89愛という言葉とその詳細
アスファルトに囲まれた工場密集地。
赤高から遠く離れたそこに、坂本明男は一人立っていた
腕をくるくると回し、ストレッチ、人目も気にせずそんな行動を取るさなか、ズボンのポケットの中にある携帯は、震えて着信を伝える
「もしもし、今どこいんの?」
「アルミ工場」
ストレッチを続ける片手間に、携帯を取る坂本。
電話で坂本の居場所を確認してくる相手は、横須賀誠悟である
誠悟は、電話の向こうで聞こえてくる坂本の声の奥に響く、機械的な音を拾う
「周りに誰かいるか」
「さーね」
「ま、その調子で頑張れ」
携帯を肩と頭の間に挟み、、誠悟の言葉を耳に通す坂本の姿は、夏休み前よりも少し日に焼けて、発光する金色の髪をより明るく見る者に映した
「せーご」
「なんだよ」
返事の返ってこない坂本に、電話を切ろうとした誠悟。
その直前で、自分の名前を突然呼んで来た坂本に呼び止められる
「もーすぐ夏も終わるわなー」
「あん?」
夏休みも残り一週間と少し、しかし暑さはまだまだ和らぎそうにない。
脈絡のない坂本の言葉に、何を言いたがっているのか分からず誠悟は怪訝な声で返事を返す。
「明日なんてどう?」
電話の向こうで、坂本はどんな様子でいるのだろう
疲れている?飽きている?でもきっと笑っている。
短い電話の、最後の坂本の言葉は誠悟に対するゴーサイン
今日は忙しくなるかな、と
坂本との通話を終えて、誠悟はすぐに、少し前から保存していたパソコンメールを開き、送信ボタンをクリックした
【愛という言葉とその詳細】
オレの部屋に閉じこもっていた黒やんは、しばらくの説得ののちにようやく顔を出してくれた。
前々から、黒やんが昔ちょっとやんちゃだった事に触れようとすると過剰に嫌がるのは知っていので、その辺についての話を振らないよう努力していたオレである
「スゲーな黒やん、れなまで黒やんの事知ってたぞ」
「別に凄い事なんてなんもねえよ」
本心から黒やんの知名度に関心するオレに対して、黒やんは再びに浮かない顔だ。
それは謙遜という物ではなく、本気の否定。
「でも黒やんチャンピオンだったんだって、ケロちゃんチャンバラ?スゲーじゃん」
「全然、馬鹿だったから、オレ、自分の恨みを関係ない奴に当たってただけ」
「恨みって」
「オレ鳩中入った最初は、野球続けてたんだわ、最初っつっても、たったの5週間だけど」
今までは触れないように過ごしてきたが、気になっていたのは確か。
黒やんの当時を聞き出すなら、今がチャンスと遠慮無しに質問をぶつけるオレに、黒やんは諦めたようにポツリポツリと語り出した。
黒やんが自ら口を開き始めた瞬間から、オレは横槍入れたい自分の気持ちを押さえて黙った。
それから長い事話し込んで、気が付いたら外はもう夕暮れ、オレは黒やんの新しい一面を知って新鮮な気持ちに満ちながらも、その新しい一面にも黒やんらしさを感じる。
黒やんの方は、珍しく、自分の事を話し過ぎたと少し後悔しているような、でも少しすっきりしているような複雑な表情で、興奮に目を輝かせるオレを嫌そうに眺めていた
「おい、あんま人に言うなよ」
「大丈夫だって、いやしかし、なんかちょっと嬉しい」
「なにがよ」
「いやー黒やんも周りの事だけじゃなくて、自分の事でも悩んだりすんだなーてなー」
ヘラヘラと笑うオレに対して、黒やんは呆れたような瞳で少しだけ微笑みを返してくれた。
いつの間にか、黒やんに渡したペットボトルの中身は減っている。
自分の事を語る間に、何度も渇く口の中をそれで潤していたのだ
「当たり前じゃん、オレだって、まだ16よ」
いつもいつも、坂本やらん、家の事、学校の事で手を焼いている黒やんだから、みんなきっと忘れがちだけど
黒やんの言う通り、黒やんの人生経験はまだ今年を入れても17年目、オレと同じ。
オレが馬鹿みたいに短い人生の歴史に絶望を感じていた時だって、黒やんも同じ時間軸で、自分の人生の細々とした問題に頭を悩ませていた。
それは、現在進行形で、最長になっている今だって、変わらず。
