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プライベート泡姫 〜永久指名おねがいします!〜A
 鳴らした電話は1コール目で繋がった。
 電話のむこうから、はっと息を呑む音と、心配そうな声が明之の耳に飛び込んでくる。
『津村、大丈夫か? 具合悪い?』
 長い時間、風呂場にこもりきりの明之が気がかりだったのだろう、脩平の声はこちらの様子を窺うようだ。
「ごめんごめん。だいぶ長風呂しちゃってさ」
 できるだけ明るく、体調は大丈夫だと伝えると、長い安堵のため息が聞こえた。
『心配させんなよ。で、なんで電話? シャンプー切れてんなら洗面台の下に、』
「あのさ、お願いがあるんだけど」
『お願い?』
 これまでもさんざん一緒に風呂へ入るといっているのに、頑なに断ってきた脩平だ。どんな言葉で誘えばいいのか、明之は悩んだ。悩んだ結果、
「えーっと。ちょっと来てほしいんですけど」
 言葉を濁しつつ、強硬手段に出ることにした。
『……忘れ物なら、持ってってドアの前に置くわ』
 案の定、脩平は訝しげな返事を寄越す。
「忘れ物じゃなくて」
 ここで引いたら負ける。脩平は意外に頑固だ。わずかでも目的を悟られれば、意地でもここへ来ようとはしないだろう。
 しかし明之にも恋人としてのプライドがある。頼んでダメなら泣き落とし……は、しないけれども、脩平がどれほど自分に甘いかくらいはわかっていた。
「いいから……きて」
 精一杯の猫撫で声。脩平以外に聞かれたら恥ずかしくて卒倒してしまうだろう。
 いまになって思えば、脩平は以前からこの声を出した明之に甘かった。
 もちろん好き合っている今では、そんな脩平の好意にあぐらをかくつもりなどまったくない。与えられただけ、返していきたい。そう思っているけれど。
 いまだけは、使えるものはすべて使って脩平を引きずり出すしかない。
「だめ?」
 電話口の脩平が、ぐ、と喉を鳴らした。その反応にたしかな手応えを感じながら、
「待ってる。来なかったら……ひとりで遊ぶから」
『……っ!』
 通話が切られた。広い家の奥からバタバタと慌ただしく走る音が聞こえる。熱気のせいだけではない顔の熱に頬を撫でながら、明之はスマートフォンを化粧棚に置いた。
 浴室の扉に手をかけたところで、脱衣所のドアが勢いよく開いた。耳まで真っ赤にした脩平が濡れた明之の裸体に一瞬ひるみ、視線を逸らせて後ろ手にドアを閉めた。
「いらっしゃい、ってのはおかしいか。ここ谷田んちだもんな」
 脩平は答えない。大きな背中を心なしか丸めたまま、足元を見つめている。
「そんなとこ突っ立ってないでさ、ほら脱いで脱いで。久しぶりだなー、谷田の背中流すの」
 部屋着代わりのジャージに手を伸ばす。反射的にその手を掴んだ脩平の指が、かすかに震えていた。
「…………お前、どうなるかわかってんの」
 低い声音に明之の肩がすくむ。しかし、それは恐怖からではなかった。
 湯気に開かれ敏感になった肌がざわめいていた。乾いた脩平の肌に染みこむように、ぴったりと互いの肌が吸いつく感覚が気持ちよかった。
「俺、は……ただ谷田と風呂に入りたいだけ。前みたいに楽しくしてたいだけ」
「あのときとは違う」
 切り捨てる声は冷たくはない。明之にはむしろ奥底から湧き上がる劣情を必死に抑え込んでいるように聞こえる。 
「なにが違うんだよ。好きだっていったら友達でもなくなんのかよ」
「そういうんじゃなくて、」
「我慢してたじゃん。俺が全然気づかないくらい我慢できてたじゃん!」
「俺に我慢しろってのかよ!」
 その顔に、苛立ちと戸惑いを交互に浮かべる脩平が声を張り上げた。
「我慢できるわけねぇだろ! ずっと好きだったんだぞ!」
「自分ひとり好きみたいな言い方すんなっていってんだよ!」
 負けじと言い返した明之の言葉に勢いを削がれたのか、
「……そんなことない」
