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プライベート泡姫4 〜この関係、延長しますか?〜A
 ――――明之は走っていた。
 羞恥と恐怖が頭の中をぐるぐるまわっていた。喉の奥からなにか大きな塊がせり出しそうになるのを気力だけで堪えて、ただ前だけを見て走っていた。
「津村! 待てって!」
 すぐ後ろで脩平の叫ぶ声がする。
 それでも、足を止めるわけにはいかない。止めてしまったら、脩平と過ごした時間が全部おわってしまう。温かくて楽しい、友達の時間が。
 明之は振り返りもせず、吸い付くように重たい地面を懸命に蹴った。
「津村……!」
 脩平の足ならすぐ明之に追いつけるはずだ。それでもまだ捕まっていないのは、明之が必死に逃げているのと、教室から続々と出てくる生徒たちが脩平の足を止めているからだ。
 脩平は部活以外で声を荒げることなどない。その彼が校舎中に響き渡るような大声を張り上げるのに、道行く生徒たちは皆一様に振り返り、その原因であろう『ツムラ』を探した。
 廊下のあちこちから飛んできて突き刺さる視線。それを振り切って明之は階段を駆け上がった。
 酷使した肺が痛みを訴え、固い廊下を走り続けた足首が悲鳴を上げても立ち止まらない。いまはただ、脩平から逃れたかった。
 明之たちのクラスがある校舎には4階に資料室と視聴覚室、空き教室がある。反対側の廊下から一階へ降りる非常階段もある。姿を見られないようにすれば充分隠れられるだろう。
 明之は視聴覚室へ駆け込んだ。幸い鍵はかかっていなかった。並んだパソコンデスクのひとつに身を隠した。他の教室よりは物が少なくて、隠れられる場所も多くはない。すぐに見つかりそうなところへは隠れまいと、そう脩平が思ってくれることを願って息を殺した。
 激しい運動と見つかるかもしれない恐怖とで膝が震える。
 嫌われた――――絶対に、嫌われた。
 ひくひくと痙攣を繰り返す瞼に、じんわり涙が滲んだ。
 自業自得だと思う。脩平の気持ちを考えれば、明之のことなど友達とも思えなくなるはずだ。
「どこいった……?」
 やっと同じ階まで追いついた脩平のこちらを探す声が聞こえる。心臓が口から飛び出そうだ。明之は激しく脈打つ胸を押さえ、肩で息を吐いた。
 扉の向こうから上履きの擦れる音がする。その足音は重たげで、ときおり立ち止まっては、また歩き出す。
 やがて明之のいる教室の前で、脩平の足は完全に止まった。
「……?」
 厚い磨りガラスの一枚向こうに脩平の影が映る。明之がそこに隠れていることに気づいたようだ。が、扉は一向に開く気配がない。
「…………津村」
「っ!」
 明之は息を呑んだ。脩平の声は掠れ、こみ上げる激情をなんとか制御しているように思える。
 呼びかけに答えられない明之に、脩平は続けた。
「俺、お前に話がある。店が終わる頃に行くから」
「……」
「津村が聞いてくれるまで諦めない。だから……逃げないでくれよ」
 明之は一瞬、扉を開こうかとも思った。扉に飛びついて、『谷田』と叫びそうになった。叫びそうになって、やめた。
 さっき脩平の口から聞かされた言葉が耳元に蘇って、明之の足を止めていた。
『なんで俺が、好きなヤツの恋愛を応援しなくちゃなんないわけ?』
 いつになく真剣な口ぶりで。いつになく不機嫌な声で。
「つッ……」
 心臓がキリ、と悲鳴を上げた。一瞬息ができなくなって、肩を大きく喘がせた。
 怖い。脩平の言葉を聞くのが怖い。
「俺、絶対に諦めないからな」
 もう一度、呟くように念を押した脩平が扉の前から去っていく。影がぼんやり滲んで、足音と一緒に遠ざかっていった。
 ――――どうしてこんなことになったんだろう。
 こんなはずじゃなかった。
 ただ真依子の気持ちを断って、ただ脩平といつもどおりの時間を過ごしたかっただけだ。それなのに、運命はどうしてこんなにも残酷なのだろう。
「なんで……」
 頬を伝う涙を指の背で拭いながら、明之はその場に膝をついた。
 思い出したくないと思えば思うほど、あの光景が蘇る。
 ついさっき、真依子に正直な気持ちを伝えたあの場面。
 全然気づかなかった。まさかあの一瞬を、脩平に見られていたなんて。
 そして、まさか脩平が――――。
「なんで真依子ちゃんなんだよ……なんで、谷田の好きな子が……真依子ちゃんなんだ……」
 厚いカーテンの向こう、窓の外から部活生のかけ声が聞こえる。
 脩平はそのままグラウンドに向かったのだろうか。
 校舎裏から4階の教室までずいぶん走らせてしまった。
「膝……大丈夫だったかな」
 のろのろと立ち上がり、人気の無い廊下へ出た。やはり脩平の姿は見えない。
 静かに廊下を降りれば、もう『ツムラ』に関心を持っている生徒はいなかった。
 校庭に出て、脩平に見つからないよう辺りを見回しながら帰路につく。
 さっき。つい20分ほど前、明之と脩平の運命は大きく変わったのだ。
 脩平のことを思い浮かべながら自慰をしてしまったあの日から、明之は脩平とまともに顔を合わせることができなくなった。
 翌朝、登校中も、教室に着いてからも、脩平に会ったらふつうの顔をして話せると思っていた。だがその自信は、本物の脩平が目の前に現れた瞬間、あっさりと砕け散った。
「よ、津村。寝不足? 目ぇ赤いけど」
 廊下ですれ違ったとき、す、と自然に目尻へ伸びてきた脩平の指。冷たい指の腹が肌に触れる直前に。
 明之のうなじが一気に熱をもって、背筋を電流が走り抜けた。
「っ!」
 気がついたときには、その手を避けるように身体を引いていた。
「どうした?」
 行き場をなくした指を空中にとどめたまま、脩平の黒々とした瞳の奥が鈍く、鋭く光った。