「悪い、オレちょっと用事出来たわ」
「用事?なんの?」
黒やんが語る当時の自分の事、話し尽くした後は和やかに過ごしていたオレと黒やん。
しかし黒やんが話の最中に届いていたメールを確認した瞬間に、また表情が変わる
一体誰からのメールなのか、オレはなんとなくらんの顔が頭に過ぎり、黒やんに尋ねた
黒やんは若干面倒くさそうな、でも仕方なさそうな顔でオレに返事を返す
「ちょっと今から行かなきゃいけないみてー」
「ふーん、どこに?」
「母親の所」
黒やんの口から出て来た言葉は、想像とは全然違う意外なものだった
確か、黒やんの両親は別居しているんだっけか
前に、黒やんは言っていた。
黒やんのお父さんの女癖の悪さに愛想を尽かせたお母さんは出て行った、しかし黒やんはお母さんの現住所も知っているし、定期的に会っている、というような事。
「じゃあオレ行くわ、突然来てわりーまたな」
「あ、うん、ちょっと待って」
立ち上がり部屋を出ようとした黒やんに、オレどうしても伝えたい事を思い出し引き止めた
オレの声に振り返る黒やんは、言葉選びに詰まり口をごのごのと動かしているオレを不思議そうな目で見る。
「黒やん、大丈夫?」
「ん、何が?」
「最近体調崩してたって聞いてたから」
「ああ、そんなたいしたことねーから」
「らんが心配してたよ」
黒やんの目をしっかりと見据え、視線が逸れぬようにオレは伝える。
オレの言葉に、黒やんは表情を変える事はなく、ただ静かに一度だけ瞳を閉じた。
「そっか」
そう短く呟いて、黒やんは部屋を出て行った。
その声色にも、普段との違いは特にないはずなのだが、夕方の風が吹き込む部屋の中になぜか少しせつなく響いた。
黒やんが、ケン家を出た足で向かったのは、飲み屋が軒並み並ぶ通りの入口にある、ささやかな規模の小料理屋であった。
入口の擦りガラスからは明るい店内の光が漏れて、人の気配を感じさせる。
客の平均年齢は高めで、雰囲気も決して若者向けではない。
そんな小料理屋の引き戸を黒やんは慣れたように開き店に入った。
店内には、二人のサラリーマンが静かに飲んでいる、その他に客はいない。
そのまま、カウンターまで歩き、隅の席に腰を下ろして、カウンターの奥にある小さな厨房から、人が出てくるのを待つ。
目的の人物が、揚げ物を盛った皿を持って出てきたのは、それから一分も経たないうちの事
着物に、白いエプロン、結って纏めた髪、ここ5、6年、母親は、いつもこの姿だ。
高校を卒業してすぐの結婚で、別居以前は働いた経験が無く10年間専業主婦だった母親が、一人で小さいながらも店を切り盛りする姿を、未だに黒やんは慣れた目で見る事が出来なかった
「何、もう着いてたなら呼びなさいよ」
「今着いたばっかだよ」
厨房から出て直ぐに黒やんに気が付いた、母は、揚げ物の皿をお客さんに出して直ぐに黒やんが座る席の前に向かった。
二人の会話を、チラチラと伺うサラリーマンの視線に、母は気付き、微笑んで、少し離れた場所にいるサラリーマン達に話し掛ける
「これ、息子です」
サラリーマン達は予想していたようで、へえと関心深く黒やんの顔を眺めた。
こう来ているお客さんに紹介される事は、この場所に来ればよくある事だが、無駄にジロジロ見られるのは余り気持ちがいいものではない
あえて、サラリーマン側に向かないように努めても、横から見られている感じは分かる。
常連客の居る前で、母親を呼ぶのは恥ずかしく、厨房から出てくるまで待つしかなかった黒やんだが、その気持ちは余り母親には伝わっていないようだった。
「で、なんか用?」
「なんか用だなんて、あなた働きすぎで倒れたんでしょ、そんなにお金足りてないの?ちゃんと食べてるの?」
「倒れたとか、そんな大袈裟な事じゃないから、ちょっと夏バテしただけだって、学校ないと暇だから最近はフルにバイト入れてただけだよ、向こうも人足りないつってたからで別に金に困ってる訳じゃねーよ」
「困ってないならそんなに働かなくていいじゃない、暇ならたまには顔見せに来なさいよ、呼ばないと来ないんだから」
