プライベート泡姫 〜永久指名おねがいします!〜@
津村明之は焦っていた。
理由はひとつ。いつもはすぐに見つけられるアイツの姿が見えなかったからだ。
部活も覗いてみた。部活道具を両手一杯に持って走っている一年生に訊いても、やはり今日は部活にも顔を出していないらしい。
―――どこいったんだよ……もう。
どうしても今日会いたい。スマートフォンを見た。30分前に送ったメッセージは既読にすらなっていない。
仕方なくアイツの自宅に向かった。一度だけ前を通ったことがあるアイツの家は明之たちの通う高校のすぐそばにある。そこにもいなければまた学校に戻るしかない。
薄い胸の奥で鼓動がさざめいていた。うなじの毛がそわそわと逆立ち、所構わず叫んでしまいたいような気分だった。
アイツの自宅近くまで歩いてきて部屋の窓を見上げたちょうどそのとき、角の向こうから聞き慣れた笑い声がした。間違いない。アイツだ。
―――やっと見つけた。
顔を見るのが怖いような、早くすべてを打ち明けてしまいたいような。
声はもう一人分聞こえてくる。明之は慌てて電柱の陰に隠れた。じっと息をひそめ、アイツが姿を現すのを待つ。
「で、そん時の顔がさ」
「え〜? なんか信じられない」
和やかな雰囲気で雑談をする二人の男子高校生。明之はひとつ深呼吸をし、意を決してその輪の中に飛び込んだ。
「あの!」
「うわっ」
声をかけられたアイツの驚く顔と、その隣で不思議そうに明之を見る顔。
二つの顔を上目遣いで眺めながら、明之はその日一日、必死になって考えた言葉を緊張で狭まった喉の奥から絞り出した。
「つ、付き合ってほしいんだけどっ!」
ポカンと口を開けたまま、しばらく明之の顔をまじまじ見つめたあと。
「……………………えっ、俺!?」
素っ頓狂な声を上げ、アイツ――――紺谷晃は血の気のひいた真っ青な顔で、明之と隣に立つ恋人を交互に眺めたのだった。
「……で、本当は俺に何の用だって?」
明之が引っ張り込まれたのは紺谷の自室。紺谷と歩いていた真島夕斗も一緒だ。
紺谷晃は明之の友人で、一年の頃からの付き合いでもある。その隣に座る真島夕斗は明之たちと同じ高校に通うテニス部の3年生。紺谷は同性の夕斗と恋人同士だ。
紺谷が入れてくれたお茶をすすりながらやっと平常心を取り戻した明之が、
「あの、付き合ってっていうのは紺谷にじゃなくてですね、その、ちょっと話をしたいなっていうか! あ、でも別に紺谷のことが好きだとかそういうんじゃなくて、その、事情を知ってる友達が紺谷しかいなくて!」
ともすれば誤解を招きかねない発言を必死になって訂正しようとする姿に、真島夕斗は優しい笑みを返した。
「いいよいいよ。ちょっとびっくりしたけど、もう大丈夫だから」
のほほんと同じく茶をすする3年生は、隣でがっくりと肩を落としている恋人の顔を覗き込む。
「ほら、話聞いてあげなよ。俺のことは大丈夫だからさ」
「うん……ありがと、夕斗さん」
「ごめんな紺谷。せっかくのデート邪魔して……」
「まぁ夕斗さんもこういってるし気にすんなって。今日はこの人ここに泊まりだから、あとでゆっくりできるし」
泊まり、という単語に夕斗は頬を染め、明之はギクリと肩をすくめる。
「どうした?」
怪訝そうな紺谷の声に、明之は怖じ気づいた心を奮い立たせてぽつぽつと口を開いた。
「それがその……話っていうのはそのことなんだけど」
頬杖をついた紺谷が首を傾げる。
「どのこと」
「その、お、お泊まり……?」
「ああ。セックス?」
「ちょっ! 紺谷、言い方!」
バチンと背中を叩く音がして、紺谷が前につんのめる。明之はなにも言い返せない。反論しようにも、話というのはまさにそのことだったからだ。
「お前らまだやってなかったのか。谷田って見かけのわりに奥手なの?」
「見かけってなんだよ。別に手が早そうには見えないだろ!」
