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無双小説
 声・漆


――すまん。見苦しいところを見せた。今日はもう戻れ。

――…はい。


顔も合わせずに左近にそれだけ告げて背を向けた。
そうする度に切なげに目元が歪むのが、直視しなくても伝わってくる。
でも、視界に入っていると、縋ってしまいたくなるから。
そうやってやり過ごすしかない。


最初、左近の記憶が失くなったと知ったとき、目の前が真っ暗になった。

何故、何故、…そればかりが頭を旋回して、ひとしきり伏せったあと、酷く後悔した。

俺が逸らずに行長や恵瓊と来ていれば。
護衛をもう少し付けていれば。
あるいは、もう少し遅く到着していれば。

様々なことに頭を悩ませては自己嫌悪に陥り、己を蔑んだ。


俺のせいだ。

俺のせいで、左近が記憶を失った。

俺の身替わりになって…あんなことになった。


数日前まで、我ながら魂が抜け落ちていたのではと思う。
それを支えてくれたのは慶次だった。


――どっちがどうとかなんて俺には云えないね。

――家臣を思って駆け付ける主と、主を守りたいがために盾になった家臣。

――なくもねぇ話だろ?


あんたが悪いなんて誰も思っちゃいねえさ、と小さく笑ってから。


――だからもう、自分のことも許してやったらどうだい?


その言葉は、俺の枷を外すに足る温かくも厳しいものだった。
外ならぬ左近のことなのに、早々に許せるわけがない。


しかし次に胸に訪れたのは寂寥の念。

左近に会いたいとぼやく俺に、慶次もさすがにそればっかりはなと頭を掻いていた。


我が儘であることは重々承知だ。

呆けていたあいだの溜まりに溜まった政務を黙々とこなしているときはいい。

だが、それが一段落ついたときに。
夜眠りに就こうと目を閉じたときに。
湯浴をして疲れを落としたときに。

日常の端々に浮かび上がるのは、左近の姿だった。


だから今の状態の左近には会えなかったのだ。
どうすることも出来ないのに求めてしまいそうで、自分を御する自信がなくて。


なのに、あいつは来た。

顔をうずめたくなるような石鹸の香りをほんのりと漂わせて。


いつもは俺の斜め後ろを定位置としているのに、あいつは部屋に入ってすぐに膝を突いた。

主従には相応しいであろうその距離は、俺たちにも相応しいのか?

勝手な言い分ではあるが、それが現実だと改めて思い知らされた。


やっと聞けた声は、同じ声帯から発せられているのに左近のものではない。
なのに、息の継ぎ方や空気の抜け方はやっぱり左近で。

頭の中はぐちゃぐちゃだった。


抱きついたとき。
久しぶりに胸一杯に吸った匂いは、風呂上がりの独特の香りに紛れてはいたが確かに左近の匂いだった。

が、ここでもやっぱり違うのだ。
抱き締めてくれなかったという事実が、これほどまでに胸に突き刺さるとは思わなかった。

何も知らない左近にそれを強要するのは無理があるのだから、と己をいくら宥めようと、絶望と喪失感に苛まれた心は軋むばかり。


この件に関して、自分の弱さを認めたくなくて涙だけは流さなかった。
人前でだけでなく、一人のときも。


だけど、やっぱりダメだ。

俺には、左近が必要だ。


左近の前で泣いたからか、緩んだ涙腺は涙を簡単に送り込んでくる。


「っ……、」


唇が切れそうなほど強く噛み、涙を着物の袖で乱暴に拭う。


声を殺せど胸が痛いだけで、滲み出てくる涙はあとを絶たなかった。


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あきゅろす。
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