 やっと顔を上げ、真正面から明之を見据えた。
「谷田のことだから、どうせ『津村のため』、『津村が大変だから』っていうんだろ」
「それは実際、」
 そうだろう、と認める脩平が口を挟もうとするのを撥ね付け、
「家とか学校とか、店とか。好きなときに手は出してくるくせに、絶対最後までやろうとしない。逃げ場があるところでしか触ってこない! 最初の勢いはどうしたんだよ! 『近々やる』っていったじゃん!」
「……いや、だからそれは勢いっていうか。あのときはつい嬉しくて、」
「俺だって嬉しかった! イヤだとはいわなかった!」
「……いや、あの、ちょっと待っ、」
「期待させるだけさせといて! そういうのっ、ひっ、卑怯だと思いますっ!」
 音が聞こえそうなほど勢いよく指を鼻先に突きつけられ、脩平はそれ以上下がれない身体を捩った。
 鼻息荒く詰め寄る明之の肩にそっと手を置き、がっくりと俯いたかと思うと、
「思います、って……!」
 ぷるぷると肩を震わせ、声を殺して笑っていた。
 その姿を見た明之が、勝ち誇った顔で脩平を覗き込む。
「どう? 萎えた?」
「なえ……くそっ、萎えた……!」
「はいおめでと−。これで風呂入れるな。さ、脱いで脱いで」
 なにか言いたそうな顔をしたままジャージに手をかける脩平を手伝って、明之は広い背中を浴室に押し込んだ。
 手のひらでシャワーの温度を確認する。水が温まるのを待っている間、椅子を引き寄せた脩平が独り言のように呟いた。
「なんか納得いかないんだけど。俺、さっき誘われたんだよな? 期待とかなんとかって」
「えっ」
「おかしい。どうして萎えたんだ……」
 脩平が覗き込む先に、項垂れてもなお存在感をアピールするモノがある。
 明之はソレを視界の端に追いやって、
「そりゃあ……俺はプロの風呂屋だから!」
 首から下をシャワーで流していった。突然背中をお湯が伝い、驚いた脩平がひくりと筋肉質な背中を震わせる。
「プロの風呂屋ってなんだよ」
 一度濡らされたあとは借りてきた猫のように大人しくなった長身が、狭い浴室で窮屈そうに振り向いた。
「プロの手にかかれば客の性欲も思いのままってこと」
「それ風俗のプロじゃねぇか」
「高校生が風俗なんていうんじゃありませんっ」
 濡れた背中を勢いよく叩く。音が出るように手のひらで軽く叩いたのだが、「いてっ」と脩平は声を上げて笑った。
 以前に友人の甲斐が言っていたことといい、男子高校生にとって風俗とはそれほど気安いものなのだろうか。もともと性に対して淡白だった明之には、その単語を口に出すことすら憚られるというのに。
「ま、行かねぇけど風俗なんて。性欲を他のヤツに使うとかもったいないし。お前じゃなきゃ意味ないし」
 本心からそう思っているのか、しみじみと語る脩平の背中を、明之は泡を纏わせたタオルで擦っていく。耳の先まで真っ赤になっているのを見られないのがありがたかった。
「……そういう喜んでいいのか微妙なボケはやめろ」
「喜んでいいところだろ」
「ホント谷田ってスケベだよな! でもなんだかんだ手ぇ出さないしムッツリだよな!」
「ちょ、いた、背中削れるって!」
 垢すりよろしくゴリゴリと男の力で擦られる背中に我慢できなかったのか、振り返った脩平の手に腕を掴まれた。明之は慌てて背中を確かめる。血が滲んだ様子はなかったが、張りのある肌がうっすら赤くなっていた。
「ごめん。痛い?」
 擦れた肌をそっと撫でる。ふと気づくと、浴室のライトが眩しいのか、眇められた彫りの深い目が明之を仰いでいた。そのあまりに真剣な眼差しが、鋭い針先のように明之の心臓を突いた。
 脩平の瞳は切なくて、どうしようもなくて、微笑みながら泣いているようにも見えた。
「……そんなに痛かった?」
 腕を掴んだ指が離れる気配はない。
 なにか大切なことを言おうとしている脩平に対して、明之はまるで無防備な裸のままの自分が急に恥ずかしくなった。浴室は充分に暖かいはずなのに、大事なところを晒しているという心許なさが脚の間をすうっと通り抜けていく。
