現世乱武小説
5
2月14日。
テレビの特集などだけではなく普段から利用しているスーパーまで。
毎年さして気にならないのに、今年に限って至るところにあるバレンタインの文字が目に付いてしまうのはやはり気持ちの問題なのだろう。
ホワイトデーにお返しをあげるのに比べて、何故こんなにまで落ち着きを失っているのか。
そんなことを考える余裕は、佐助にはなかった。
ただひとつだけ。今まで自分にチョコをくれた女の子たちは驚異的なメンタルを持っていたのだということを身をもって知った。
なんの気なしにチョコを受け取っていた自分という男はなんて軽薄な奴だったんだ。ある意味ショックですらある。
「……ふー、」
小十郎と政宗のマンション。その二階玄関の前。
そこはずばり彼らの部屋だ。
エレベーターから下りて二歩ほど進んだところで一度大きく深呼吸して、佐助はそっとインターホンを押した。
付き合い始めてから少し経つが、このマンションに来るのはこれが二回目だったりする。自ら訪ねるのは初めてだ。
おそらくこの落ち着かないそわそわ感に、少なからずそれも影響しているのだろう。
少しすると広い歩幅の足音が聞こえてきて、玄関が開き小十郎が顔を出した。
「…どうした、珍しいな」
「あ……ども」
時刻は夜の10時。
いつかと同じ轍を踏まないようにと、今日は家のことをすべて終わらせ、ケーキの仕上げのため一度成実のアパートに寄ってから来た。
おかげで逆に遅くなってしまい、突然の佐助の来訪に驚く小十郎の顔にはこんな時間に何かあったのかという警戒の色が濃く出ている。
そんな相手を安心させるように、佐助は小さく笑って左手に提げていた紙袋を胸の高さまでひょいと持ち上げてみせた。
「大したもんじゃないけど、プレゼント」
「プレゼント?」
想像していたトラブルの類とはまったく無縁の単語に、小十郎はぽかんとして紙袋に視線を落とす。
まるで女子中学生にでもなったかのようなときめきがなんだか甘酸っぱい。
とぼけているのではなくきっと本当に判っていないのであろう恋人に、佐助は説明も兼ねて言葉を付け足した。
「うん、今日バレンタインだから」
「…あー、そういうことか。…てことは菓子か何かか?」
漸く相好を崩して紙袋を受け取る小十郎に頷いて返すと、ここじゃあ冷えるからと部屋の中に通された。
「……あれ、伊達の旦那は?」
暖かいリビングに招かれ、勧められるままにソファに腰を沈めたところで佐助はふと訊ねた。
てっきりいるものだと思っていたが、そんな気配も感じられない。
小十郎はガラステーブルの上に紙袋を置いて中の箱を出しながら、壁に掛かった時計に視線を投げた。
「政宗様はまだ仕事だ。上がり時間はもう過ぎてるはずだからそろそろ帰ってくるかもしれねえな」
「そっか。一応伊達の旦那のぶんもあるからさ、帰ってきたらよろしく言っといて」
「判った。……チョコ、にしちゃでけぇ箱だな。ケーキか?」
結局都合のいいサイズの入れ物が見当たらなかったので買いに行くことになってしまったが、おかげで見栄えのいいそれらしいものを入手できた。
その効果は十分だったようで、箱の中身を見る前からケーキという予想を立ててくれたことに満足しつつ小十郎の手元を見つめる。
関節が目立つ長い指が丁寧に箱を開けると、小十郎のおおという声が漏れた。
「…美味そうだな」
「でしょー? 俺様もちょっと味見したけど、結構うまくできたと思うよ」
ホールで出来上がったところから小十郎と政宗のぶんということで、ショートケーキサイズに切り分けられた二つのガトーショコラ。
最後のトッピングである粉糖でコントラストを強調し、成実が用意した金粉も華やかさを添えていて。自分たちの作品とはいえ出来映えはかなりいい。
そして小十郎はというと、こちらの言葉を受けるなり切れ長の双眸を軽く見開いて停止していた。
「まさか……これ、手作りなのか?」
「そうだよ。成実さんと俺様の合作。なかなかじゃない?」
自慢げに言ってやると小十郎ははーとほーの間のような声を零して改めてケーキを凝視する。
どこかで買ったものだと思われるくらいの出来の良さだったのかとしみじみ喜びを噛み締めつつ、形を崩しやしないかと遠慮しているのか、いつまでも箱からケーキを出そうとしない小十郎の代わりにひとつだけ外に出してやる。
そこでやっとスイッチが入ったらしい。
思い出したようにぱっと男前の顔を上げた。
「…ああ悪い、皿か。持ってくる。飲みものはコーヒーでいいか? 紅茶もあるが」
「や、俺はいいよ、お構いなく」
キッチンに向かう広い背中に声を投げると、小十郎は顔を半分だけ振り返らせて彼にしては珍しくどこか楽しげに言った。
「こういうのはひとりで食うもんじゃねえだろ。半分付き合え」
一方的にそう言い渡したきり返事を聞く気はないようで、皿を二枚持ってくるとすぐにキッチンに戻り食器棚からカップをふたつ下ろす。
コーヒーメーカーに溜まっていたコーヒーの残量を確認している愛しい人の相変わらずぶりに思わず笑ってしまいながら、出してもらった皿にケーキを乗せた。
「そういうのはよく作るのか」
「いや、ケーキ作ったのは初めてだよ。なーのーで、多少味悪くても大目に見てもらえると助かります」
「成実殿だけならともかく、お前がついてたんだ。間違いねえだろ」
「うっわ、あんまりハードル上げられると自信なくすって」
上げたつもりはないがと苦笑しつつ、小十郎は小振りの包丁とフォーク、そして二人分のコーヒーを持って佐助の斜め前に座り、ケーキを半分に切って片方を別の皿に乗せると佐助の前に置く。
ここまでされてしまえばもう逃げ場などどこにもなくて。
結局素直に好意に甘えることにした。
ほっと息をつける束の間のひと時。
やっぱりこうしてゆっくりと二人だけの時間を過ごすときが一番好きだ。
「…ん、……美味い」
「まじ? よかったー…」
「こりゃ俺もお返し考えねえと割に合わねえか」
「あ、ゲイチョコもホワイトデーって関係するんだ?」
「……ゲイチョコ?」
何気なく出た言葉が気になり手を止める小十郎にも構わず、ケーキをつつきながらゲイのホワイトデーというものに今から期待を膨らませる佐助なのだった。
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