「そうか? アイツいつもすげー目で明之のこと見てたから、とっくに襲われたのかと思ってた。そもそも一緒に風呂入ってるんじゃなかったっけ」
「入ってたけど、せ、銭湯で変な気分になるようなことしない!」
まぁ本当は少しだけ―――ほんの少しだけそういう雰囲気になったことがないわけではないが、紺谷に知られるのは気が引けた。小さい頃から自分の家のように慣れ親しんだ場所でいやらしい気分になってしまったことは、明之にとって地面を転がり回りたいほど恥ずかしい。
そう。明之にもいま恋人がいる。名前を谷田脩平という。
正確には少し前に恋人になったばかりの同級生、こちらも名前のとおり男で、彼は明之の祖母が経営する銭湯の常連だ。
脩平とは明之の祖母ハツエが腰を痛めて入院することになったときに仲良くなった。ハツエの入院中、彼女が経営している銭湯の番台に座っていた明之に、手伝いをしたいと脩平が申し出たのがきっかけだ。
その後、無自覚のまま明之は脩平を好きになって、脩平の方はふたりが仲良くなるずっと前、一年生の頃から明之のことが好きだったのだと発覚したのが今から一月ほど前のこと。
紆余曲折、すれ違い勘違いを経てお互いの気持ちを知り、ふたりは晴れて恋人同士となった。
そのふたりの気持ちにいち早く気づき、見守りながらも背中を押してくれたのが明之の友人の紺谷晃だ。彼は自分と同じ、同性を好きになった脩平と明之の仲が進展しないのをやきもきしながら見ていたのだという。
「いやでもさ。ほとんど毎日お互い裸見てたんだから、いまさら抵抗とかないんじゃないの」
「それとこれとは別っていうか……友達として見るぶんには全然よかったんだよ。でもいざ付き合うってなると、やっぱり意識しちゃうじゃん……」
「そんなもんかー」
「谷田はけっこう、が……我慢してたとかいってたけど」
「そりゃそうだ」
脩平が健全な男子高校生の性欲を持て余しているということは明之にもわかっている。脩平みずから口に出して『好きなヤツとはヤりたい』と明之に話したこともある。
もちろん明之にも脩平に触れたいという気持ちはあって、普段はなりを潜めている性欲を脩平に引きずり出されてからは、夢中で自分自身を慰めたこともある。両想いだとわかったあとは、それこそ何度も。
「で、ついに谷田からお誘いがあったわけ?」
一昨日の夜の、電話口から聞こえる脩平の声が蘇った。彼はらしくなくかすかに震える声でいったのだ。
「来週の土曜に家族が誰もいないから泊まりにきてほしいって……」
「ははあ。そりゃヤル気満々ですねぇ」
「紺谷!」
面白がっているふうを隠そうともしない紺谷を夕斗が窘める。明之はますますきまり悪そうに肩を落とした。
「……頭じゃなくて、気持ちではわかってんだよ。谷田がそう思ってくれるのは嬉しいし。でもいろいろ考えたらやっぱり俺が……される、方? なんだよなって考えちゃって。そしたらちょっと怖くなっちゃって」
「うんうん。わかるよ」
真剣な面持ちで聞いていたのは夕斗だ。
「俺が口を出しちゃいけないのかもしれないけど。ええと、」
「津村です。津村明之。俺、よかったらセンパイの話聞かせてもらいたいです」
「ありがと津村くん。でね、やっぱり津村くんが怖がるのも無理はないと思う」
「あの、真島センパイは……その」
こんなことを訊いてもいいものかチラリと視線を紺谷へと移す明之に、紺谷はなぜか興奮した面持ちで身を乗りだしてきた。
「あれ、もしかして今から夕斗さんのエッチで可愛い話する?」
「はぁっ!?」
とっさに立ち上がった夕斗が紺谷の腕を掴んで立たせた。
「もう! 紺谷は外に出てて!」
「え〜。ココ俺んちなのに」
「津村くんが話しづらいだろ!」
力を込めれば折れてしまいそうな腕でぐいぐいと恋人の背中を押し、名残惜げに振り返る紺谷を部屋から追い出してしまう。
「終わったら呼ぶから下でテレビでも見てて!」