 その目は明之のどんな変化も見逃すまいと、頭の先から爪先までを一瞬で観察しているように感じられた。
 明之はとっさに瞼を手で覆った。昨夜は深く眠っていたはずが、朝方になって枕が濡れていたのを思い出した。どんな夢を見ていたのかはわからないが、どうやら泣いていたらしい。瞼がかすかに熱をもっていた。
「あー。昨日感動モノの動画みちゃって。反則だよな、動物系はさー」
 引き攣って強張ったままの表情筋をほぐす仕草は、脩平の突き刺さるような視線から顔を隠すためでもある。
「へぇ。犬? 猫?」
「えっと、犬。仔犬」
 見てもいない動画のストーリーを考えながら、明之は歩き出した。脩平は納得いったのか、それ以上なにも訊いてこない。今度どの動画か教えて、と笑っただけだった。
 トイレにいこうとしていた脩平と別れて、明之は教室に戻った。心臓はまだバクバクと早鐘を打っていた。
 その後も、顔を合わせるたびに明之は寿命が縮む思いをしなくてはならなかった。
 いままで気がつかなかったのだが、脩平はなにかと明之に触れることが多い。声をかけるときも肩に手が触れるし、明之がなにかにぶつかりそうになると、ふいに腰を引き寄せたりする。そのたびに明之はひとり焦って、身体を硬直させた。
 なにしろ……気持ちがいい。触れる手が、気遣う声が。ただ心地よいだけではなくて、腹の底に力を入れていなければ腰から下の力が抜け、その場に膝をつきたくなるほど。
 もともと刺激に弱い明之の身体が、一度脩平の接触を「キモチイイ」と認識してしまったからか、単純に触れられるだけで意識が快感に直結するようになってしまったようだった。
 友達に戻ろうとしていたはずなのに、否定すればするほどドツボにはまっていく感覚。
 明之は真剣に頭を悩ませていた。
 そのなかで最も問題だったのは、やはり風呂の時間だ。
 明之の疚しい気持ちなどなにも知らない脩平は、いまでもいつもどおりの時間に銭湯へやってきて、いつもどおり明之と一緒に浴場へ入る。もう習慣になってしまったふたりでの入浴を拒否するのも不自然だ。明之はできるだけ脩平の裸が視界に入らないようにしながら、以前よりも早く風呂から上がることにしていた。脩平はなにもいわなかったが、その目はときどき暗く陰るときがあった。
 やはり不自然なのか。でも、いま以上に脩平に触れたら、またあの感覚を思い出してしまいそうで怖かった。
 そんな胃の痛むような毎日を繰り返しながら、気づけばもう2週間が経っている。
 もともと細めの明之の頬はさらに薄くなり、紺谷やあの甲斐までもが心配し始めていた。
「……なぁ、明之。谷田となんかあった?」
「は、えっ!? や、なん、なんで」
 突然の紺谷からの質問に、明之の声が震える。友人思いの紺谷は明之のあからさまな動揺ぶりに眉をき、椅子を引いて明之の隣に腰掛けた。
 そして耳を近づけ、そっと囁く。
「振り返るなよ? いま、廊下からすげー谷田が見てる」
「はぁ!?」
 確かめようと顔を上げた明之の襟を、紺谷の指が引いた。
「しっ。すげー睨んでんだって。怖いんだけど」
「え、えええ……」
 いままで一度だって機嫌の悪い脩平を見たことなどない。最初こそ無愛想で怖い印象だったが、話してみると気さくで、友人が多いのも頷けるほど穏やかな人間だ。
 それが、いま紺谷に見えている脩平は、誰が見てもわかるほどの不機嫌さなのだという。
 恐ろしいような、そんな脩平の顔も見てみたいような。明之の心境は複雑だった。
「明之、明之」
 低く声を落とした紺谷に顔を寄せる。さらにその首を紺谷に引き寄せられ、
「う、わっ」
「田中とは、あれからどうなったんだよ」
「は!? あ、ああ。別になにも……って、近いキモい!」
 首筋にかかる紺谷の吐息に背筋が凍る。別に紺谷が気持ち悪いわけではないのだが、あまりの近さに明之はのけぞった。頬を押された紺谷は「いてっ」と小さく抗議の声を上げる。しかし明之の首を掴んだ手は離さない。むしろさらにぐいぐいと引き寄せてくる。
「いいからこっちこいって。クラスの連中に聞こえてもいいのか?」
「えっ」
「な? ほら、どうなったんだ田中とは。もう告られた?」
「うーん……いや、そういうのは、ないけど」
 きわめてそれに近い態度はとられている、と確信はもてないまま白状すると、紺谷はなぜかニヤニヤ笑いながら廊下と明之の顔を交互に眺めた。
「なるほどなぁ。で、どうする? 前から彼女欲しがってただろ。付き合うのか?」
「それはない」
 するりと口を出た否定の言葉に紺谷よりも明之自身が驚いた。たしかに恋愛対象として考えられないと確認したばかりだが、その気持ちはここ数日でさらに強くなっていたようだ。
 紺谷も驚いた様子で、
「やけにサッパリ言い切ったな」
「ん……ん〜」
 正直、真依子のことが頭から抜け落ちていたというのもある。最近は脩平のことで胸も頭もいっぱいで、本当なら真っ先に考えなくてはならない真依子への向き合い方も後回しにしていたふしがあった。
 それに本来別々の話である脩平と真依子の件が、なぜか明之のなかでは一緒くたになってしまっていて、どちらかを考えればどちらかが浮かんでくる、という不思議な構図になっていた。
「明之。これでも俺はお前と長く付き合ってるからさ、お前がいろんなこと悩んでるのわかってるつもりだよ。どんなときもお前が誰かのためを思って悩んでんのをさ」
「……」
「でも、もういいんじゃないか。そろそろ素直になれよ」
「素直に、って」
「明之はさぁ、鈍いんだよ。人の気持ちじゃなくて、自分の気持ちに。その結果がさ、相手を傷つけることもあると思うよ」
 ――そう、なのか?