 手近なタオルを探そうにも、視線ひとつ脩平から逸らせない。
「あの、谷田……ちょっと」
 待って、と言いかけた明之の唇を優しい声が制した。
「さっき」
「え、あ、なに」
「さっき俺が『一緒に住みたい』っていったの、気づいた?」
「あ……気づい、た」
 さっきは、ものの弾みで口に出したのだろうと敢えて言葉の真意を確かめることはしなかった。わざわざ話を蒸し返すところをみれば、脩平は明之との生活を現実に起こりうるものとして考えていたのだろう。火照った首筋が温度を上げて、目眩がした。
「まだ大学も決まってないし、全然先のことになるかもしれないけど」
「……ん」
「いつか津村と一緒に、って思ってる」
「……」
 一緒に、の中身には脩平の願望がたくさん詰まっているのかもしれない。そう感じさせるほどの気迫と、決心が伝わってくる。
「ホント、こういうのって……あー……こう、なんていったらいんだろうな……だから」
 短い髪を掻き上げる指から雫が飛ぶ。冷えた水滴が明之の胸にあたった。ぶるりと背中が震えたのは雫のせいだろうか。
「俺は、怖いんだと思う。津村に絶対好きになってもらおうって頑張ってたけど、たぶん心のどっかでは諦めてて。だから、こうしてるのもときどきまだ夢なんじゃないかって考えることもある。ひとりで舞い上がって、お前のことめちゃくちゃにして、嫌われたらどうしようって思い始めたらなんにもできなくなって」
「……うん」
「一緒に住みたいとか、重いってわかってる。ヘタレて手も出せなかったくせにな」
 脩平が友人と恋人、二つの顔を使い分けているようにみえていたのはそういう理由からだったのだと、いまはっきりとわかった。
 脩平もちょうどいい距離を測っていた。明之のことを好きなあまりに、前に進めなくなっていたのだ。
 でもそれは。
「あのさ」
 おそるおそる、脩平の肩を撫でてみる。明之の腕を掴む指が跳ねた。
「俺も悩んでた。谷田はずっと前から好きでいてくれて、それはすげー嬉しかったんだけど……でも俺が好きになった谷田は、出会って何ヶ月かの谷田なんだなぁって」
「ここ何ヶ月かの俺じゃ好きになるには足りない?」
 明之は首を振る。
「その反対。仲良くなってまだ少ししかたってないのに、友達以上になりたいって思ったわけじゃん。そんなの、谷田と違って……不純だって思われたりしないかなって。俺がいくら谷田のことが好きだっていっても説得力ないし、谷田には伝わらないのかもしれないって、ずっと考えてた」
「もしかして、俺が好かれてる自覚がないって思ってた?」
 躊躇いがちに頷けば、脩平はようやく穏やかな笑顔を取り戻した。その顔に明之の胸の底の不安がじわじわと溶け始める。
 それぞれに正反対の悩みを持っていても、深いところでは同じだった。
 互いが互いを好きすぎて、目の前にある大切なものが見えなくなっていた。
「でも俺は津村に好かれてる自信あるよ」
「……どんなとこ?」
 顔を見られるのが恥ずかしくて、思わず脩平の首に抱きついた。回された明之の腕を今度は優しく撫で、
「こういうとこ」
 濡れた素肌に唇を寄せた。
「ぁ……っ」
 湯気に晒された背中からうなじまで緩い快感が走る。熱い舌が肌に触れ、敏感になった肘から手首までを舐め上げた。
「っ、は……、や、やだ……ゾクゾク、するっ……!」
 腰の奥から力が抜けていく。真新しい、柔らかい床は崩れた明之の膝を優しく受け止めた。
 指先の一本一本まで丁寧に口に含まれ、転がされる。指の間の薄い皮膚に人より少し鋭い犬歯がかすめた。
「やぁっ……!」
 恐怖と紙一重の快感に全身の毛が逆立ち、脩平の胸を押し戻そうとする腕は床からわずかに浮いただけ。
「……ほら、すげー鶏肌……めっちゃ感じやすい」
「そんなこと、なっ」
「津村、言ったよな? 俺のせいでこうなってるって。俺が触るからこうなるんだろ? そういうのヤバい。たまんない」