「はぁ〜い」
なんだかんだ紺谷が夕斗の言葉に従う様子は、ふたりの関係をよく知らない明之の目にもとても可愛らしく、そして羨ましく映った。
階段を下りる足音がどこか楽しそうに響く。普段はクールな紺谷の悪戯に弾む声も、意地悪く微笑む顔も、明之がいままで見たことのないものばかりだ。
「すみませんセンパイ。なんだか俺、本当に邪魔しちゃって」
「またぁ。いいんだよ、紺谷だって津村くんたちの力になってあげたいって思ってるんだから」
紺谷がいなくなった部屋で夕斗と向かい合う。
「でしゃばりだと思うところもあるかもしれないけど、紺谷は津村くん達が付き合った方が幸せだと思ったから応援したんだと思う。俺はその判断を信じてる。だから力になってほしいことがあったら遠慮なくいって」
恋人の隣にいるときはほんわかした雰囲気の上級生が、いまの明之にとっては誰よりも頼もしい味方にみえる。
くっきりと大きな瞳が自分も役に立ちたいと意気込んでいるが、彼が役に立ちたい相手はきっと紺谷なのだろう。
彼らのしっかりとした絆が目に見えるようで、胸の奥に柔らかな火が灯った。この気持ちを脩平と味わいたい。でも、いまはそれができない。
なぜかはわかっている。明之自身が『恋をした時間』を知らないからだ。
恋人になったばかりの脩平に対して、明之は大きな負い目があった。
幸せな時間の裏側に貼りついた、ひんやりとした不安。その不安はちょっとした瞬間に明之の心を激しく揺さぶる。
友達だと思っていた脩平の『特別な人』になることを望み、自分は彼にとって特別なのだと感じた瞬間にはもう彼の『唯一の人』になりたくなった。
一緒にいて心地良い相手からその先、触れたい、触れて欲しいと思うようになるまでがあまりにも急すぎて明之は混乱していた。
脩平が好き。だから自分の想いが届かないとわかったときは絶望したし、それが勘違いだと知ったときは天にも昇る気持ちだった。付き合って欲しいといわれた瞬間は身体が熱くなって溶けてしまうかと思った。
脩平が好き。脩平が好き。でも明之には脩平が教えてくれたような、恋に落ちて、それを育てていた時間がない。気づいたときにはどうしようもないくらい好きになっていて、ただそれだけ。
それならこの気持ちをどうやって伝えればいいのだろう。気持ちばかりがたくさん溢れてもどかしさが募る。
他の人ではない、彼だから愛しく思い、一緒にいて幸せなのだと伝えるには――どうしたら。
そんなときの脩平からの誘いだ。
正直なところ、そろそろそういう話になるとは思っていた。たくさんキスもしたし、何度か身体に触れたこともある。
それに―――これはチャンスじゃないだろうか。
友達同士なら触るくらいはあるだろう。でも、その先は。少なくとも身体の関係があれば、同性でも一番『恋人』に近づけるんじゃないだろうか。そんな思いがふと頭をよぎった。
脩平だからすべてを見せられる。それを証明できれば自分の『好き』を伝えられるかもしれない。
それから男同士のやり方を調べた。
結果、一瞬決心が揺らいだ。
そのたびに触れた脩平の熱を思い出し、たまらない気持ちになった。
ただ触られるだけで腰が砕けてしまいそうなほど気持ちいいのだ。あの大きな手が熱をもって自分の身体を這うなんて、想像しただけで深いところから何かが溢れ出しそうになる。
やり方を調べては想像し、我慢できずに自分を慰め、またため息をつきながらやり方を調べる。もうそんな毎日にもうんざりで、いい加減本物の谷田に飢えている。
浅ましいことは自覚していた。それでも一度目覚めてしまった欲望は止められない。
「……津村くん?」
「っ! あ、すみません。ボーッとしちゃって」
ずいぶん長い間物思いに耽っていたらしい。心配そうに可愛らしい眉根を寄せた夕斗と目が合った。
――この人も紺谷とアレコレしてるんだよな……。