 明之はまだ確信がもてないでいる。自分の気持ちは、果たして世間に認められるものなのだろうか。
 ひとりの女の子を傷つけてもいいほど、その理由としてふさわしいものなのだろうか。
「大丈夫。田中はいいヤツだし、お前もいいヤツだから。きっと伝わるって」
 肩を優しく叩かれ、明之は泣きそうになった。紺谷の優しさが、ひとり悩んでボロボロになっていた心に染みた。
「紺谷さ、なんか俺の悩み全部わかってそうだよな」
「そりゃ、俺も同じだから」
「同じ?」
「まぁいろいろ。ほら、わかったらさっそくいってこい」
 ポン、と背中を押す手に勇気をもらって、明之は心を決めた。友人たちと談笑している真依子の姿を確認して拳を握る。
「おう。ありがとこんた、」
「こ〜ん〜た〜にぃ〜!?」
 次の瞬間、地を這うような怒声が教室を覆った。何事かと明之たちが振り向いた先には、
「げっ、夕斗先輩!」
 小柄な、可愛らしい男子生徒がひとり、般若のような形相で扉の前に立っていた。紺谷は彼の姿を発見して飛び上がらんばかりに驚いて席を立ち、明之から離れる。
「こ、紺谷?」
「わり、明之! 結果わかったら知らせて。頑張れよ!」
 いうが早いか、仁王立ちの『ユウト先輩』の腕を引っ掴み、紺谷は教室を去っていった。残された明之は浮きかけた腰も所在なく、しばらく立ちつくす。
 それでもなんとなく、胸の奥にすとんと落ちてくるものがあって、
「ああ……そっか」
 紺谷がなにを伝えたかったのか、少しだけわかった気がした。そしてあらためて、胸のなかで紺谷に感謝した。




 教室の外にいたはずの脩平はもういなくなっていた。紺谷は当分戻ってはこないだろう。あの様子では諸々の誤解を解くのは難しそうだ。
「よし」
 大切な友人にもらった勇気を奮い立たせ、明之は立ち上がった。
 まっすぐ向かった場所は。
「真依子ちゃん。いま、ちょっといい?」




 放課後、真依子と待ち合わせたのは部活棟の裏だった。部活棟を利用する部は屋外スポーツ中心で、着替えが終わればすぐに練習場へ出て行く。そして練習が終わるまではほとんど誰も近づかない。
 もちろん帰宅部の明之にとってはまったく縁のない場所だ。一二度、脩平を迎えにきたことがある程度だった。
 真依子には話があるとだけ伝えておいた。この場所を指定したのは真依子だ。真依子の所属している吹奏楽部は校舎内に部室がある。ここを選んだのは、やはり人気がなくなるからだろう。
「はぁ……緊張してきた……」
 一足早く部活棟にきていた明之は、バクバクと激しく脈打つ胸をさすりながら呟いた。真依子にいうべき言葉は考えた。考えても考えても、やっぱり悲しむ彼女の顔しか想像できず、何度も落ち込んだ。
 落ち込んでも、伝えないという選択肢はもうなかった。
 数え切れないほどのため息が座り込んだ明之の足下に溜まったころ、
「明之くん?」
 真依子の遠慮がちにこちらを呼ぶ声がして、慌てて立ち上がった。
「真依子ちゃん、こっち」
 人の目の届かない場所、棟の裏にいた明之は真依子に手招きをした。真依子は秋風に煽られるスカートを手で押さえながら、小走りに駆けてくる。その頬は赤く染まり、口元はうっすらと微笑んでいた。
「呼び出したりしてごめん」
「大丈夫。今日は部活も自主練だったし、全然平気。それより話って?」
 そわそわと髪をいじる真依子。
 脩平はひとつ大きく深呼吸をして、
「俺、好きな人がいるんだ」
 自覚したばかりの、まだふわふわとした甘酸っぱい気持ちを吐き出した。
「……へ? ぁ、ええっ?」
 目の前の真依子は口を開けたまま明之を見上げている。その目は明之の真意を測りかねているようだ。
 明之はできるだけ丁寧に、できるだけ誠実に気持ちを伝えた。
「ここ最近、真依子ちゃんと一緒にいて楽しかった。女の子と遊ぶってこんな感じなんだなって思ったり、付き合いたいって気持ちがどういうことなのかなって考えたり」
 明之には見えていなかったこと。『友情』と『恋』の境目。
 いままでは、たぶん、目をそらし続けていたこと。
「俺、本当に『好き』ってことがどういう気持ちなのか考えたことなかった。真依子ちゃんは、それに気づくきっかけをくれた」
「あ、うん」
「だから俺、自分の気持ちにだけは正直になろうと思う。俺、好きな人がいる。その人には……きっと、迷惑だから、好きだって一生いえないと思う。でも伝わらなくても、俺はその人が好きなんだって態度で示したい。だから、もう他の子と遊びにいったりとか、その人に誤解されるようなことはできない」
 それがいま、明之が『その人』にできる精一杯のアピールだった。
 伝えられなくても、伝わらなくてもいい。
 ただ自分のなかにだけは、誠実に『好きなんだ』と胸を張れる何かがほしい。
「自分勝手でごめん。でも真依子ちゃんにお礼いいたくて。本当に、ありがとう」
「……」
 明之の言葉のなかに、真依子は真依子なりの答えを探しているらしかった。
 黙ったまま、うつむき、涙を浮かべ、考え、また涙目になり、そして、笑った。
「ふふっ。あはははっ」
「真依子ちゃん」
「明之くんひどーい! そんなこといわれたら悲しむのもビミョーじゃん!」
「あ……あ、えっと、ごめん」
「せめてさぁ告白くらいはさせてよね! いわないままフラれるとか恥ずかしい」
「いたっ」
 半分本気だろう、激しいパンチが明之のみぞおちを打った。
「あーあ。フラれて正解だったな。明之くんがこーんな卑怯モノだなんて思わなかったし!」
「すみません……」
「でもいいんだー。なんか安心した。ただのいい人ってだけじゃなくて、そっちの方が全然いい。リアルな恋する乙女って感じ?」
「ははっ、なんだよソレ」
 傷ついていないはずがない。それでも真依子は笑ってくれた。明之は感謝でいっぱいだった。
「じゃ、私もそろそろ部活いかなくちゃ! いままで付き合ってくれてありがとうね。楽しかった。これは本当に本当だからね」
「うん。俺も、本当に楽しかった。ありがとう」
 どちらからともなく手を伸ばした。真依子の小さな手が明之の指に絡まって、
「でも……ちょっとだけ。一回だけ、お願い」
「え……?」
 引かれた腕をとっさに振り払うことはできなかった。
「っ!」
 勢いよく、真依子の細い身体が抱きついてきた。
「ま、真依子ちゃん」
 引き剥がすわけにもいかず宙をさまよう手。明之の胸に顔を埋めたままの真依子が、明之にしか拾えないほどの小さな声でいった。
「これで友達に戻るから……もう少しだけ」
「……うん」
 抱きしめ返すことはできない。いま自分の気持ちに誠実になろうと誓ったばかりだ。だから、ただ黙って真依子が離れるのを待った。
 遠くから下校途中の生徒たちの声が聞こえていた。あたりに人気は、ない。
 ――――はずだった。
 カサッ。
「!」
 建物の陰、明之たち以外誰もいないはずの部活棟の裏で、枯れ葉を踏む音がした。