「そっちこそ、誰もいない時にうちに来て、掃除して、洗濯して、飯作って誰にも会わずに帰ってくだろ、知らない間に部屋が片付いてるから、ビビるんだけど」
カウンター越しに親子は、感情を荒げる事もなく淡々と言い合いを続ける。
母親は、冷静な人だ、気丈で真面目で厳格な家の育ち、我ながら大きい釣り気味の目は自分と似てる、と黒やんは思う。
自分の意見を押し通す訳ではないが、芯は決して曲げない、控えめだが、内に秘めた気の強さは顔立ちに現れている。
こんな母が、何故浮ついた性格の父親と若くして結婚してしまったのか、黒やんは未だに謎に思っている
家を出てからの母は、黒やんの記憶では一度も父と会って居ない
一月に一度くらいの間隔で、父が居ない隙をどこからか察し、家の様子を見に来る以外は、毎月黒やんが管理する黒川家の口座に送金するだけ。
母から送金されたお金を、黒やんは滅多に下ろす事は無かった。
余りにも減らない預金に、怒った母からこうやって呼び出しがある時以外は、黒やんからこの店に足を運ぶ事はほとんどない
一緒に暮らしている時も、母親にはどこか威厳を感じていた。
異性である事から、益々母の心情を掴む事は黒やんには難しい。
「とにかく、金は大丈夫だから、もう送んなくていいよ、そっちの生活だって大変じゃん、ここだって別に儲かってる訳じゃないんでしょ」
「何言ってんの、あんたも民也もまだ高校生でしょ、親としてあんた達の生活を保証する義務があるの」
「親父だって真面目じゃないにしろ、一応働いてるみたいだし、こっちの家の事は親父がやればいいんだよ、つーか普通なら親父が母ちゃんに金入れてもいい位なんだべ、慰謝料とか」
「そんなもの、貰う必要ないわ、別に離婚した訳じゃないんだから」
こういう台詞も、母は淡々と言う。
黒やんが不思議でならないのは、もう何年も離婚したも同前な生活を送っていて、まだ二人が離婚届にサインをしていないという事。
母が出て行ってすぐの頃は、両親がこのまま別れてしまう事に不安を感じていた黒やんだが
今となっては、逆にまだ離婚が成立していない事が不安でならない。
何か障害があって、別れられずにいるのか、それは自分達子供の事だろうか、そんな思いは、常に頭を過ぎっていた
小学六年生の頃、父親と知らない女がラブホテルから出て来るのを見た同級生が、自分の家を噂した事があった
そんなふうに言われていたのを知ったのは結構後になってからだったが、それを知って何より腹が立ったのは、もし、その時点でちゃんと離婚していれば、はしたなくは思われるにしろ、別に浮気ではないのだから、母が他人から勝手に同情を買う事もなかった。
母が、ちゃんと父との縁を切っていれば、そんな下らない噂に母が巻き添えになる事もなかったのにと
「ねえ、なんで親父と離婚しねえの?」
「え?」
「今更、オレもたあも何も思わねえし、もっとちゃんとした人と再婚でもして貰った方がこっちも安心すんだけど」
ずっと言わずに溜めてきた言葉、ブレずに一人で立ち続けている母を目の前に、遂に口から零れた。
感情を匂わせない母の気持ちを汲み取るのは難しいが、やはり子供として母親には幸せになって欲しかった。
周りに見せ付ける程に、幸せに。
「それは無理よ」
「はい?」
「あなたには、分からないだろうけど、これでも私は今でもあの人の妻のつもりなんだから」
母の顔は相変わらず無表情、思いもよらずに出て来た言葉が余りにも不似合いで、黒やんは思わずポカンと口を空けたまま言葉を失った。
「大一、口を閉じなさい」
母が言った言葉の意味を理解し、返事を返そうとするよりも先に、母から注意の言葉を受け、思わず口を手で覆う
掌の中で唇を結び、思い出すのは、まだ母と一緒に暮らしていた幼い頃、よく言われていた言葉。
姿勢を整えなさい、顎を引きなさい
いつでも、凛としていなさい。
面倒に感じていた母の小言、久しぶりに言われて、感じるのはそれは全て母自身形容する言葉。