「あの、真島センパイは怖くなかったんですか? その、はじめてのとき、とか」
「あっ……あー、うん。たしかに怖かったけど」
夕斗の白い頬が桃色に染まる。その瞬間を思い出しているのだろう、うっとりと夢を見るように微笑んだ顔は幸福に満ちていた。
「俺が紺谷のことすごく好きでどうしても、えっと、シたくて。だからいっぱい準備した。たしかに大変だったけど……幸せだったよ」
「準備」
「少しずつ練習していけば、津村くんにもきっとできるよ」
息を呑んだ。
これだけ華奢な身体でも受け入れることはできる。もちろん、それなりの準備をすれば。
「紺谷を追い出したのはその『準備』についてなんだけど……聞いとく?」
「……」
本当はその方法を紺谷に教わるつもりだった。そのために今日、紺谷を探していたのだ。紺谷が相手なら恥ずかしさはあっても冷静に学ぶことができそうな気がしていた。それを自分と同じ立場――であろう――夕斗から学ぶことができればこれ以上の活きた教材はない。
羞恥と恐怖、腹の底から喉元を突き上げてくるような期待その他もろもろを天秤にかけ、明之は心を決めた。
「……おねがいします師匠!」
平日の銭湯は忙しかった。
番台のある男湯は商店街の老人たちで賑わっている。女湯の方も最近の温泉ブームに便乗して利用者が少しずつ増えてきていた。
銭湯の手伝いは週2日ほどになっていた。ハツエの腰の調子は依然と同じくらいに回復して、今年は町内会の年末旅行にも参加すると張り切っている。
今でも脩平は毎日店で風呂に入り、今日のように明之が番台に座る日は閉店間際にやってきて片付けを手伝ってくれる。入浴は一人だ。
明之としては脩平と一緒に楽しく風呂に入りたい。でも脩平は頑として首を縦に振らない。曰く、「我慢できないから」。
だとしたら毎日のように一緒に入っていた時期はどうだったのかと思う。
明之にとって脩平との風呂の時間は一日の疲れをとる至福の時間だった。
熱い湯のなかで肩を並べて、その日一日に起こった取り留めのないことを語り合う。時々軽口を叩き、からかうように伸びてきた手をつねったりして――。
そんな友達同士の楽しい時間も、恋人になったというだけで変わってしまうのだろうか。脩平の見せてくれたあの笑顔は無理につくられたものだったのだろうか。
贅沢な悩みだ。明之は自嘲する。
友達から恋人になることは自分も望んだことだったはずなのに、今さらになって寂しいだなんて。
いくら悩んだところで、以前の自分を羨んだところで、もうただの友達に戻る気などこれっぽっちもないくせに。
ガラリ、と立て付けの悪い引き戸の音が響いた。
「いらっしゃいま……」
反射的に挨拶をすれば、そこに立っていたのは脩平だ。
「いらっしゃいました」
いつものとおり上下ジャージ姿、その上に重たそうなダウンを着込んでいる。
マフラーで隠れた口元は見えないが、精悍な目元は明之の顔を見てふわりと柔らかく微笑む。明之の心臓が甘く軋んだ。
「いらっしゃい。外寒い?」
「今夜は雪かもなぁ。耳がキンキンする」
脩平は脱いだダウンを腕にかけ、分厚い手袋をとった。明之がそれを受け取ると、ほんのり体温の残った裏地からかすかに脩平の甘い香りがした。腕の中に抱いて、そっと香りを吸い込んだ。
「さぁみぃ。ちょっと入ってくるわ」
「えっ、あっ、ごゆっくり!」
服を脱ぎはじめた脩平にバレないよう急いでダウンをたたんだ。荷物と一緒にベンチに置き、意味もなく位置を調整していそいそと番台に戻る。
「…………はずかしっ」
変態だ。まさしく変態だ。変態以外のなにものでもない。
こんな姿を誰かに見られたらと思うと、もう外も歩けない。
脩平が上がるまでに熱くなった顔を元に戻さなくては。にやけそうになる顔を両手でほぐして、明之は意味もなく台帳をめくった。
ほかほかの美味しそうな湯気をたてた脩平が浴場から出てきたのは10分後だった。
