現世乱武小説
許せる相手(成綱)
*綱元side*
仕事終わりのラーメンというのはどうしてこう幸せな気分にしてくれるのだろう。
成実の助言を受けたからではないが、結局とんこつではなくいつもと同じ醤油ラーメンを頼んでみたところ、どうやら正解だったらしい。
やっぱり日本人は醤油ラーメンだろう。油まみれのラーメンなんて恐ろしくて口にできない。
が、そんな満たされた胃は涼しい店内から一歩出た瞬間重く苦しいだけになってしまった。
…いや、冬よりは夏のほうが好きだが。
「うー…暑いー。夜なのに…太陽なくてコレとかやばいっしょ…」
「もう8月っすからねぇ…」
続いて店の暖簾をくぐって出てくるなり、普段よりひと回り低い声音でうんざりしたように呟く成実に頷いてやる。
道を挟んで旅館の斜め向かいにあるこのラーメン屋を利用する竜の住み処の従業員は多い。
自分や成実も例に漏れず、旅館の弁当にありつけないときや半端な時間に上がったときなどはよく世話になっている店だ。
並んで生ぬるい風を頬に受けながら旅館の駐輪場にのんびり歩を進めていると、急に隣を歩いていた成実がぴたりと足を止めて視界から消えた。
「あれ、どうしたんです?」
つられて立ち止まり後ろを振り返ると、何やら楽しげに目元を緩めた成実がびしっと指を一本立ててこちらに突き出してきた。
「つなもっちゃん!」
「……」
あ、やべ、ちょっと嫌な予感する。
思わず数歩後ずさりしてみるが、ずいっと眼前に相手の人差し指が迫ってくる。
第六感からの警鐘に身を堅くする綱元など構わず、成実は言葉を続けた。
「海行こ!」
……嫌です。
誰しも小さい頃に習ったことだろう。
嫌なときはきちんと嫌と言いなさい、と。
俺の人生、比較的言いたいことは言えてきたと思う。
もちろん分別はあるつもりだし、相手を傷付けてしまうような発言は控えてきたが。
人を見てものを言ったり言わなかったりなどということはなかった。
……そう、なかったはずなんだが。
「…ね、つなもっちゃん」
「……なんすか」
隣に立つ成実さんが平板な声で呼びかけてくるのに対し、同じく平板な声でしか返せない俺。
「なんていうかさ…、」
言い澱んでいるのは彼なりの申し訳なさの表れだろうか。
まっすぐ正面をぼんやり眺めながらそんなことを考える。が、おそらく感じていることは俺と同じだ。
「…夜の海って、なんにも見えないね」
そう。
俺たちは今、海に来ている。
もちろんラーメンを食い終わってからであって、決して別日ではない。
つまり、夜。
嫌なことは嫌と言いましょう。
今回も、という希望は難なく打ち砕かれていた。
成実さんが女顔だからだろうか、人によって言葉を選ばないはずの俺の信条は、成実さんには何故か通用しない。
「…まあ、夜っすからね」
「しかもなんか臭いし」
「……海っすからね」
片道一時間半。
愛車のハーレーを飛ばしてきた運転手は当然俺。
対して、別段来たくもなかった海(寧ろ潮風が体にまとわりついてべたべたする。…気持ちわりぃ)に行こうと言い出した挙げ句、着いたら着いたでお礼どころか文句を言う成実さん。
…きっと今って、普通ならキレてもいいとこなんだろうけど。
明日も仕事なのに、とか。ガソリン代よこせ、とか。
この人相手にそんなことを言うのは少し違う気がするのだ。
不毛だからとか逆ギレされそうだからとか、そういうことじゃなくて…
なんていうか、無邪気に……奔放でいてほしいから。
打ち寄せる波まで五メートルほどだろうか。
暗闇に溶け込んでしまって何も見えないが、そんなに遠くないところまでは歩いてきたはずだ。
「…ちょっと入ってみよっかな」
「止めやしませんけど……なんか変な虫とかに刺されても知りませんよー?」
「えー…でもせっかく海まで来たんだしさ」
「まあ、気持ちは判らなくもねえっすけど。…あ、タオルとか拭けるもんはないってことだけ先に言っときます」
「う…。じゃあやめとこ」
数歩進めた足をぴしりと止めたかと思うといそいそと戻ってくる成実さん。
職場では掴みどころのない性格と定評がついているが、長い付き合いの俺には判る。
伊達成実という人は、単純に誰かに相手にしてほしいだけなのだ。
無視なんてされたらダメージは計り知れないと思う。
「…なんかごめんね、連れてきてもらったのにさ」
しゅんとしてぼそぼそと謝る成実さんがなんだか可愛くて、込み上げてくる笑いを堪えて低い位置にある頭をぽんぽんと軽く叩いた。
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