 座ったままの脩平に腰を抱かれ、導かれるまま膝の上へ。
 けっして軽くはない明之の身体を脩平は筋肉に覆われた太腿に軽々と乗せ、まったく力の入っていない腕を肩に回させた。
「津村が俺のことすぐ『友達以上』に意識したのだって」
「え……?」
「全部、俺がそうなるように仕組んだ。俺のこと考えるときにエッチな気分になるように。俺のこと、ただの友達とは違うんだって思うように」
 触れる指が『特別』になるように。意外な告白をしてきた脩平は驚きに目を見張る明之の頬を撫でた。
「触られて変な気分になったから俺のことが気になりだしたんだよな。ソレ、わざとだから」
「なんで……そんなこと」
「津村が欲しかったから。絶対他のヤツに渡したくなかったから」
 ぞくり、と身体の芯が震えた。緩やかな鼓動が地響きのように少しずつ強くなっていく。 
 脩平が。あの大らかで優しい脩平が。
「津村は俺のこと良いヤツだっていうけど、本当の俺はそういうヤツだよ」
 性的な欲望だけではない。それよりももっと深い、底の見えない虚。
 ―――怖い。でもその奥を覗きたいと、身を乗り出さずにはいられないほどの渇望が明之の感じるところを貫いた。
 もっと『谷田脩平』を知りたい。もっと『谷田脩平』を感じたい。
 誰にも触れられないところで。身体の一番敏感なところで。
 もう少し和やかな時間を過ごしたいと思っていたのに、脩平の熱に引きずられてしまったのか、身体は恋人としての脩平を欲しがってどうしようもなくなっている。
「なぁ……布団敷いといたから、上がろうぜ」
 珠になった雫と汗をすする合間に脩平が吐息で語りかけてくる。欲情に塗れた目がさりげなく辺りを見回していた。
「洗面器どこ」
 余裕のない脩平が探しているのは自身の身体を覆った泡を流すための洗面器だ。シャワーを用意するのも面倒なのだろう。可能ならいますぐにでも明之を抱きかかえて部屋に戻りたいに違いない。ただそれはさすがの脩平にも無理だ。
 なにせ明之は小柄でも、羽のように軽い女の子でもない。
 そしてもうひとつ。お互いに満足するには越えなければならない高い壁がある。
「そんなに急いでもすぐにはできねぇって」
 暗に『準備』のことを仄めかしたつもりだが、脩平の頭のなかは明之を抱くことでいっぱいなのかこちらを見ようともしない。洗面器で身体を流すことを早々に諦め、今度は明之を抱きしめていない手でシャワーを捻り、湯を出す。
 そうしている間にも明之の気が変わってしまうのを恐れているのか、器用な指は湯加減を調節する間も愛撫を怠らない。短く揃えられた爪が刺激に弱い脇腹をかすめ、明之はくすぐったさに身を捩った。
「ちょ、っと谷田。待って」
 おやつを前にした犬のように落ち着きのない姿に笑いながら、がっちりと腰をホールドして離さない腕に手をかけた。
 ようやく我に返った脩平が形の良い唇を少し尖らせ、顔を上げる。
「いまさらダメとかいっても、」
「違うってば」
 しつこく腰を引き寄せる脩平をなんとかなだめ、まだ痺れたように疼いている脚で立ち上がった。向かったのは浴室の隅に立てかけてある風呂蓋の前だ。
 剥き出しの尻に突き刺さるような視線を感じる。振り返れば脩平と目が合った。
「……むこう向いとけ」
「なんで」
「なんででも!」
 浴槽の湯を手ですくって脩平にかけた。とっさに目を覆った脩平はしぶしぶ顔を背けたが、明之がゴソゴソと風呂蓋を動かす音を耳にしたのか、いつの間にか視線をもとへ戻している。それに気づいた明之は持っていた洗面器を慌てて隠した。
「むこう向けっていった!」
「洗面器あるじゃん。なんで隠してんだよ」
「……〜〜ッ!」
 ここまで思い通りにならないヤツだとは思ってもみなかった。
 友達でいようとすれば好きにならされる。
 抱かれると覚悟を決めて身構えれば我慢する。
 しまいには少しだけ待てといっても一向に聞きやしない。