引き締まった上半身を惜しげもなく晒し、バスタオルを腰に巻いただけの姿だ。噎せ返るような白い蒸気と石けんの匂いが脱衣所に流れ込んでくる。
脩平が入っている間に最後の客も帰ってしまって、店にはもう明之と脩平だけになっていた。
「津村、風呂は?」
「ん〜帰ってから入る」
「待っとくけど」
「いいよ。谷田が湯冷めしちゃうし」
濡れタオルの入ったカゴを抱える。それを横から脩平が奪った。
「入ってくれば? 寒いだろ」
「でも、」
「いいから。ほら」
「……じゃあすぐ戻るから」
「ん」
カゴを持ったまま奥の部屋へと消えた脩平の後ろ姿を見送りながら、明之は唇を尖らせた。
心配するくらいなら一緒に入らせてくれればいいのに。
ひんやりとしたあの不安が、温かな湯気の隙間から明之の胸の奥を舐めるように撫でていった。
明之が上がると脱衣所の掃除はあらかた済んでいた。慌てて服を着て、ベンチで明之が上がるのを待っていた脩平のもとへ駆け寄る。
「ごめん! あと中だけっ?」
「おう、いいよ。ははっ、ちゃんと髪ふけって」
渡されたタオルで髪を拭いながら浴場に飛び込んだ。後からついてきた脩平と椅子を片付け、湯を抜いて電気を消した。
「ちょっと話していかね?」
脱衣所に戻った脩平に誘われベンチに座る。磨りガラスの外を爆音をたてながらバイクが通り過ぎ、早くも酔っ払っているのか楽しそうに歌う声が聞こえる。
店の中はいつもどおり、少し騒がしいファンの回る音が響いていた。
突然、脩平の指が明之の髪をつまんで捩った。
「わひゃっ!」
引っ張られた場所の生え際からぞわっと鳥肌が走る。
「なにっ」
「髪ちゃんと拭けてるかなと思って」
「拭いたよ!」
疼いた地肌をガシガシとタオルで擦った。むず痒い刺激がおさまったのと引き替えに、今度は鼻の奥がそわそわしてくる。我慢できずくしゃみをした。
「ん、くしゅッ!」
「やだ津村くん、くしゃみカーワーイーイー」
笑いながら自分の荷物を漁った脩平がカバンの底からダウンを取り出す。それを長袖シャツ一枚の明之の肩にかけ、立ち上がった。
「待ってて」
一言残し、明之を残して外へ出ていった。
ひとりになった明之はダウンの襟を掻き合わせる。染みついた脩平の匂いが、暖気に開いた喉の奥を通り過ぎていく。肺が一杯になるまで吸い込んだところで脩平が戻ってきた。明之は何事もなかったかのような顔をして襟から手を離した。
「ほい」
渡されたのは熱い缶コーヒーだ。近所のコンビニで買ってきたのだろう、脩平の手にはビニール袋が握られている。
「……ありがと。コレも」
ダウンを返そうと脱ぎかけたが、
「着てていいよ」
反対にもっと深く被された。外は寒かったはずだ。寒がりの脩平の身体は冷えたにちがいない。現に高い鼻の先がほんのり赤らんでいる。
大事にされていると思う。実感するたび、慣れないくすぐったさに襲われる。
「谷田が風邪ひいちゃうじゃん。俺まだ温かいから」
「んー……じゃあこうしてて」
そういって脩平はぴったりと身体を寄せてきた。まだ少しだけ湿った明之の頭に冷たい鼻を埋め、
―――すぅ、と思い切り息を吸い込んだ。
「ほぁっ!? なにすんだよっ!」
「え? なにって匂い嗅いでる。すーはー」
「ちょっ、バカ! へんた……っ!」
「変態上等です。あーめっちゃ良い匂いする」
笑いを含んだ吐息が首筋をかすめて、温まった身体が今度は違う熱に火照っていく。
「もー……」
途中から怒るのも馬鹿らしく―――そもそも似たようなことをしてしまった自覚もあるからだろう、明之は黙って脩平のされるがままになっていた。
耳まで真っ赤にして俯いた恋人の湯上がりの匂いを存分に堪能したのか、満足げな笑みを浮かべた脩平が明之の手に握られたままの缶コーヒーに気づく。
「コーヒー冷めるけど。飲まねぇの?」