「思いの外、夫婦喧嘩が長引いたわ、でも続ける必要があるのよ、例え周りに馬鹿だと思われても」
「は・・?」
「あなた見た事ない?家の電話の下」
家の電話の下、そんな物に意識を向けた事なんてない、一体何の話なのかと、今まで聞いた事のない母の言葉が理解出来ず、痛む頭を押さえる黒やん。
家を出たまま何年も、別居しているのだ、どこが夫婦喧嘩で済ませられる話なのか、と段々目眩がしてくる
「あの人、私が家を出て直ぐの頃、電話で謝って来たの、雑な謝り方で、何度も、私腹が立って、言ったわ、謝罪の手紙を100通書きなさい、でも一遍に寄越したって駄目、月に一通だけ書いて電話の下に置きなさいって、それを100通受け取ったら、戻ってくるからって」
「なにそれ・・・」
「月に一度掃除に来るのは、手紙を受け取るついでよ」
初めて聞いた、両親の真実に、黒やんはただ唖然としたまま母を見るだけだった。
月に一度だけ、部屋が隅々まで掃除されている現象。
補充された冷蔵庫に、取り込まれた洗濯物。
母が来たのだという形跡は、部屋に残る母の香水の匂いとしても残されていく
「でも、オレが七歳の時だったから、10年、もうとっくに100通位いってるはずだろ」
「そんなの、あの人が浮気した時点で無効よ、また一からやり直し、何回もやり直してるのよ」
「何でそこまでして、親父を許そうとすんの、あいつはこれからもずっと浮気するべ、一生100通なんていかねえよ」
「でも、未だに毎月手紙が置いてあるの電話機の下に、懲りずに浮気しながらも私が言い出した面倒事を続けてる、あの人の方が離婚した方が好き勝手出来るのにね、だから私もあの人に少しでもまだ謝る気があるうちは離婚はしないわ」
冷静で、物静かで、現実的だとずっと思っていた母、そんな母のしている事は子供の自分の目からも幼稚で馬鹿馬鹿しくも思える
しかし、目の前の母は、きっと自分でもその事を理解していて
何故離婚しないのか、今まで周りからも散々そう思われて来たはずだ、そんな周囲の刺さる視線にも母は、背筋を伸ばし、顎を引いて、いつでも凛と、心掛けている言葉を身に纏い耐えて来たのだろう
それを何というのか、知ってはいるけど、第三者の目からはそれは余りにも不可解で
「いい歳して・・・」
男女は結婚して子供が生まれたら、男と女では無く、父親、母親になると、世間ではよく言われる
自分の両親は、正反対だ、男と女以前に未だ子供の好き嫌いのような事を続けている
呆れる心の反面、凄いと思うのは、10年間、指一本触れ合わず顔すら合わせず、毎月一通の手紙だけで、繋がっていた関係。
欲しているのは、どこまでも感情だ
「ええ、いい歳して、まだあの人を、愛してるわ」
下を向いて呟いた母の声は、やはり静かで、淡々としていた。
黒やんは考える、愛とは一体何なんだ
当たり前に知っていた言葉のはずなのに、自分は今までその意味を勘違いしていたのかもと思う程、どんどん分からなくなってくる
誰もオレが黒やんを好きだなんて
思いもしない、とらんは言った。
果たしてそうだったのだろうか、らんが自分に対しての執着が他より強い事位、幼い頃から感じていた
その執着が、らんにとって、自分にとって一体何であるのか、頭で考える必要は無いと思っていた
明らかに、特別ではある、他の誰よりも、らんは近い
けれども、それを幼なじみとして以外の何かに置き変える事など、どうやって出来ただろう
それとも、自分は無意識の中では気付いていながら、知らないふりをしていたのだろうか
好きって何だ、嫌いだと思わていないと知っていたなら、好きだと思われいる事も自覚しておくべきだったのか
それが出来なかった自分が、らんを苦しめていたのだろうか
「何なんだよ、もう、むかつく・・」
皆、何食わぬ顔で、言う、愛や好きという言葉、誰しもが理解している事をこんなにも難しく思い悩んでいる自分自身が、黒やんを苛立たせていた。
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