 これで全身で明之が好きなんだと訴えてくるのだから……可愛くないわけがない。
 ―――少しだけ、谷田の好きなところが見えてきたかも。
 自分でも気づかないうちに明之は笑っていた。
「津村……なぁ」
 縋るように伸びてくる長い腕。
「でかい図体してそんな声出すな、可愛くない」
 ああ、可愛い。可愛すぎる。
 今日だけは大人になってやってもいい。そのために明之は今日まで『準備』してきたのだから。
「コレみても引かないって約束したら……ヤッてもいい」
 おずおずと目の前に差し出された洗面器の中身に目を落とした脩平の喉が、ごくりと大きく鳴った。
 明之の腕のなかで水面が揺れる。たっぷりと張られた湯で、透明な太いボトルが転がった。
「コレ……お前が?」
そろりと洗面器へ伸ばされた褐色の手を明之ははたき落とす。
「いて」
「ソコ座る!」
 あからさまに動揺をみせる脩平を椅子へ座らせ、自分はその背後に膝をついた。
「あのさぁ。それって自分で買ってきたの?」
「黙る!」
 本当は恥ずかしくて今すぐにでも逃げ出したいのだ。こんなところに、しかも準備万端の状態でローションを持ち込んでいたとすれば答えはひとつ。
「……最初から俺とするつもりだった?」
 明之の機嫌が悪いわけではないと脩平もわかっているはずだ。長く太い首筋がうっすらと赤く染まっている。胸の真ん中がきゅっと甘苦しく喘いで、明之はその首に額を擦りつけた。
「……いいっていうまで振り向かないで。振り向いたらやめる」
 脩平は答えない。ぐっと拳を握って、長い息をひとつ吐いたきり目を閉じて頭を垂れた。たしかにこちらを見てはいない。しかし緊張した両耳が、明之の漏らす音をひとつも逃すまいと神経を集中させているのが手にとるようにわかる。ぞくぞくした。
 ボトルの蓋を捻る。暖かい液体を手のひらに流し込み、指先をたっぷりと湿らせる。
 この感触を味わうのは何度目だろうか。何度練習しても慣れない違和感に恐怖を感じながらも、ゆっくりと恥ずかしい場所へ指を這わせた。
「んッ……!」
 思わず漏れた声に、ぴくり、と小さく跳ねたのは目の前の大きな背中だ。
「津村だいじょ、」
「大丈夫だから……ちゃんと、きれいに……してきた」
「はっ!? ちょ」
 粘着質な音が浴室にこだまする。
 後ろを濡らすのに必死で、脩平の照れた声や自分がどんなに恥ずかしいことを口走っているかすら明之にはわからない。
 ここ数日、真島夕斗に教わったとおりの手順で準備をしてきた。家族の目を盗んで部屋に籠もり、脩平の顔を思い浮かべながら。
 湿った唇からチロチロと薄い舌を覗かせる。空想のなかの脩平はいつもその舌を優しく噛んで、口内を思うさま蹂躙し、ねっとりと上顎を擦り上げる。
 腰骨から力が抜けて身体を支えることができなくなった明之は、脩平の背中に縋りながら少しずつ指先に力をこめる。
「ぁあっ……ん、あ」
 何度目かの挑戦で明之の細い指が根元まで入りこんだ。声が出てしまうのは恐怖と気持ち悪さからだ。ひとりで慣らしている間、この行為を気持ちいいと感じたことは一度もない。コツと良い場所を覚えれば気持ちよくなると夕斗は言っていたが、自分でその域に達することはついに叶わなかった。
 それでも脩平とひとつになりたいから。喜んでもらいたいから。その一心で頑張ってきたし、なんとか指以外のモノが入りそうな予感を感じるまでにはなった。
「はぁ……う、ぅッ……」
 2本目の指を呑み込ませたところで涙が頬をつたった。指に感じる感触が怖くて、目の前の強張った背中に縋る。濡れた背中がまたひくりと脈打つ。
「谷田……ぁ……や、だ……」
 ぐちゅぐちゅと耳にうるさい水音に紛れさせ、脩平の名前を呼ぶ。呼んでいる間は胸に広がる愛しさが自分の行為を忘れさせてくれる。
「……しゅ、へ……脩平ぇ……」
 無意識にそう呼んでいた。浴室に立ちこめる脩平の香りが肺をいっぱいに満たして泣きたくなった。