「誰のせいで飲めないんだよ……っていうか、猫舌だからぬるくなるまで待ってる」
照れ隠しにコロコロと手のひらで転がされたコーヒーは、ほどよい温度になっていた。
「ふぅん。そういや敏感だしな……舌、とか」
低い声が耳元で囁いた。目の前に目の前に影が差し、じんわり熱の近づく感覚に明之は首をすくめる。
それでも脩平を求める気持ちに逆らえなくて、触れる寸前でこちらを待っていた唇に舌を伸ばした。
「ん……っ、ふ」
熱い口内をさらに熱い舌が蹂躙する。体温を取り戻した脩平の手が明之の小さな頭を掴んで引き寄せた。
もっと奥まで入りたい。そう叫ぶようにうねる舌は何度も角度を変えて敏感な粘膜を侵す。
ゴトン、と足下に缶コーヒーが転がって、明之が驚きに目を開けば、よそ見をするなとキツい眼差しに無言のまま責められた。
羽織っているダウンが熱い。無意識に肩から震い落とし、自由になった腕をそっと脩平の腰にまわしてみる。薄い服越しに感じる腹筋が小さく跳ねた。
「っ!」
そこで我に返ったのだろう。明之の腕を取り、脩平は身体を離した。
「……」
長い沈黙が続く。
あと一歩。あとほんの少しだけの興奮に流されていれば容易く踏み越えてしまっただろう『一線』。それを堪えたのは脩平だった。
「あー……遅くなったな。そろそろ帰るか」
「ん」
荷物を持って立ち上がる。無言の明之は傍目には不機嫌そうにも見えた。
しかし本当は。
―――いまなら、きっと。
真一文字に結んだ唇の奥で燻る脩平の体温を逃すまいとしていた。この感触を、この体温を逃がしたくない。
家に帰って、部屋に戻って。
このどうしようもなく愛しくて、目眩がするほど恥ずかしい欲を抱えたままで。
『準備』をしよう。
もう、我慢したくないから。
約束の土曜はすぐにやってきた。不思議なもので、今日の日を楽しみにしていた気持ちと、今日という日がくるのを恐れていた気持ちが明之のなかに同居している。
日中は脩平と外で遊んだ。流行りの恋愛アニメ映画を観に行ったのだが、男二人連れの客は明之が想像していたより多かった。同性と観てもうっかり恋に落ちる。そんな言葉が話題になった映画だけあって、涙もろい明之は案の定ラストの展開にときめき、こっそり感動の涙を流した。これでしばらく学校でのネタには困らないだろう。
脩平の家族は昼過ぎから親戚の結婚式に出かけたという。高校生の脩平以外は家族全員が出席することになったらしく、帰りは明後日の月曜日。つまりは約2日間、脩平の家に二人きりだ。
夕方近くになって脩平の自宅に向かう途中、夕飯の相談があった。
「メシどうする? 金なら親が置いてったけど」
「俺のぶんはいいって。でも外食かぁ。せっかくだから家でゆっくり食いたいかな」
辺りを見回すが、近所にはスーパーかコンビニしかない。
「あ」
脩平が何かに気づいて声を上げた。
「なに」
「ほら、今日鳥肉安いんだってよ」
「トリニク?」
指差す方向に目をやれば、たしかにスーパーの幟に『夕方お買い得市 鳥肉半額!』と書かれている。
「ホントだ」
「津村んちってカレーは何肉派?」
「えええ。考えたことないわ。いつもは、牛? 鳥? 豚もあるかも」
「じゃあ鳥でもいい?」
「え、カレーが? 別にいいけど」
話の脈絡がまったく読めない。しかし脩平の方はしばらく何かを考えたあと、
「よし決まり。いこうぜ」
迷いなくスーパーへと歩き始めた。
「えっ、待てよ。カレー作んの?」
「おう」
戸惑いながらも明之は脩平のあとを追う。
「おう、って……谷田、料理できんの?」
たいがいのことは難なくこなしてしまいそうな顔をしている脩平だが、料理ができるとは聞いたことがない。
「やったことない。でも調べればなんとかなんだろ」
「マジで! 俺もできないんだけど!」
笑いがこみ上げてくる。料理のできない男二人、いったいナニができあがるのか想像もつかない。しかし脩平と並んでキッチンに立つ姿を思い描くだけで心が弾んだ。まるで未知の実験をしようとしている小学生のような気分だ。
