71暗い所で煮込んだ昔話W オレが知っている、黒やんとたえさんとらんの話はここまで その後、らんが黒やんと一度も顔を合わせずに過ごした15歳の夏休み 人に言わせれば、ここからが、小松蘭太朗の転落劇のはじまりだという 話は続くのだ 「はは、転落劇ね〜」 らんは笑う。 らんにしてみれば、あの夜からそれ以上転落なんてしてはいない あの夜の、自分に向ける黒やんの視線こそが底無しの谷の底なのであって それからは、ただ、浮上しないまま最悪の位置を転がっていただけ らんにとってもう下は無かった。 「だからね、ケンケン」 一回救い出して貰ったから、もう二度と同じ事はしたくないんだ 【暗い所で煮込んだ昔話W】 6対1で囲まれて、気がついたら立てない程ボコにされていたのは 夏休み明けの初日の事である。 始業式が終わってすぐ呼び出され、半分引っ張られるように連れてこられたプールと体育館の間の狭い通路 プールの湿気で苔が生えたコンクリートがぬめる 残暑でまだ暑いがこの冷たさは気色が悪いとらんは思う。 まあ、だから気に食わない奴を転がすには、最適なのである 「なんか言えよ」 腹を殴られて、らんが咳込んでいるのを分かっていながら、一番怒りに満ちた顔で声を投げ付けるのは、夏休み中は連日のように一緒に居た男だった 海に通わなくなって、暇を持て余していたらんを、よく連れ出していてくれた、前から親切にしてもらってた、見た目は怖いけどいい奴よと黒やんから聞いていて、実際そうだった。 黒やんの友達だった 「ごめん知らなかった。」 目を合わせないまま呟く、低いテンションのらんの声は更に怒りを逆なでする もう完全に地面に着いているらんに更に掴みかかろうとする彼の行動を誰も止めようとはしなかった。 この場にいる誰もが、らんではなく彼の怒りの意思に共感している それは、らん自身もだった、暴力を拒まない、けれども心から反省もしていない。 「知らなかった、じゃ、ねえよ、あ?あいつ、ずっとオレの隣に居たの見てただろ、しねよ」 らんは、勿論知っていた、酔っ払ってても自分にキスしてきたのが彼の彼女だという事に 知らなかったと言ったのは、別に何も言う事が無かったので、言い訳も思いつかないままの下手な気休めだった でも知ってたとか知らなかったの問題じゃない事分かってるし キスで終われば、何年後かにあの時はごめんなさい程度の話で済んでたのか キスしてきたのは彼女、酔っ払ってて楽しい気分のまま家に連れてったのは自分。 あいつと言われても、夏休みの夜遊び中は何回も同じような事を繰り返していたのでぱっと誰か出て来なかった時点でどっちの責任かなんて問う前に悪いのは自分。 元から、知らなかったで済めば警察のいらない話 「ごめん」 らんはマニュアル接客しか出来ない愛想悪い店員のように、ただ同じ言葉を繰り返した 彼がいい人だと知ってても、自分が最悪だと知ってても、どうしても懺悔録の気持ちが根本から生まれてこない やっぱり心が腐ってるとただ実感する 悔いてる演技も出来ない、オレは終わってる、そう確信してもそんな自分をらんは拒否する気も沸かない。 「黒やんの、幼なじみだから、見逃すとでも思ってたわけか?」 付ける薬のない態度に、彼の声は怒りから軽蔑に変わっていた。 優しくしてくれた人のそんな声も、その時のらんには悲しめない 何も答えないらんに、彼は最後に凍るように冷たい視線で言葉を吐き捨てる 「お前そんなんじゃ、いつか黒やんにも見捨てられっぞ」 心配しなくても、もうとっくに、黒やんはオレなんかと関わりたくないと思ってるんだよ 教えてあげようと思った言葉が浮かんだ時には、もうその場には地面にうなだれている自分以外誰も居なかった。 人の彼女に手を出す、か、いかにも黒やんが嫌いそうな事だ。 しかも、黒やんの友達だ、腐ってたオレに声掛けて遊んでくれるような人の彼女。 どこにも救いようがない、同情しようがない、ただ悪が痛い目にあっただけの話。 一気に六人友達を無くしたのも、全部自業自得。 今黒やんがオレを見たらなんていうかな、今度こそ縁を切りたいとハッキリ言われるか、もう口すら聞いてもらえないかもしれない。 らんの心は当たり前のようにそんな展開を受け入れていた。 男のくせに、黒やんの事を好きになった時点で、そうされてもおかしくなかったわけだから。 本当は元々黒やんに、好かれていたいと思っていいような自分じゃ、なかったわけだから。 他人の噂が広まるのは早く、夏休みが明けた鳩中での小松蘭太朗の評判は日に日に悪くなっていった。 黒やん経緯の友達は大人数繋がっていて、そのグループとの間には決壊線が張られた グループとは直接関係無くとも、噂を聞いてらんに反感を持った人達からもボチボチ、シカトを食らうようになった。 しばらく経つと、もう誰が自分に敵意を持っているのかいないのか解らなくなり、面倒で自分からは誰にも話掛け無くなった 元々有名な存在だったらんだからこそ噂の影響は大きく、状態が際立つ。 