 人がいる。慌てて真依子の肩を掴み、剥がす。そしておそるおそる、振り向いた先には。
「…………谷田」
 練習道具だろうか、マネージャーを伴って制服姿のまま両肩にバッグをかけた脩平が、部活棟の裏を覗きにきていた。
「あっ、ごめんなさいっ! 誰かいるのかと思ってっ」
 脩平のとなりで顔を赤くしたマネージャーが頭を下げた。
「こっちこそごめんなさい! やだ、恥ずかしい」
 ようやく明之から離れた真依子が手で顔を扇ぐ。
「明之くん、いこ」
「ぁ、」
「待てよ」
 脩平に見られたショックで言葉もでない明之を制したのは、射貫くような鋭い声だった。明之が動かないのを確認すると、脩平は隣に立ったままのマネージャーに声をかける。
「先戻ってて。練習メニュー印刷してから行く」
「あ、はい」
 一年生なのか、マネージャーは素直に頷くと、野球部の部室へと入っていった。
 脩平は真依子のことなど目に入っていないのか、芝を踏む音も荒々しく明之へと近づく。
「津村。こっちこいよ」
 
 
 

 真依子と別れて、脩平に連れて行かれたのは印刷室だった。校内にはまだ大勢の生徒が残っている。ふだんは廊下で誰からともなく声をかけられる脩平も、今日は近づきがたい気配なのだろう、呼び止められることはない。
 脩平が職員室から借りてきた鍵を刺し、促されて埃っぽい静かな室内に足を踏み入れた。その間、脩平も明之も黙ったままだ。
 扉が閉められ、部屋の中にふたりきり。黄ばんだ薄いカーテンが一度だけひらりと踊った。
「さっきは」
 肩にかけた荷物を机の上に下ろし、脩平が口を開いた。
「悪かったな。邪魔して」
 口ぶりは穏やかで、いつもの脩平とあまり変わらない。
「別に邪魔じゃないから」
 鼓動と一緒のリズムでこめかみが疼く。脩平はいつから――いったいどこまで見ていたのだろう。
 コピー機の電源を入れる音。コンピューターを起ち上げる音。脩平の動きは静かだが、広い背中は強張っていた。その変化は、脩平の背中を見慣れた明之にしかわからないほど些細なものだった。
「あのさ……谷田、いつからあそこにいた……?」
 明之がおそるおそる口を開いて、はじめて脩平が振り返る。狭い部屋の中ではそれだけで脩平を近くに感じた。
「お前らが抱き合ってるところからだけど」
「抱き合ってないから! アレには理由があってっ」
「なんの理由だよ」
 笑いもしない、怒りもしない。ただ平板な感情をぶつけてくる脩平に、明之は戸惑った。そもそもなぜここに呼ばれたのかがわからない。あの場で別れることもできたはずだ。
 脩平は明之の言葉を待っている。明之の口から説明されるのを待っている。そう感じた。
「俺、ちょっと前から真依子ちゃんに、その、好かれ……てて? でも俺はあの子と付き合うとかいう気持ちになれなかったから、今日やっとそれを伝えたんだけど……谷田が見たってのは、真依子ちゃんが最後にちょっとだけ、ってそういう感じで……」
「……」
 脩平はなにも言わない。バッグから取り出したフラッシュメモリをコンピューターに刺した。
「あの、谷田。聞いてる?」
 端末を操作する脩平の顔を覗き込む。西日に照らされた横顔は険しい。今度ははっきりとその表情に怒りが現れていた。
 印刷指示を終えて、フラッシュメモリを抜いた脩平が机に寄りかかる。作業が終わるのを手持ち無沙汰に待っていた明之は、なにをいわれるのだろうかと身構えた。
 脩平の顔は逆光で暗く、彫りの深い顔に影を落としている。古いコピー機が吐き出す用紙の音が耳にうるさい。
「谷田……?」
「すげぇ腹立つ」
「っ……!」
 ひゅ、と明之の喉が鳴った。見下ろす脩平の威圧感に思わず後ずさる。
「違う。悪い。別に津村に腹が立ってるわけじゃねぇよ」
 明之の恐怖を感じたのか、脩平はふと肩の力を抜いた。
「あー……まいった。ずっと見てたはずなんだけどなぁ」
 短い髪をかき回し、その場にしゃがみ込む。声は低く、遠い。その姿が明之にはあまりにも儚げに映って、無意識に手を伸ばしていた。
 指先が脩平の髪に触れる寸前。脩平が顔を上げた。明之は慌てて手を引いた。
「津村、俺お前とわりと仲良いと思ってた。ここんとこずっと一緒だったし、親友みたいなモンだってさ」
「俺だって思ってる!」
 だから失いたくなかったのだ。少なくとも最初は純粋にそういう気持ちだった。
「うん。サンキューな。だから、すげぇショックだわ」
「ショック?」
 はぁ、と一際大きなため息をつく脩平。深い色の瞳は伏せられて、凜とした背中がかすかに震えている。
「付き合うとか、付き合わないとか。そういう可能性があるかもしれなかったこととか。それを教えてもらえなかったことが、すげぇショック。すげぇ怖い」
「……ごめん」
 相談しようと思ったこともあったんだ、と今更いっても信じてもらえないだろう。
 どのみち、もう脩平を傷つけてしまった。それが明之にとって一番つらい。
「谷田は優しいから……俺に彼女ができそうだってこといったら、応援してくれるだろうって思ったんだよ。俺ずっと彼女ほしいっていってたじゃん。だから、真依子ちゃんの話きいたら『付き合ってみれば』っていわれるかと思って……」
 考えて考えて、やっと真依子の気持ちは受け入れられないと結論づけた。結果としては付き合わないことを選択したけれども、もし明之の気持ちがぐらついたままだったら。
 これがもし自分の立場で、ある日いきなり脩平に『彼女ができたから』といわれたときのことを想像すると、本当に怖い。信頼されていない悲しみや、友達として裏切られたと思っても仕方がないことなのだ。
「俺、好きとかそういうのわかんなかったから。谷田に応援されてたら、もしかしたら付き合ってたかもしれない。やっと谷田と仲良くなれたのに……もう一緒にいられなくなるんじゃないかって思ったら、どうしてもいえなくて」
 だからごめん。谷田の気持ち考えなくて――――。
 謝罪の言葉は、突然立ち上がった脩平に遮られた。
「うわ」
 よろめいた拍子に背後の机に手をついた。がたついた机の脚が悲鳴を上げる。
「なんだよ急にっ……」
「なんだよって……それは俺のセリフだろ」
「え? あ、ちょっと!」
 机についた両手の上から縫い止められ、バランスを崩した明之は膝裏を打った。
「いてっ」
 背中ごと倒れそうになるのを支えたのは脩平だ。その優しい手つきとは裏腹に、息がかかりそうなほど近くにある脩平の顔は、さらなる怒りに歪んでいた。
「ぁっ……」
「俺が応援したら付き合ってたかもって? お前とあの子が?」
「なん、だよ。なにっ」
 痛みを感じるほど強く腕を掴まれて、明之は身を捩る。
「や、だ」
「お前さぁ。鈍いのもいい加減にしろよ」
「なんっ、」
「なんで俺が、好きなヤツの恋愛を応援しなくちゃなんないわけ?」
「…………ぇ」
 なに……? なんだって……?