「嫌? 弁当でも買う?」
振り返った脩平に、明之は首を横に振る。
「イヤじゃない。なんか、これぞお泊まり会って感じですげー楽しみ」
「だよなー」
夕飯の買い出しに集まってきた主婦の波をかいくぐり、スマートフォン片手に材料を調べ、なんとか必要なものを買いそろえた二人は急いで脩平の家へとむかった。
「ただいまーっと。って誰もいねぇけど」
「お邪魔しまーす……」
通された玄関に足を踏み入れると、はじめて訪れた場所のはずなのに、なぜか懐かしさに似た感覚が明之の全身を包み込んだ。
家のあちらこちらから脩平の気配がする。この家で脩平が育ったのだと思うと言いようのない感動が足下から湧き上がり、じっとしていられなくなる。
傘立てに刺さったバッド。ユニフォーム姿の小さな脩平が写っている写真が玄関に飾ってある。写真のなかの脩平は屈託のない笑顔だった。
脩平は怪我の影響で野球を辞めた。今でも部活に顔を出してはいるが、ピッチャーとして野球を続ける夢は絶たれた。
野球一筋だった脩平が明るく過ごしていられるのは、明之のおかげだといわれたことがある。明之自身、とくになにかをした記憶はない。それでも自分が脩平の役に立てたのなら嬉しかった。
「はじめようぜー」
ダイニングテーブルに材料を並べ、腕まくりをした脩平がスマートフォンを片手に明之を呼んだ。
「よし。とりあえずは米かな」
「俺やるよ」
いかに料理らしい料理をしない二人にも調理実習の経験くらいはある。
なんとか炊飯器をセットし終えて、次は食材の準備に取りかかった。
「大きさ揃わないな」
「あれっ。鶏肉って皮とるんだっけ?」
「むしろ鶏は皮だろ」
「ん〜調べるからちょっと待って……あ、フライパンで焼けばいいんだってよ!」
「なんて高度なワザを……」
不格好な野菜と大きめの肉。換気扇を回すなんて考えもつかなかったせいで、キッチンには湯気とカレーの香りが充満していた。
野菜を煮込む途中で休憩がてら二人でゲームをしていたとき、鍋が噴きこぼれて慌てたのも明之には楽しかった。
ここ最近忘れていた友人としての時間。
恋人としての甘いひとときも、こうしてくだらないことで笑い合う時間も、すべてが脩平と一緒だからこそ楽しかった。
なんとか形になったカレーを皿に盛り、テーブルに向かい合わせで座る。
「「いただきます」」
揃った言葉は何だか気恥ずかしい。明之は赤くなった顔を見られないように、黙々とスプーンを動かす。実際、出来は上々だった。野菜もあらかた煮えているし、きちんとカレーの味がするだけで明之は満足だ。
しかし脩平の方は納得いかないところがあったのか、
「もとが固まってる」
ルーを掬ったスプーンをじっと見つめながらいった。
「もと」
おそらくカレールーのことを指しているのだろうが、その言い方に明之は笑ってしまった。
「谷田ってけっこう完璧主義だよなぁ。俺は二人で作ったにしてはウマいと思うけど」
「まぁ美味いのは美味いんだけどさ……俺はこれで満足だけど……」
「じゃあいいじゃん。おかわりしていい?」
「しゃもじ水に浸かってるから洗えよ」
「うす」
いそいそと2杯目を注いできた明之に、脩平はまだ何かをいいたそうな顔だ。
「どうした?」
「俺、料理勉強するわ」
「はぁ?」
あやうくスプーンが落ちかけた。
「急だなぁ。別に俺ら男だしそこまで気にしなくても、」
いいじゃん、言いかけて明之は口を噤んだ。なんとなく、脩平の言おうとしていることがわかったからだ。
脩平も明之が気づいたことに気づいたのか、黙ってカレーを口に運んだ。
言葉が出てこない。
嬉しくて嬉しくて、心は叫び出しそうなほど舞い上がっているのに。
脩平が自分との将来の可能性を考えていること。それがはっきりしただけでも、今日ここに来た意味があった。
