、それに対して何も言わない。


「それで続けんのは無謀だわな」


今だけの感情なら、待つとも言えるかもしれない。
それが口先の物ではなく、本気で思った事だとしても、いい歳の伯父には分かる。
今より先の時間の事は、どんな本気や誠意、例え愛情だとしても保障する事は出来ない。

移ろいやすい人の感情に保障のない六年は長い。


「たえがアメリカに行くっていう事は、お前と別れるっていう事で、お前と別れないっていう事は、たえはアメリカを諦めるっつー事、ね」


「結局そーなんだよ、単純過ぎていらつくわ」


「で、お前はなんて言ったんだよ」


「何も」


「うはははー!無言!」


「うるせえ、行った方がいいに決まってるし、たえも絶対行きてーんだろうけど、そう簡単にどっちのリアクションも取れねえんだよ」


「まあ、お前は自分の気持ちだけで言ったら、別れたくねえんだよな」


「多分、オレがたえにとって過去の人になんのがキツイんだと思う」


過去の人、まだ子供の甥から変に大人びた言葉が出て来て、笑う所ではないが叔父は思わずにやけてしまう。
そんな叔父の顔に黒やんは不満気な表情で睨むが、仕方なさそうにため息をついて言葉を続けた。


「なんていうか、別れたとして、最初はキツくても段々慣れて、最終的に全然平気になって。いつか、昔はあんな奴が居てあんな事で悩んでたんだ馬鹿だったなーてたえもオレも変わっていくのかって思うと、なんか、さあ、嫌なんだよ」


「まあ、でもそれは当たり前の事よな」


「はあ、まあ、分かってんだけどね」


「ガキには分かんねえかもしんねーけど、大人になったら、そうやって昔は馬鹿だったなとか思い返すのが結構心地良かったりもすんだよ」


「オレは、まだ、色々変わってくのが妙にしんどいんだよ」


頭では理解出来るのに、それを受け入れるだけの器がない事を、黒やんは無償に悔しく思った。
今、大事だと思ってる物がいつか必要で無くなる事。誰にでも巡り来る必然。叔父の言うように、大人になれば今この瞬間の事も忘れ、平気で生きてるんだろうとも思う。
未来を想像してみた、また別の何かを大事に想う、変わった自分。
それはそれで幸せかもしれないけれど、その中に今の自分の中に持ち合わせている物はどれだけ残っているのかと。
そんな事ばかりを考えて、無駄に感傷的になり嫌気がさす、けれど治まらない。



「いいじゃねえか別に、ちょっとくらい変わっても、あのなあ、人間どんだけ擦れて昔と全く違うって自分で思い込んでても、結局自分は自分にしか変わんねえわけよ、意味わかるか?」


「わかんねえよ、自分自分て何人自分がいんだよ」


「誰でもな、多かれ少なかれ変わっていくもんだけど逆に、自分がどう足掻いても一生変えられない部分がある」


「何それ、どこ」


「そりゃあ人それぞれだけど、どんだけ遠い所行こうがどんだけ歳とろうが、絶対変わんねえもんがあるわけよ」



何かを見てきたような顔で叔父はどこか確信めいた言葉を繋ぐ。
言わている事は、なんとなく分かるようでいまいちピンと来ない。
けれども叔父の余裕を見ればそれは確かに重要な事である気がして、変えられない部分その言葉を黒やんは自分中で反復させながら黙って聞いた。



「散々変われば変わるだけ、変わってねえ所が、わかりやすく見えてくる、だからどんだけ変わったっていいんだよお前もたえも」


そう言って叔父は黒やんの髪に付いた砂の粒を掌で払った。
肩を滑って落ちていく砂浜の一粒が視界を通り過ぎる。


「重要なのは変わんない事じゃなくて覚えておく事よ」

叔父はそれ以上の事を黒やんに助言せずに、二本目のタバコに火を付けた。
再び波の音だけが漂う中で黒やんは考える。
叔父のように、変わっていく事を心地良く思えるようになった時に自分は何を見つけているのか。
そしてどういう決断の上に、それを見つけ出していくのか。
タイムマシーンでその時を見る事が出来たら楽になるだろうにな、と今行き場のない両手でどこまでも沈む砂を掴んだ。




「それか、力尽くで行くなって縋り付くのもよしじゃねえの」


「縋り付くねえ」


「ま、格好悪いかもしんねーけど、色恋で幸せになれんのは捨て身で最後まで縋り付いた奴なんだよ、結局」


言い逃したあの瞬間から、ずっと自分の中を掻き回して探している。
曇り空の夜、そして翌日のたえ。
自分の中は、今、ぐちゃぐちゃで散らりっぱなしだと、黒やんは思った。
対極の感情がいくつも、バラバラになって、どれも浮かぶ事なく反発し合う。