 脩平の口にした言葉の意味が入ってこない。
 まさか。そんな。そんなことが、あるわけない。
 そうなのか。だから、谷田はこんなに怒って――――。
「谷田の好きな子って……」
「そうだよ」
 無情にも、脩平の肯定する言葉が胸に突き刺さる。
「そんな……じゃあ、俺……」
 全身の血が逆流したように苦しい。目眩と立ちくらみに、こみ上げる吐き気が明之を襲った。
「ごめ、おれ……ごめんっ……!」
「っ! おい、津村ッ!」
 めちゃくちゃに暴れた。思わぬ反撃に緩んだ脩平の手を振り払い、明之は印刷室を飛び出した。
「津村!」
 背後で脩平の叫び声がする。だが、立ち止まることはできない。
 これ以上、脩平に合わせる顔がない。
 まさか、そんな、まさか。
「真依子ちゃんが、谷田の、好きな人……!」
 悲しみと罪悪感で押しつぶされそうな胸を叩きながら、明之はただ脩平のいない場所を目指して走った。
 



 脩平の目を逃れ家に帰り着くまで、明之は何度いま起こったことを思い返して『全部夢だったら』と思ったかしれない。
 それでも現実のまま、家は近づき、笑顔の母親に出迎えられた。
 服を着替え祖母の銭湯に向かう。踏み出す一歩ごとに深いため息が出る。
 問答無用で脩平に縁を切られなかっただけよかったのかもしれない。脩平の立場なら明之の顔を見ることだって苦痛なのだろうから。
 実際、自分ひとりで空回りしていただけ。どう悩もうが、どう動こうが、最終的に脩平を傷つけただけだったのだと明之は思った。
 夕食前にやってくる商店街の人々で賑わう銭湯。年季の入った引き戸を開けると、番台には祖母が座っていた。
「おかえりアキちゃん」
「ただいま……」
「どうしたの浮かない顔して。具合でも悪いの」
 新聞を広げたまま眼鏡越しに優しい目をすがめる祖母のハツエ。すっかり腰の調子も良くなって元気そうな祖母に思わず悩みを打ち明けそうになったが、自分が店に出ている意味を思い出して首を振った。
「いいや、別に。ばあちゃん変わるよ」
 少ない荷物を奥の座敷にしまって、番台の祖母を冗談交じりに追い立てる。
「今日は叔母さんちに泊まりにいくんだろ? 早く支度しないと夕飯に間に合わないよ」
「はいはい。今日は脩平くんは?」
 いまもっとも胸の痛くなる名前にどきりとした。
「あとからくるよ」
 脩平が来るといったら、やはり来るのだろう。どのみち祖母が留守にする今日は店に出ないわけにはいかないし、明之も本心は会いたくないわけではない。気が重いのはたしかだが、逃げ回ったところで事態が好転することはない。
「脩平くんには悪いねぇ」
 エプロンを脱ぎながらハツエは座敷に向かう。
「いつもありがとうって伝えといてね。戸棚に苺大福が入ってるから食べてもらって。ホント、あんな良い子に仲良くしてもらって、アキちゃんは幸せモンだわ」
「うん。ありがと。大福あとでもらう」
 わかってる。脩平が良いヤツなことくらい、明之が一番わかってるといってもいい。
 だからこそ傷つけてしまった自分が許せないのだ。友達としても一緒にいられなくなるのがつらいのだ。
 ハツエを送り出したあと、番台で客を迎えて、番台から客を見送る。変わらない日常を過ごしながらも心は上の空だ。
 そういえば最初に脩平と話したのはここだったな。明之は閉店間際、脩平がやってきた日のことを思い出した。
 自分とは違う世界にいた人気者の谷田脩平。意外にも彼は明之の存在をずっと前から知っていて、明之のことを『優しい』と評価してくれていた。
 もっと早くに話しかけていたら。きっと脩平の好きな相手にも気づけただろうし、相談してくれていただろう。
 もっと早くに話してくれていたら。明之も、こんな行き場のない感情を抱えることはなかっただろう。
 いいや――――それでも、やっぱり。
「アキくん、おつりちょうだい」
 にょっきりと目の前に伸ばされた小さな手に、明之はいま自分がいる場所を思い出した。番台を見上げる少年。いつも親子連れでやってくる近所の小学生だ。
「あ、ごめんなー。はい30円。また明日!」
 少年の頭をぐりぐりと撫でてやると、濡れた頭を揺らして気持ちよさそうに目を細めた。明之に手を振り、さきに外へ出ていた父親のあとを追う。
 その後も続々と客を迎えて、脱衣所の時計がけたたましく10回鐘を鳴らした。もう浴場には人もいない。営業時間は終わった。
 脩平は姿を現さない。番台を降りて暖簾を外しに表へ出た。
「……さみ」
 冷えた夜風が襟元から服の中を撫でて、明之はひとつ身震いした。
 やはり、脩平は自分と話すことなどなかったのだろうか。店に来るという話を聞いていなかったと思われたのか。どちらにしても、もう明日から話すことも、会いに行くこともできない。
「やだなぁ……」
 こんなことならきちんと謝っておくべきだった。許してもらえなくても、脩平の恋を応援するときめたばかりだったのだ。それだけでも伝えればよかった。
 止めどなく湧いてくる後悔と涙を袖で拭って引き戸に手をかけた明之の腕を、大きな手が力強く掴んだ。
 驚いて振り返ると、いつの間に現れたのか、いつものジャージ姿の脩平が立っていた。
 ただ、ジャージ一枚だけだ。上にはなにも羽織っておらず、服越しにも触れた手のひらが冷え切っているのがわかる。
「谷田」
「入っていいか?」
「お、おう。もう誰もいないから」
 まるで初めて言葉を交わしたあのときのように、不思議と胸は高鳴っていた。
 放課後、あれほどひどい別れ方をしたばかりだというのに、脩平の顔を見るだけで明之はどこかホッとしている自分に気づく。
「今日ばあちゃんは」
 扉を後ろ手に閉めて、脩平が奥の座敷に目をやる。
「えっと、叔母さんとこ泊まりにいってる」
「そっか。じゃあここで話してもいいよな」
「あ……大丈夫、だけど」
 やはりなかったことにはできないらしい。明之は肩を落とした。