先のことはまだわからない。でも脩平は『先のこと』があると思ってくれている。真剣に明之と向き合おうとしてくれている。
自分たちには言葉が足りないのかもしれない。まだ高校生だ。気持ちを確認したときだって冷静に話し合うことができなかった。お互いを誤解したまま一度関係が壊れかけたあの恐怖を、明之は忘れることなどできない。
無言のまま2杯目を食べ終わった明之に、立ち上がった脩平が言った。
「皿、そのままにしといて。風呂湧かすから先入れよ」
「片付け俺もやる」
脩平の口数が少なくなる。明之も明之で、これからのことを考えると気軽には口を開けなくなっていた。
片付けも終わり、脩平によって風呂の湯が張られている間、明之はカバンから着替えとあるモノを準備した。それらを持ってきていた小さなバッグに移し替える。しばらくすると、風呂場から明之の名前を呼ぶ声がした。
風呂場では脩平が待っていた。服を着ている。もちろん、明之のために準備をしていただけだ。相変わらず明之と一緒に風呂に入る気はないようだった。
「タオルはコレ。髪は青いボトル、身体は石けんで洗って。姉ちゃんたちのヤツ使うとコロされるから、俺が」
「はは。気をつける」
脩平には4人の姉がいる。脱衣所の化粧棚には、明之には違いのまったくわからない夥しい数のボトルが整然と並んでいた。
「それにしてもすげー荷物だな。さっき言ったけど、うちにあるモン使ってくれていいからな?」
明之が隠すように持っていたバッグを指差して脩平がいう。
「あ、うん。携帯とかいろいろ入ってんの」
「ゆっくり入っていいけど、のぼせんなよ」
「おう。あ……っと、谷田は、ずっと部屋にいる?」
「いる。お前が家にいるのに出かけたりしねぇよ。ひとりにしたら危ないし」
「そっか。ちょっと確かめたかっただけだから。じゃあ、お先にいただきます」
「どうぞー」
脩平の様子はいつもと変わらないように見える。恋人が風呂に入るというのに、どこか素っ気ないそぶりさえある。
明之はといえば、さっきから心臓が胸を突き破るのではないかと思うほど緊張していた。
脩平の態度に不安もあった。
お泊まりだなんて……浮かれているのは自分だけなんじゃないだろうか。
思い返してみても、今日の脩平はときどき見せるような甘い顔を見せていない。唯一恋人のような雰囲気を出したのは、夕飯中の『同棲』を匂わせたときだけだ。
努めてそんな態度をとっているのだろうか。泊まりにこいと誘っておいて、特に深い意味はなかったということも充分あり得る。
目の奥がキンと痛む。床暖房で足元は温かいのに、手足の指先はこれ以上ないほど冷えていた。
早く温まりたくて、真っ白な中折れのドアを開けた。
身体を洗って、白濁とした湯の張られた浴槽に身を沈める。
谷田家の風呂は広い。所々改築したばかりだと話していたから、風呂もリフォームした後なのだろう。冷えた足先を伸ばしても悠々と肩まで浸かれる。
緊張にガチガチだった身体は少しずつほぐれていく。同時に、喉元まで出かかっていたカレーも胃の奥に落ち着いた。それだけでも安心した。調子に乗って食べ過ぎたカレーで腹が痛くなっては脩平にも申し訳ない。
「大丈夫……大丈夫だって」
心の準備はした。身体の準備も、ひとりでできるだけのことはやった。
脩平は自分を好きでいてくれている。呆れられるかもしれないけれど、嫌がられることはないはずだ。たぶん。
充分に温まった身体で湯船から出て、そっと脱衣所の扉を開けた。化粧棚に置いておいたバッグからスマートフォンと例のモノを取り出す。
「……」
出てきたときと同じように静かに浴室へ戻る。
必要なものを目の前にずらりと並べて、床に膝をついた。
「……よし。やるか」
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