はやく一つになれ、はやく一つになれ


「どっちにしろ、たえは待ってんだから、とっとと決めて反応してやれ」


一つになれ


気が付けば、太陽は完全に上り、夜の空気は完全にその場から姿を消していた。まばらにも海に人がちらつき始めているのを見て、叔父は店の開店準備を始めるべく立ち上がる。
黒やんはまだその場に座り水平線を眺めていた。
日に焼けたその背中に、叔父はそういえばと声をかける。



「らん最近いねえなあ、まあサーフィンしねーならここに居てもあちーだけだしな、秋になるまで来ないかもな」


叔父は、らんとたえに何があったのか知らずに、特に気にする事なく黒やんに尋ねる。
言葉を投げかけられた黒やんは少しの間の後、振り向く事無く水平線を眺め続けながら返事を返した。


「や、秋にも来るか、まだわかんねーよ」


「何で、なんかあったのかよ」


「喧嘩した」


「はあ?お前無茶苦茶ゴタゴタしてんな面倒臭いとっとと折れろ」


「駄目、今回は、らんが自分から何か言ってくるまでは、オレも折れない」



らんが海に来なくなって、もう両手では数えられない程の日が過ぎた。
その間、らんと一度も顔を合わせる事なく、電話すらせず、最後に小屋の入口ですれ違った瞬間から一歩も事態は前進する事無く時間だけが過ぎていく。
黒やん自身もそれに違和感を覚えている。

けれど黒やんはこの時、らんからの意思表示を待っていた。

結局、らんが何を思っていたのか、一度も本人の口から聞かされた事はない。

もしこのまま、らんが二度と訪れないとしても、何事も無かったかのように突然現れたとしても、クラスメートに言われたような事を直接主張されたとしても

それが、らんの意思表示であると黒やんは受ける事にした。

たえは今もらんに謝るべきだと言うが、黒やんは、まだ認める訳にはいかない、という思いがそれを拒んでいた。


まだ待つ、いずれ分かるから


そう心の中で呟きながら、黒やんはひたすらに水平線の上に煌めく太陽の反射を眺め続けていた。


秋、新学期が始まって久々の登校をした黒やんは、またクラスメートに思いもよらない話を語られ、リアクションのとり方に戸惑う。

結局夏休みの間にらんは現れず、たえとも決定的な話をしないまま現状維持の吊橋の上で、契れそうな精神のモヤを抱え続けてきた黒やんの心は、クラスメートの言葉でひと時全く別方向に吹き飛んでいった。




「は?」


「だから、らん、今軽くハブられてるって」



まさかの発言に、思わず冗談かと思い笑いそうになったが、クラスメートが苦笑いのままでいるのを見て、黒やんはそれを押さえる。


「えー・・・、なんで?」


「あーもー、黒やん学校こねーからさあ!結構大変だったんだって、らんがアミに手え出したからえーちゃんキレて、今もあの辺のグループはらんの事ボロクソ言ってんべ、オレらもさあんま巻き添えくらいたくないしなあ」



「網?」


「アミだよ、えーちゃんの彼女」


「ああ、あの女か、ええー」


驚きの余り、反応が一々遅れる黒やんに対して、クラスメートはどんどん話を進めていく。
そんなに一気に言われても追いつけないと焦りながら、耳だけで話についていく。
とにかく、黒やんは驚いていた。
クラスメートの口から出る一言一句全てに。
しかし何よりも驚いた事に黒やんの頭はいつの間にか占領され、クラスメートの言葉を遮って呟く。



「らんも、誰かと一対一で、喧嘩とかすんのな」



必死で現状を伝えようとしているのに、妙に呑気な黒やんの言葉にクラスメートは唖然となった。
昔から、誰と誰が揉めても、我関する事なく、中和液のように笑っていたらんが、個人的に誰かと喧嘩する時が来るなんて、想像すら出来なかったと黒やんは不思議な気分になった。

大変な事態になっているというのに、鈍いリアクションしかされず、もどかしそうなクラスメートとの間に開いた微妙な距離感に気付く事もなく。


「でもさあ、らんもそれらしくヘコんでればまだいいかもしんねーけど、全然平気そうだから余計にえーちゃんの神経逆なですんのよ」


「らん、平気そうなわけ?」

「だよ、超スカしててさあ、だから周りにも同情されねえんだよ、えーちゃんキレたら容赦ないのもアレだけどさあ、元々やっぱらんが悪いんじゃん、あれじゃボッチにもなるわ」