「くそ、無理……もう無理。明之……っ!」
 いきなり抱きしめられ、足元のボトルが鈍い音をたてて床に転がる。一気に現実に引き戻された明之はハッとして脩平を見上げた。
 脩平の黒々とした瞳が揺れている。そう見えるのは自分が泣いているからか。それとも。
 燃えるように熱い腕が冷えた身体を覆った。背中を強くまさぐられると擦れた皮膚から体温が戻ってくる。
 柔らかな床にゆっくりと押し倒される間も明之は抵抗できなかった。太腿にあたる感触が脩平の興奮の大きさを伝えてくる。心臓が今日一番大きな悲鳴を上げた。
「ぁっ、あっち向いてろって、ぃった、のに」
 泣いているところを見られたくなくて顔を背けるも、荒い息を隠そうともしない脩平が引き戻してしまう。
「明之……ごめん。ごめんな」
 汗に濡れた髪を労るように撫でられる。
「ばっ、か! 謝んな……!」
 イヤなわけじゃない。先走る心に身体がついていかず、ただただもどかしいだけだ。
「俺がしたいんだからっ」
 抜けてしまった指をもう一度挿入する。しかし脩平に間近で見られていると思うとなかなかうまくいかない。そうこうしているうちに脩平の方が我慢ならなくなったのか、転がっているボトルを手にとり、中身を手のひらにぶちまけた。
「あっ、ちょっと脩平っ」
「俺がやる。後ろ向いて」
「そんな、だって、怖い」
「絶対に痛くしないから。無理もしない。これ以上、お前が苦しそうなの見てられないんだよ」
 切ない声音に絆される。
 痛くないはずがない。脩平の大きさは充分すぎるほどわかっていたし、加減だって明之自身が一番わかるはずだ。なのに、どうしても振りほどけない。
 もういっそ一思いに貫いて欲しい。そんなはしたない言葉が飛び出しそうになるのをすんでの所でこらえ、明之は床に突っ伏した。
「は……はやくして」
 震える腰を持ち上げ、顔を覆う。空気中の水分が鼓動と一緒に脈打っているようだった。
「……触るぞ?」
「……ん」
 皮膚の薄いところに少し硬い指先が触れる。途端、背筋を電流が走ったように震え、明之は声を上げた。
「ぁっ!」
「すげ。ヒクッて」
「うぅ……いうなってばぁ」
「ごめん」
 おざなりに謝罪される。しかし一度引いた指は制止されないのをいいことに、またゆっくりと触れてきた。
「ああっ……は、ぁん!」
 躊躇いがちに突かれるたび肌がざわついた。浴室に響く声を抑えたいと思うのに身体がまったくいうことをきかない。
 ―――おかしい。自分で触ったときとはまったく違う感覚に支配されている。
 全身が粟立っているのは寒さのせいじゃない。明之はたしかにソコで感じ始めていた。
 それは脩平の方もわかっているようで、少しずつ指の動きが大胆になっていく。
 最初はソコを撫でるだけだった指先は徐々に力を込めていき、狭まった場所に潜り込もうとし始めた。ある程度明之自身の手によって慣らされたソコが弛緩するタイミングを見計らって突き進んでいく。
「ふぅ、んっ……く、ぅ!」
 視界が白く染まる。声を出した瞬間にぬるっと勢いよく指を突き入れられ、息を詰めた明之の手が無意識のうちに脩平を探し始めた。震える指先に気づいた脩平がその手を握ると、嘘のように震えが止まった。
「痛い……? 止めて欲しい?」
 気遣う口調とは裏腹になおも大胆になっていく指先。黙ったまま首を振ると調子づいたのか、もう一本指が増やされる。
 体内の圧迫感が一気に増す。明之は夕斗に教わったとおり深く息を吐き、指を馴染ませるように自ら腰をくねらせた。
 未知の快感が脳みそを蕩かせ、痛みを忘れた身体から力が抜ける。残ったのは敏感な場所をまさぐられているという羞恥と、時折ぞっとするほど気持ちがよくなる感覚だけだ。
 長い指先がかき混ぜる身体のなかに、たしかにその場所があるのを感じる。ソコを気まぐれに押されるたび卑猥な声を上げそうになるけれども、なぜかイケナイコトをしている気分が先立ち、脩平に伝えることができない。