 まだ湯気で温かい室内に入ったはいいものの、脩平はベンチに座ったまま天井の蛍光灯を眺めている。
 いたたまれなくなった明之が、おそるおそる声をかけた。
「風呂は? 今日は入んない?」
「ああ。今日っていうか……もうここじゃ入れないから」
「そ……う。そうだよな」
 拭ったはずの涙がまたこみ上げてくる。そんなの当たり前だ。嫌いになった明之と一緒に風呂に入ったところで楽しいはずがない。
「俺さぁ」
 脩平の瞳は明之を映さない。湯気を撹拌するファンをぼんやりと追いながら、大切な、なにか柔らかいものを包み込むように、優しく呟いた。
「ここに来ると、すげぇホッとしてたんだよ。津村のばあちゃんはこっちが落ち込んでようがなんだろうが、いつも明るくてさ。今日は学校どうだったーとか、こんな時間まで練習お疲れさまーとか、いろいろ話しかけてくれて」
 その光景は明之の目にもありありと浮かんでくる。ハツエは近所の子供たちに分け隔てなく優しくしていた。昔からそういう人だった。
「そのなかでもよく聞いたのが、ばあちゃんの孫の話。つっても俺は同じクラスになったことなかったし、顔も知らないし、最初はただ『へー』とか聞き流してただけだったけど」
「ごめん」
 祖母の会話に無理して付き合わせてしまっていたのではないかと謝る。
「いいって、ばあちゃんてそんなもんじゃん。でさ、ばあちゃんがいうには、そいつがめちゃくちゃ良い子で、優しくて、どんな人でも一度話したら好きになるっていうんだよ」
「はぁぁっ!? ちょ、ちょっと待って! 恥ずかしい!」
 そんなことをハツエが他人に話していたなんて、にわかには信じがたい。いくら身内の贔屓目にみたところでそこまで褒められる要素などないと思っている。しかもそれを脩平の口から聞くものだから、明之は顔を真っ赤にして否定した。
「そんなヤツいるわけないだろ! ばあちゃんめ!」
「ははは。だよな。俺もそう思ってた」
 それでさ、と続けた脩平の顔が曇った。
「俺、その頃ちょうど膝の調子が悪くなってきてて。少しずつ良い球も投げられなくなって。でも一年のときから投げさせてもらってたし、俺が勝たなきゃって変なプライドだけは一人前だった。そんで、誰にもいえないまま勝手に悩んでイライラしてた」
 最初に見ていた脩平の姿は単なる無愛想だったのではなく、プレッシャーと身体の変化への恐怖を抱えた結果だったのだと明之は気づいた。脩平はあの頃からずっとひとりで戦っていたのだ。
「そのとき、たまたま津村のこと思い出した。ばあちゃんがいってたとおりのヤツなら、ちょっと見てみたいなって思った。ばあちゃんみたいに元気くれるかもって」
「……見てどうだった? がっかりしただろ」
 明之はずば抜けて明るいわけでも、優しく癒やしてくれるような女の子でもない。遠目から見られたって、脩平に喜ばれるようなことはなにもしてやれない。なのに。
「いや。なんかすっげー安心したんだよな。うまくいえないけど、こう、めちゃくちゃ寒い日に風呂に浸かったとき、みたいな」
「え」
 脩平の目はなにかを慈しむように、優しく微笑んでいる。
「津村は誰かと喋ってるだけだったんだけど、一回一回ちゃんと目ぇみて相づち打ってた。それが……なんていうか、羨ましいと思った。今度は俺の話も聞いてもらいたいなって」
「まぁよくわかんないけど、ありがと」
 照れ隠しにいってみた『照れ』の部分はまったく隠せていそうにない。その証拠に脩平は笑いを堪えている。
「でもまぁ、いきなり『おばあさんとこの銭湯に通う者ですが、少しお話しませんか』とはいえないじゃん?」
「はは、ちょー不審者」
「だろ? で、そっから長い長い……」
 長い長い――――そのあとに続く言葉はない。ただ、脩平が明之のことをどれほど買っていてくれたのか、それだけは痛いほど伝わってきた。
 脩平はこんなにも心を開いていてくれたのに、肝心なときになにもできなかった。それどころか、脩平の大切な人を傷つけてしまったのだ。
「あの……谷田、俺お前に謝らなくちゃ、」
「で」
 遮った脩平の声が寂しげで、明之は次の言葉を継げなかった。脩平は明之の言葉など聞こえなかったといわんばかりにそっぽを向いた。
「津村が店に出るようになって、ばあちゃんも心配だったけど、本当はめちゃくちゃ嬉しかった。話しかけるタイミングつくって、仲良くなって。話してみたら、想像してたよりももっと優しかった。こういう関係になってから俺はずっと幸せだった」
 一緒に遊ぶようになっても、明之にはどこか不安があった。
 脩平は無理に付き合ってくれているのではないか。閉店後の手伝いにしても、いまさら止められなくなっているだけなのではないかと。
 そんな不安を脩平は一蹴してくれた。
 脩平には感謝の気持ちしかない。脩平は明之をたしかに『特別』と思っていてくれていたのだ。
「だからっていうか、幸せすぎて忘れてたんだよなぁ。お前が優しいのは俺にだけじゃないってこと」
 紺谷の言葉を思い出す。あのとき明之はなにをいわれているのか理解していなかった。いま思えば紺谷はいつかこうなることを予想していたのだ。
 明之の優しさが真依子の心を動かして、彼女が明之を好きになってくれたのだとしたら、それはきっと正しいけれども、すべての人が幸せになれる道ではなかった。
 少なくとも、脩平にとっては。
「谷田の気持ちはわかった。わかったけど……」
 好きでもない人間に期待をもたせるなというなら気をつける。真依子に近づくなといわれれば、そうする。誰かにひどい人間だと思われたっていい。
「けど……俺、こんなの嫌だ。谷田とこんなんなっちゃって、どうしたらいいのかわかんないけど……どうやって謝ったらいいのか、わかんないけど」
 どうしても、失いたくない。
 一緒にいたい。
「俺たち、これからも『友達』でいられない……?」