「今って、誰もらんと話してねえの?」


「あー、正直、今のらんは調子乗ってんよ、みんな無理って言ってる。昔はあんなんじゃなかったのになーやっぱ変わったわ」


つい零れた、クラスメートのらんに対する愚痴。
小学生の頃からのらんを知っているだけに、その表情は複雑そうだった。



「らんは完全に変わった、もう駄目かもしんね、あいつ」



諦めたような口ぶりのクラスメートの言葉を、黒やんは自分でも意外な程冷静に聞いていた。

頭の中で、反復するのは、叔父の言葉、言われたあの日からずっと、脳の奥で揺れている。


自分がどう足掻いても一生変えられない部分がある。

急に、胃がじわじわと熱くなって、焦りにも似た物を感じた。
らんが何か言ってくるまでは、意思表示を待つと決めたはずなのに、確かめなければと、いう感情が込み上げてくる。




「らんって、今どこにいんのかね」


「さあ、一回誰かが、二搭の屋上で飯食ってんの見たって言ってたけど、今日はどうかね全然見てねえから帰ったのかも」



二搭の屋上、グラウンドが見える一搭の屋上の反対側にあるプールが見える小さめの敷地。
コンクリートに覆われて、陰のないその場所には、まだまだ暑い今の時期に上る者は少ない。

そんな場所で、話し相手の誰もいないらんは、一人で飯を食ってたという。

そうか、そうなんだ。

実感した瞬間に、黒やんは廊下を走っていた。
階段を一気に駆け降り、渡り廊下を通過し二搭に入る。
頭の片隅で、冷静な方の気持ちが、何やってんだと余裕のない自分を咎めるが、本能の方はぐいぐいと自分の体を屋上まで引っ張った。

まだ昼休みでもないし、クラスメートの言う通り本当に帰ったのかもしれない。別の場所にいるかもしれないし、全部間違っているのかもしれない。


けれど、賭けみたいなもんだ、黒やんは唱えながら小さく走った。


クラスメートが嘘を言ったとは思ってないし、話を膨張させたとも思ってない。
話によれば、らんは全然平気そうらしい、でもオレが知る範囲では

床が剥がれた階段を駆け登りながら黒やんは思い返す、残暑の熱気に目眩がした


ああ見えて、らんは誰かを傷つけて平気でいれるような人間じゃないんだよなあ
それが、無駄に人と喧嘩出来ない理由の一つで、こんな辺鄙な所に一人でいる理由の一つだとしたら。

黒やんは思った、確かめなければいけないと、馬鹿を見るかもしれなくても階段を上る。


屋上への扉の前にたどり着いた頃には、毎日鍛えてるつもりでもやっぱり息は上がって頭がクラクラした。
重い扉を静かに開いて、外を除く。コンクリートの敷地をぐるりと見回しても人の気配は無かった。
自分の思い込みを確信して思わずその場にへたり込みそうになった。
熱くなって、馬鹿過ぎる、ドアノブを掴んだまま、ズルズルと体を落としていったその時だった、視界の隅に影が見える。
誰かが屋上のフェンスに沿って端から端を横切った。瞬間に息を止める。


居た、居たのかと、バクバクする心臓も止めたかった。

紛れもなく薄茶色の髪、紛れもなくフラフラとした歩き方。
まだ3時間目の休み時間、こんな所で何やってんだと、聞こえるはずもない相手に黒やんは心の中で呟いたのだった。


クラスメートの情報は正しかった、二搭の屋上にらんは居た。
予想通り一人で、ドアの向こうの黒やんに一切気付いていない様子。
ドアの隙間からしばらく観察すれば、突然にどこからか巾着袋のような物を取り出す。黙って見ていたらそこから色とりどりの包装に包まれた栄養補助食品が出て来て並べられた。


何やってんだ、マジで、黒やんはらんの行動に困惑しながら再び思う。


栄養補助食品をらんはじっと眺めていた。そして左端から包装を開けて一口かじる、ダラダラと30回位噛んだ後はまた巾着の中にそれを戻した。


戻すのかよ、食ってしまえや、段々釘付けになりながら黒やんはらんを観察し続ける。


八つ位並べられた栄養補助食品は、結局全部一口づつ食われて全て袋の中に戻された。
どの味を口にした時も、らんの表情は変わらない。酷くつまらなさそうに同じ事を繰り返していた。

今の所、なんとも言えない様子である。
けれど、我が儘な食べ方がらんらしい、と黒やんは思う。多分、どれが美味しいか解らなかったから全種類買って、全て試し食いしてみたのだろう。
些細な行動の意図が読める。どうでもいいような、らんらしい部分。
少しづつ鼓動が落ちついていく。
間食を終えたらんはコンクリートに背をつけ仰向けに寝転んだ。太陽を真っ正面に浴びながらも瞬きすらしないボンヤリとしたらん。
眩しくないのか、そう尋ねてみたかったが、押さえて扉の向こうで息を潜め続ける。

