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82発癌性物質N
諸星千鶴が良樹のアパートに通い始めて一週間。

長くもあり、短くも感じるこの一週間で、諸星千鶴の生活は確実に以前と変わってきつつあった。


「タオル」


「はい」


「タオル」


「はい」


「タオル」


「タオルばっかりだな」



小さな部屋のオマケ程度についたベランダで、洗濯物のタオルを広げ諸星に渡すなかがわと、それを受け取り干していく諸星。

心の奥底に、なぜ自分はこんな事をやっているんだろうという気持ちを残しつつも、体は慣れきって当たり前のように他人の家の家事をこなしている。

窓枠に腰掛けたまま、洗いにかけたタオルをゆっくりと広げていくなかがわ
その姿を眺めると、まるでシコリが出来たようなゴロゴロとした妙な感覚が諸星の心臓を襲った。

この感覚に気付く度に諸星は憂鬱になる

きっと自分の思考を狂わせているのはこれだ、こいつの顔に、いつもこれが反応する



「へはは、オレ一日十枚は使っちゃうんだわ」



ああもう、こいつの顔は苦手だ。


笑われると、もっと苦手。



【発癌性物質N】





初日は、最後まで、ただなかがわを眺めているだけで終わりだった。

契約通り、4時になったら塾へ行く為に部屋を出る。

朝の9時から夕方の4時。
この場所に居る間の過ごし方が変わったのは次の日、二日目からの事。




「ねえホッシーて学校行ってんの」


「当たり前だ行ってないわけないだろ」


「ちげーし、今休みじゃん、ホッシーの学校休みねーの」



小さなテーブルで、向かい合ってコンビニの冷やし中華を食べる諸星となかがわ
なかがわが諸星について尋ねるようになったのは、ここ二日前くらいからだ。

フリーターか何かと勘違いされたと思いむっとする諸星だったが、なかがわの質問が指しているのは、現在夏休みのはずなのに、ここへ制服でやって来る事について

その旨を理解した時、諸星はピタリと割り箸を持つ手を止める。



「うちの塾は、制服で行かなくちゃいけない事になってるんだよ」


「ああ、なるほどね」


諸星のついた嘘を、なかがわはさして疑う様子もない。
なかがわにとって、塾など未知の世界である。
正直、塾という単語を出されてもイメージがサッパリ浮かばない故、わざわざ疑う理由が無かった。

それでも諸星は尽きたくもなかった嘘をつかされて、後味が悪い。

なんで制服を着なくちゃいけないのか、諸星にだって分からないのである。

自分の言葉に不信感を持っているのは、どちらかというと諸星の方だ。

毎日、同じサイクルで強要されているこの習慣の裏に、何かが隠されているのではないかと、いくらなんでも、もう思い始めている

強要という言葉は微妙かもしれない、強く脅されているわけではないし何かを握られているわけでもない

この行為は、一見規則的に見えても自分が訪れる事を辞めたら、あっという間に元通り遠い場所へとなって離れていく

諸星はその事を分かっていた。

そう考える度、なかがわの顔を眺める時と同様、心臓のシコリがゴロゴロと疼く。

放棄出来ない理由は、それだけだった。



「なあ、あの金髪の奴って何なんだよ」


「ん、坂本くん?」


「そうそう、あの人とおまえって一体どういう関係があるんだよ?」


「んん、坂本くんはセンパイって奴よ」


中華麺を啜らず、モタモタと噛みながらなかがわは諸星に告げる。

何の変哲もない答えは、諸星の疑問に何の光も射さなかった。

不満そうな顔で黙っている諸星に対して、なかがわは何かを見越したように口元だけで笑う。


「ホッシーは、坂本くんから何も聞いてないわけだ。」


「は?」


「まあ、オレもよくわかんねーんだけどね」


「なんだよそれ、何か知ってんなら言えよ、僕にも知る権利はあるだろ」


「大丈夫だ、多分あの人は遊んでるだけだから、別にオレさえいればどーにかなんよ」


なかがわ何食わぬ顔で呟く言葉は、なぜか諸星に苛立ちを沸かせる。

巻き込んでおいて、自分には何も教えないとは何事だ。
何かをぼかしながら、質問をかわすような口ぶり

自分の気になっている事がまるごと読まれているようで腹立しい

そもそも、目の前の奴も、自分と同様、何も知らずに坂本という男に巻き込まれている立場だと思っていたのに。



「ホッシーはさー、嫌なら多分逃げても大丈夫だ。」


その言葉が、呟かれたと同時、諸星は簡素なテーブルが割れる勢いで拳を叩きつける

その振動で、弾かれた冷やし中華のスープは、白いテーブルに飴色の雫となって落ちた。



「何が、何が大丈夫、だ、もう遅い」



遅いとは、何の事だ、自分で言ったはずの言葉に、質問を投げかけるなんて、馬鹿馬鹿しくて嫌になる

諸星はどうしてか熱くなってくる目頭に、力を入れてなかがわに向かわない場所を睨んだ。

自分は、今まで将来の為に必死に努力を続けてきた、高校に入ってからはずっと順調、日々に迷いを感じる事なんてなかったのに、くだらない事に巻き込まれて、普段なら絶対に口も聞かないような奴と関わって、自分の意識が通らないような姿ばかり見られる。

こんな奴に余裕を乱されたくないのに、いつの間にか大きくなっていくシコリは勝手に反応する


お言葉に甘えて、今すぐここから立ち去ってやろうか。
思いっきり喜んで嫌味の一つでも言ってドアを閉めればこの不快な気分がどれだけ晴れるだろうか

けれども不快な気分も、この訳のわからない習慣も消えた後に、残る邪魔なシコリはどうやって消そうか。

もっと早く言ってくれていればよかった。
無駄に一週間も過ごさず、もっと早くそう言われていれば。


そうだ、今更そんな事言われたって、こんなにも胸に違和感を覚えるようになってしまった今じゃ、もう全てが遅い。



鬼のような形相で空間を睨む諸星を、なかがわはポカンとした顔で見つめる。

なぜいきなり諸星が怒りだしたのか、諸星の言う遅いの意味はなかがわにサッパリ伝わっていなかったが


なががわには、一つ分かった事があった。




「じゃあ、ホッシーはまた明日も来るわけだ」




まるで安心したような声で呟いたなかがわは、中華麺に再び口を付ける

気まずい空気にちぐはぐな、脳天気な言葉が耳に届いて、諸星はたまらずなかがわを振り返った。

最初からずっと、なかがわの表情に大きな変化はない、動くのは、唇の両端数ミリと目尻の数ミリたったそれだけ

なかがわの感情のヒントはそれだけなのに、その数ミリで諸星の感情は一瞬で落ちつきを取りもどしてしままうまでに、なってしまった。



「夜はこねーの?」


「だから塾があるんだって言ってるだろ」


「終わってからこねーの?」


「そんな一日中ここに居てどーする」



なかがわがしつこく要求すると、諸星の眉間の皺は段々と消えてゆき、変わりに頬が赤く染まる。

クーラーのついていない部屋故、元々暑さで赤っぽかった諸星の若干の変化に、なかがわは気付かないまま要求を続ける



「夜の方が楽しーじゃん」

睫毛を伏せながらイタズラっぽく笑って誘ってくるなかがわの言葉に

諸星は言葉が出ないまま、ただ頷いた。

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