「はっ、あっん……ぁ、ああッ!」
 油断していたところを不意に強く押し込まれ、噛みしめた唇が勝手に緩む。疼くような快感に床についた膝が震えると、わずかな反応の違いを感じ取った脩平が細い腰を抱きしめる腕に力を込めた。
「ココ?」
 笑いを含んだ声が憎らしい。きっ、と睨み付ければいつもの精悍な顔はどこへやら、意地悪く細められた瞳とかち合う。
「俺だってイロイロ勉強したんだからな」
 手を出さない代わりに明之を喜ばせるための知識は仕入れた。そう耳元で囁かれ、なぜか湧き起こったのはかすかな悔しさだ。明之のなかの男のプライドだろうか、自分がリードしたいと心のどこかで思っていたのかもしれない。
「な。すっげートロトロ。もうイケそう?」
「んっ……あ、わかんなっ、ぃ……」
 何度かぬめりを足しながら根気強く弄られた後ろは深い吐息に呼応して淫らに綻んでいた。気持ちでは充分ほぐれたと思いたいところだが、瞼の裏に見慣れた脩平のモノがちらつく。どんなに準備したところで苦もなくアレを飲み込めるとは思えなかった。
「ああッ! あ、ソコッ、だめ!」
 また、ずん、と重たい快感が襲ってくる。燃えるように熱い身体が指先まで痺れて声が抑えられない。
「はぁっ……あああ……だ、ぇ……あぁぁ……」
 器用な舌が耳を犯す。全身が液体になったように蕩けて、唇の端から一筋、光る糸が滴った。
 ―――怖い。気持ちいい。怖い。欲しい。
「ん、はぁっ……も、もう……もぅ、いれっ……あッ!?」
 濡れた切っ先が弾けるように敏感になった場所へ押し当てられたと思った瞬間、恐ろしいほどの質量が激しくうねる粘膜を掻き分けて侵入してきた。
「あっ! あ! は、んぐっ……くるし……っ!」
 力を抜くために吐き出される息と同じタイミングで、遠慮もなにもあったものじゃない。無理はしないとどの口が言ったのか、脩平は本能に任せるまま猛りきったモノをねじ込んでくる。
「明之……好きだ……もう俺、どうしようもねぇよ……」
 額に落ちる汗が脩平の苦痛を伝えてくる。
 痛いのはお互い様。それよりもいま明之の心を占めているのは、その先にたしかに存在する愛しさだ。
 夢中になって腰を突き入れてくる脩平を微笑ましいと、どこか冷静に思う自分がいる。
 今はまだ苦しさの方が勝る行為かもしれない。この先もこれ以上の快感は得られないのかもしれない。
 それでも。
 ―――俺はそれでも、脩平を選ぶよ。
 それが明之の、脩平へのたしかな愛だ。
 身体の奥がみるみるうちに熱いモノで満たされていくのを感じながら、明之は声が枯れるまで何度も愛しい人の名を叫んだ。




 
 嵐のように濃密な時間が過ぎ去ったあと、明之が冷静さを取り戻したのは脩平の部屋に敷かれた布団へ横たえられたときだった。
 明之の身体を思うさま貪り、一度だけにとどまらず二度までも挑もうとしてきた脩平。運動部の一線から退いて体力の有り余った獣を制止するには、最後はもう懇願しかなかった。
 涙を浮かべ「やめて」と見上げる明之に、やっと我に返った脩平はのし掛かっていた巨体を慌てて離した。喘ぎすぎて息のできない明之の震える身体を抱きしめ、今日はじめてのキスをした。
 触れ合った唇から胸の奥へ流れ込んでくる優しい吐息。額に張りついた髪をそっとはらう瞬間、ふといつもの男らしい脩平が蘇る。
 しかしすぐに今の状況を思い出したのだろう、脩平は汚れたままの明之から目を逸らし深いため息をついた。
「ごめん……夢中で。大丈夫?」
 長い間溜まっていたモノを思う存分吐き出して満足したのか、謝りながらも必死ににやけた顔を隠そうとしている脩平を見ていると怒る気力すら失せてくる。
 関節という関節が軋むように痛んだが、すっきりとしたのは明之も同じだった。こちらは身体ではなく心が、という意味でだけれども。
 その後は身体を隅々まで洗われ、上げ膳据え膳、全身をキレイに整えられたあと布団に寝かされた。本当は自分で着替えくらいはできたが、無理をさせたという罪悪感に駆られて世話を焼いてくる脩平が可愛かったので黙っておいた。