 脩平の心のなかで明之がまだ良いヤツとして生きているのなら、もう一度チャンスがほしい。せめて友達として、せめて、卒業までは。
 脩平は答えない。視線を落とし、深いため息をついた。
「正直、自信がない。気持ちが大きすぎて、たぶん忘れるってことはできないと思う」
 苦しそうな声が頭に直接響いて、明之はひどい目眩に襲われた。わかっていたことでも脩平の口からその言葉を聞くのはつらい。
「だ、よな。ごめん、忘れて。谷田の気持ち考えたら俺の顔なんかもう見たくないよな。もうホント……なんでかなぁ……俺……」
 足下に雫が落ちる。明之の頬をつたって流れ落ちた涙だった。
「津村」
 慌てた様子の脩平が立ち上がり、明之の両肩に触れた。
「泣くな。お前は悪くない。諦められない俺が悪いんだから。な?」
 優しく背を撫でられ、いけないと思いながらも明之は漂ってくる脩平の甘い香りに頬を寄せる。固い胸が大きく波打ち、耳元で息を呑む音が響いた。
 抵抗されないのをいいことに、そっと目を閉じた。
「……ごめん谷田」
 もう少しだけ。この瞬間だけ。
 いまなら真依子の気持ちがわかる。離れたあとどれだけ苦しもうと、たった一度だけの思い出がほしい。
 脩平の熱を感じたい。
「谷田……」
 答えの代わりに、背後の手が明之の身体を引き寄せる。
 薄い服の一枚上から脩平の指が背骨をさすって。
 ぞくり。
「ぁっ」
 うなじから全身に走った鳥肌。ぶるり、と肩を震わせた明之を、脩平はさらに深く抱きしめた。長い腕が腰に巻き付き、食い込むほど強く爪を立てられる。
 熱を帯びた肌から男の匂いが立ち上って、濡れた熱い息が耳元にかかった。
 脩平の思わぬ行動に驚いて明之が身を引こうとする。
 ――――このままではバレてしまう。
 脩平に触られると気持ちよくなってしまうことが。感じてしまうことが。
「あ……だ、め」
 膝裏から力が抜けた。
 崩れ落ちるように全身でもたれかかった明之を逞しい腕が受け止める。
 引き上げようとした細い身体は、しかし男の重さだ。重力に負けて結局ふたりは膝をついた。
「津村……」
「ぁ」
 上気した頬を隠すこともできず、潤んだ瞳で脩平を見上げた。
 逆光のなか、尖った喉仏が大きく上下した。
「なんなんだよお前……!」
 吐き捨てるように呟いたあと、脩平は脱力したままの明之を引き剥がす。
 そのまま座り込んだ明之を見下ろし、
「誰にでもホイホイ抱かれてんじゃねーよっ!」
「……?」
 明之はまだ快楽の引かない、熱を孕んだ瞳を細める。
 脩平の行動も言葉も頭に入ってこない。
 ただぶつけられる苛立たしげな声を黙って聞いていた。
「俺のこと、泣くほど嫌なんだろ!? どうしても好きになれねぇんだろ!? どんだけ触ってもお前が嫌がらないからこうやって俺が調子に乗んだよ! 少しは嫌がれよ! 気持ち悪いっていえよ!」
 明之の頭のなかは混乱していたが、ひとつだけはっきりとした違和感があった。
 激昂したまま我を失ってさらにたたみかけようとする脩平を、震える手で袖を掴んで制した。
「谷田、なにいってんの」
「……? だから、俺のことが嫌なら、」
「嫌じゃない。なんで俺が嫌がるんだよ。俺は谷田のこと嫌なんて、気持ち悪いなんて思ったこと一回もない!」
 むしろ、そう思えればどれほど楽だっただろう。せっかく眠っていた明之の敏感な身体を叩き起こしたのは脩平だ。脩平から与えられる快感がなければ自分の気持ちに気づくことなんてなかったはずなのに。
 まるで自分だけが振り回されたような理不尽さに、一度も脩平へ向かったことのない怒りがふつふつと胸の底から湧き起こってきた。
「だいたいっ、ど、どんだけ触ってもってどういうことだよ! いままで谷田が触ってきてたのはワザとだっていうのかよ!」
 疑問と振り回されてきた憤りがない交ぜになって爆発する。震える膝に力を入れて、明之は立ち上がった。
 脩平はといえば初めて声を荒げた明之に気圧されたまま、なにも言えずにいる。
「俺をからかっておもしろがってたわけ!? 俺が気持ち悪がってるのを見て楽しもうとしてたってこと!? そりゃ残念だったな! 抜いたよ……谷田に触られるの想像して抜いてやった! ほら、どっちが気持ち悪いんだよ!」
 痛々しいほどささくれた言葉を吐き出す口はもう明之の制御下にはなかった。
 ぽかんと口を開け黙ったままの脩平が怒りにさらなる拍車をかける。どうせ嫌われているのならば、言いたいことをすべてぶちまけたい。そんな欲求が抑えきれなくなっていた。
「良かったな。俺の八方、美人? なところが気に入らなかったんだもんな! 谷田の好きな真依子ちゃんはもう俺のことなんか好きにならない。俺がっ……俺が、谷田を好きだっていったらすぐに諦めてくれるだろうよ! なんなら、いまからいってきてやろうか? そんでっ、仲良くなって、真依子ちゃんと付き合えばいいじゃん……!」
 乾いた涙の跡をつたって、新しい涙が溢れていく。
 子供のように泣きじゃくりながら、溜め込んでいた脩平への想いを吐露する。
「こんなのひどいだろ……俺だって谷田のこと好きなのに……ずっと一緒にいたいのに……!」
 袖を掴んでいた指がするり、と離れた。
 『脩平が好き』ということ。口に出して初めて、本当に認めることができた気がしていた。
 心なしか軽くなった身体は、いま深い安堵とひどい疲労感を訴えいていた。
 胸にぽっかりと穴が開いたようだ。それはどこかすっきりした感覚にも似ていた。
「……ごめん。もう帰って」
 脩平を責める言葉などもう口にしたくない。これ以上傷つくのも、傷つけるのも耐えられない。
「『友達』も、もういい。どうせ一緒にいたら忘れられない。『友達』になんかなれない」
 脩平は明之をじっと見つめたままだ。動かない脩平の代わりに明之が背を向けた。
 引き戸を開こうとして、ふと内鍵が掛かっていることに気づいた。
「あれ、鍵なんてかけ……っ!?」