らん自身は、そんな状況も、もうどうでも良かった。 一人で居るのも慣れれば楽で、誰に嫌われようが別に人に道を譲る気も無かったし、噂の弁解をする気も無かった。 全部事実で、オレが最悪なのも本当で、今更いい子になろうとするほうが気持ち悪い。 心はもう投げやってるのに、自分の知らない人が勝手に持っていた小松蘭太朗のイメージなんてどうでもいい 黒やんの耳に話が伝わるのも時間の問題、どれだけ噂を肥大させて伝えられようと事実だってゴミ以下だ 三年になってからは、サーフィン漬けで学校に来ない日も多くなっていた黒やんと、運がいいのか悪いのか、その噂が出始めてから顔を会わせる事は無かった。 何もかもを諦めた気持ちでいるらんの、最後にただ一つ心に引っ掛かる物 この期におよんでも、やっぱりどんな物か何回も想像はしてみる 今の自分を目の前にしての黒やんのリアクション。 あの夜の顔がフラッシュバックする あの時みたいな顔か、それとももう、興味も示さないか。 三ヶ月近く会ってないから、もう自信が持てない。 得意だった、こんな時、黒やんは何て言うか当てるの。 自分が一番知ってると思ってたのに、変だ、こんな事って本当にあるのだ こんなにも、遠く、離れ離れ。 それから、一月が経った。 らんが目覚めた時には、教室はもぬけの殻。 午後の授業で深い眠りに落ち、窓の外は夕日が落ち掛かっている。 未だ孤立状態のらんを授業の終わりに起こす者はおらず、気がついたらぽつんと一人教室に取り残されていた。 こんな事は日常茶飯事になってしまったらんは、特に何も思わず、学校終わったのかとぼんやり思った。 人とあまり口を聞かない日々は、時間の流れが遅く、頭の回転が悪くなる。 特に何もしてないけれど、なんとなくだるい体は、目覚めた後もそのまま机の上で静止していた 伏せたまま、窓の外に顔を向け、誰も居ない教室って寛ぐ、押し入れの中ってこんな感じなのかなと、口に出さない一人事がぽつぽつと浮かんでくる 寝ていたおかげで、温かさを温存した体とがらりとした教室に居心地のよさを感じ、らんはそのままの姿勢でしばらくぼんやりとしていた。 あと10分したら帰る 背後から、教室の扉が開く音がしたのは らんが、そう決めた直後の事である 「おい」 足音が近づいてくる 「おーい、寝てんの?」 動けなかった、動いてはならない、と本能が言う かわりに心が騒いだ。 うそだうそだうそだ なんで、なんで オレに言っているのか、オレに話し掛けてるのか 嫌いなのに、もうみんな知ってる、見捨てられて当たり前 だって怒ってた、怒られる、嫌いって言われる 怖い怖い でも好き、やっぱ好き 怖い死にそう、嫌いって言われても、好き。 「寝てる・・・」 微動だにしないまま、机に伏せているらんを見下ろして そう判断したのは 会わなくなって四ヶ月目に入っていた黒やん、振り向かなくても、分からないはずがなかった。 久しぶりに聞いた声は、らんの体にじんわりと染み込み、泣きそうになった。 黒やんはしばらく無言になったが、傍に居る気配を感じていたらんは、息すら止めて寝たふりに全神経を注ぐ。 黒やんがどんな顔をしてるのか、想像出来ないまま、心臓の音が聞こえてないかだけを気にしにがら、待つ。 全く動かないらんに、相当熟睡してるのだと勘違いした黒やんははあと深いため息を零し、触れるか触れないかの間際でらんの肩を指で撫でた。 「どうしちゃったんだよ、お前」 小さな黒やんの声は、教室の空間を縮め、らんに大きく響く 「なんか、嫌な事あったのか」 「ずっと、ほっといてたな」 黒やんの指が、肩から頭に移動していくのを、らんは、全身で感じていた 「ごめん、らん」 教室の扉が閉まる音を確認する。 黒やんが出て行った後も、らんは寝たふりのままの姿勢で動かなかった。 ただ、のどの裏が熱くて、唇が震えて、ぼたぼたぼたぼた涙が止まらなくて あと、数秒遅かったら、もう寝たふりで通すのは無理で ヒック、しゃくり上げる音、子供のような泣き方の自分声、教室は暗くなっていく、でもこの涙は止めてはいけないと思った。 流れきるまで、この自分の声を聞かないといけないとらんは思った。 本当はもっとずっと前に流さなければいけなかった涙。 本当はきっともっとずっと前だった、もっと自分の気持ちに愛情が持てていたら ごめん、なんで? 何か嫌な事あったのか、誰もそんなの聞いてくれなかったよ 愛してる、愛してる、やっぱり愛してる 女だったら何か違った? ううん、もし違ったとしても、今以上に頭に触れる指先に感謝する事は無かった。 こんなふうに、好きだからこそ、こんなふうに再生出来る。 その日は季節の変わり目、残暑が厳しかった夏が、面影もなく去っていった秋の夜。 ひたすらに、涙が苦しくて温かいと感じていたらんは、この日少し前に黒やんとたえさんが別れていたとは、まだ知らずにいたのだった。 [次へ] |