クラスメートは、らんは平気そうだと言っていた。


こんなふうに誰かと喧嘩して、一人でいるらんを黒やんは見た事がない。
友人達に愚痴られ、ハジかれているらんを初めて見る。今どんな心情でいるのか言い切る事は出来ない。

声を掛けるのは容易い、今こんなに近くにいるのだから。けれど、らんはもう嫌がるかもしれない。

自己主張の激しかったらんは、こっちから聞かなくとも何でも自分にぶちまける。
そんならんが、こっちに何も求めてない今、介入するべきではないのかもしれない。

じゃあ、ここで今自分は何をしているのか、黒やんは考える。


そうだ、自分が何も尋ねるべきではないなら、それでも仕方ないのだ。

けれど、一つだけ、たた一つ知りたかったのだ。


らんが、今、本当に平気なのか





「寂しいよ」




そう思った瞬間に重なるらんの突然の呟き、まるで自分に返事を返したかのようで黒やんは慌てる。
思わず閉めてしまった扉をそっと開け、様子を伺えばらんは相変わらず仰向けでこっちの存在に気付いているふうではない。

落ち着かない心臓をバクバクさせながら、らんに注目していると、仰向けから膝を抱えて横を向いた。

成長したはずの体型だが、縮む痩せた背中は、その存在を小さく見せた。



「さ、みしい、なあー、誰かー誰かあ・・」



数秒固まった後に、我に返って逃げるように階段を下りていく。
暦の上ではもう秋だが、風通しの悪い二搭の室内は夏のように暑い。
走る間にたらたらと汗が伝う、床に落ちる。

黒やんは、らんの独り言を聞いた後、扉の前を後にした。自分の中の衝動に驚き、感情のままにその場から離れた。


そんな黒やんの存在に終始気が付く事の無かったらんは、黒やんが居なくなった後、言葉の続きを淡々と繋ぐ。




「あー・・、寂しいです、みなさん、・・黒やん」



完全に一人の空間で、らんは浮かぶままに声を発していた。
高い空を仰いで、目を閉じ、自分だけの世界を想像する



「黒やん」



何ヶ月も会ってなくても、その顔を浮かべるのは、らんにとって容易かった。




「オレを許して」




届かないと、伝わらないと知っているから、らんは安心して口に出す事が出来た。



その頃、走り去った黒やんは二階の踊り場で上がる息を落ちつかせていた。
いきなりに喋り始めたらん。
思いもよらずに聞いてしまった呟きに、黒やんの中でちらばっていた物はじわじわと溶けていく。
混ざり合って、一つの温かい水のように心を溢れさせていく。


鼻の頭に水滴が見える、何でこんなに必死になってるんだろう、恥ずかしいと、今更黒やんは自分の行動を振り返る。
なんだか情けなくて、これ以上動く気力が起きずに、その場にずるずると腰を下ろした。
座ったら余計に、頭がくらくらして息を吐きながら上を向く。
階段の高い場所にある小さな窓から、青が見えた。


こんな所で、何で死に掛けるんだろう、と色々と越えて、逆に黒やんは可笑しくなってくる。
ドアに隠れて覗いてるし、本当に馬鹿だ。
でもらんも馬鹿だ。寂しい、とはっきり口に出した。やっぱり寂しいんじゃないか、変な意地を張りやがって、こんな所で一人隠れて訳わかんないもん食べて、あんなもんまずいに決まってるじゃないか。
らんの行動を思い出し、呆れたような笑いが込み上げ、息切れに重なって苦しい。
速い自分の鼓動を数えながら、目を閉じた。遮断されたはずの視界にはまだうっすらと青が残ってる

寂しいとか、キツいとか、主張するの得意だったくせに、何あれ、下手くそ




「は、あ、よかった・・」




無意識に発してしまった自分の声に気付いたのは、肺の苦しさが完全に落ちついた後だった。
へたりこんでしまったのは、体力が尽きたからではなく、酷く安心してしまった事による脱力感。
安心し過ぎて立てなくなる事など初めてだった。

らんは、確かに変わったのだと思う。
同時に、変わっていないのだと、黒やんは思った。

自分は自分にしか変われないという叔父の言葉を、黒やんはようやく噛み締める。
変わってもいいのだ、という事も。
変わる、という事は消えるという事ではない。その奥底には必ず今までがある。例え見えなくなったとしても、今までの上に現在は乗っている。

変わったっていいのだ、好きなだけ変わればいい。

覚えていればいい、意地になって剥きになって、忘れないでいればいい。

そうすれば、変えられない部分は、いつでもそこに戻ってこれる。




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