 多少荒療治だったのは認める。若さに任せて短絡的に自分の気持ちを確かめたのも。
 でも、後悔はしてない。脩平と明之が心も体も「恋人」になった幸せな時間だった。
 今日という日を、明之はきっと一生忘れることはないだろう。
「でも尻が痛いのはできるだけ早く忘れたい」
「え? やっぱりどっか痛むか?」
「大丈夫」
 明之が少しでも寝返りをうとうものなら心配そうに覗き込んでくる脩平。でも本当は、ちょっとした隙にだらしなく目尻が下がっているのを明之は知っている。
 ちょいちょいと手招きをすれば素直に顔を寄せてくる脩平の頬をぎゅっとつねって、
「いて」
「ニヤニヤすんなし!」
「ごめんって」
 被せられた毛布に潜り込んだ。大きな手から毛布ごしに伝わるぬくもりが心地良い。
 大人しくなった明之を満足げに見下ろして、脩平はさして痛くもなさそうに頬を擦り呟いた。
「……あのさ」
「ん」
「さっきも言ったけど俺、勉強する。料理も……その、アレも」
「……」
「絶対に満足させるから。だから、俺とずっと一緒にいてほしい」
 料理はともかくアレの方はもう充分だとか、本当は最後に辛かったのは気持ちよくなってきて怖かったからだとか。さまざまな言葉を明之は喉の奥に呑み込んだ。
 脩平が求めているものは、きっと、もっと深い。
 でもそれを口にするのは、まだ気持ちが幼い自分には恥ずかしいから。
「……料理もアレも、ふたりで勉強すればいいじゃん。一生モノなんだからさ」
 目を見張った脩平が一瞬戸惑い、考え、微笑み、覆い被さってくる。
 幸せそうな脩平を前にすると、やっぱり明之も幸せになる。
 ―――ああ、今日はいろんな脩平を見たなぁ。
 きっと明日から、もっとたくさんの顔を見せてくれるんだろう。
 布団に潜り込んできた熱い腕をつねって、明之はさっさと寝たフリをした。





「あ、いたいた津村くん! ちょっといい?」
「真島センパイ。こんにちは。どうしたんですかそんなに急いで」
「それがさ、紺谷を迎えにいったら谷田くんが紺谷連れてっちゃって……」
「えっ、なんで」
「わかんないんだけど……なにかあったのかな。ケンカとかだったらどうしよう」
「ケンカするようなことなんてないと思うんですけど……あ、待ってください、紺谷から電話だ……もしもし紺谷、いまどこ? 谷田と一緒にいんの?」
『おい明之! 今度はコイツが「男の悦ばせかた教えろ」とかって俺に言ってくんだけど!? もうお前らどうなってんの、どうして俺を巻き込むんだよ怖い!』
「はぁ? 谷田そんなこと……センパイ、聞こえました?」
「聞こえた聞こえた」
『おい夕斗さんそこにいんのかよ! 代われ!』
「いいよ代わらなくて。元はといえば紺谷が首突っ込んだせいでもあるんだから。教えてあげなよ」
「だって。よろしく」
『よろしくって……明之ホントお前、谷田といるときとキャラ違うからな!?』
「そんなの当たり前じゃん」
『……』
「じゃ切るからなー」
「紺谷、またあとでね」
「……なんかすみません、うちのが」
「いいや〜うちのにも責任があるし。気にしないで」
「あ、近くに美味しいお好み焼き屋があるんですよ。おごります」
「やった!」
「……あの、それでちょっと相談なんですけど」
「え、なに?」
「アノときって」
「こっちも? いいよいいよ。付き合うよ」
「すみません」
「ね、津村くん……好きな人がいるって楽しいね」
「……はい!」

 友達でも、恋人でも。
 アイツがいれば、きっと世界はもっともっと楽しくなるだろう。


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あきゅろす。
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