 鍵を外そうと指をかけた瞬間、ガシャンと強烈な音の塊が耳を叩いた。振り返るまでもない。すぐ後ろに熱の塊があって、背後から伸びた長い腕が明之の身体を閉じ込めていた。脩平が引き戸に手をついて音を立てたのだ。
「なっ……は、ぁ、えっ?」
 脩平の行動に戸惑っている間にひっくり返され、今度は明之の後頭部が薄い扉を叩く。磨りガラスに打ち付けた頭をいたわるように伸びてきた手にうなじを掴まれて、ぐっと身体を引き寄せられた。
「んぅ!」
 精悍な顔がすぐ目の前に、と思ったときには唇を塞がれている。脩平の頬に鼻まで隙間なくぴったりと覆われ息を吸うこともできない。
「んむ、んっ! んっ! んんっ」
 パニックと酸欠とで脩平の腕を剥がそうと暴れるが、鍛えられた固い腕は微動だにしなかった。
 明之が身を捩るたびにガシャガシャとけたたましい音が脱衣所にこだまする。
 永遠とも思われる時間息を止められ続けて、いよいよ意識が朦朧としてきたころ、やっと熱い唇が離れた。
「っ、はっ! はぁぁぁぁ……!」
 湿った空気を肺一杯に吸い込む。開けた視界の先では、同じように脩平が大きく肩を上下させていた。
 キスをされたという事実よりも、なぜという驚きの方がはるかに大きい。
「なにっ……なにしてんのっ……信じらん、ねっ……!」
「はぁ……は、はは……わり」
「わりぃ、じゃないっ! げほっ、死ぬかとおもった!」
「俺も。死にそう」
 息も絶え絶えの明之と違って脩平は満面の笑みだ。蕩けるような微笑みに明之の心臓が跳ねた。
 これほどまでに嬉しそうな脩平を見たことがない。
「あーヤっバい! すげえ!」
 なにがどうヤバいのか、脩平は顔を覆って天井を仰いでいる。まだ引き戸に押しつけられたままの明之の身体は動くに動けず、目の前で原因不明の歓喜に打ち震える脩平の様子を呆然と眺めるしかなかった。
「あの、谷田?」
 そのうちに落ち着いたのだろう、ふと真剣な表情になったかと思えば、
「あのさ」
 深呼吸をひとつ。そして固まったままの明之の耳へ唇を寄せた。
「とりあえず、さきに謝っといていい?」
 首筋にかかる吐息がくすぐったい。首をすくめ身体を捩りながら明之は答えた。
「なにを謝るってんだよ。からかってたこと? それとも、キ、キスしたこと……?」
「俺は津村をからかってなんかないし、キスしたことは絶対に謝らない」
「だったらなんだよ……っていうかキスは謝ってもいいと思う……」
「謝らない」
「……」
「とにかく。ちょっと黙って聞いててほしい」
「……いいけど」
 これが最後になるかもしれない。
 そう思えばこうして触れている距離も、向き合う時間もひとつひとつが愛しい。
 腕を組み口を噤んだ明之を前にして、脩平は、すう、と目に見えるほど息を吸い込み、
「さっきはひどいこといってごめん。八つ当たりだった。津村が俺以外に優しくするのが嫌だった。それと、約束やぶってごめん。俺の口から『好きな人』のこと伝えるはずだったのに、ちゃんといえなかった。津村を不安にさせて、嫌なこといわせた。つらい思いさせた。あと、まぁコレが一番……謝りたいんだけど……」
 言葉を濁した脩平を明之は上目遣いに睨んだ。
「なに」
 脩平は視線を逸らし、宙を見上げ、床を見つめ、磨りガラスの向こうの浴場を指さした。
「ああ、その……いままで堂々と津村の裸みてました。毎晩オカズにして抜きました。ごめんなさい」
「…………へぁ?」
 耳を疑った明之の口から間の抜けた音が漏れる。
 いまなにをいわれたのか。オカズ? 抜きました? 脩平が自分で?
 開いた口がふさがらない。脩平は男の裸に興奮する人間なのだろうか。もしかして男も女も好き、ってこと?
 ハテナをいっぱい浮かべた明之の瞳に、脩平はがっくりとこれ見よがしに項垂れる。
「って、ここまでいっても津村は察してくんないんだよなぁ……ったく、どんだけ天然なんだか」
 言外に馬鹿にされているのかと思えば、脩平の口ぶりはむしろ楽しんでいるようにも聞こえる。
「オッケー。わかってるよ。ド直球、どストレートな」
 自らに言い聞かせるように何事か呟いた脩平が、明之の腕を掴んだ。
 黒々とした誠実な瞳が戸惑うばかりの揺れる瞳に絡みついて、絡め取る。
 途端に、明之の全身がカッと熱を帯びた。
「や、やだっ!」
 それは本能的なものだったのかもしれない。いまのいままで脩平の想いを察することを完全に拒否していた明之の心が、まっすぐ突きつけられようとしている好意に恐怖を覚えていた。
 掴まれた腕を振りほどき、逃げようとする。
 それを一瞬先に察した脩平が指に力を込めた。
「待てよ。いまさら気づいたって遅い。逃がすかよ」
「やっ……ちょ、だって……俺、勘違いしてたってことだろ……? 本当は真依子ちゃんじゃなくて……」
 恥ずかしくてたまらなかった。自分の気持ちを受け止めてもらえないならと自棄になって脩平を罵ったばかりなのだ。どの面を下げて告白を受ければいいのかわからない。
「俺まだ謝ってないしっ……」
「謝んなくていいから。津村はただ『はい』っていってくれればいい。それだけで充分だから」
「だって、」
「それとも、やっぱり俺のことそういう目で見られない? まだ友達がいい? 友達のままでいたい?」
「それは……」
「俺は津村ともっとキスしたいし、津村にもっと触りたい」
「……俺も」
 こうしているだけで思考が蕩けてしまいそうだ。
 このさき想いが通じたキスをしてしまったら、いったいどうなるのだろう。
 怖い。けれども、それ以上の期待が明之の胸を締め付けている。
「ちゃんと聞いてて。もう聞き逃すのも、聞き間違いもナシな」
「……ん」
 覚悟を決めて目を伏せた。
「俺は津村が好き。ずっと、ずっと好きだった。俺と付き合ってくれる? 俺が津村を独り占めしてもいい?」
 脩平だけのものに。強い気持ちが大波のように胸に押し寄せて溺れてしまう。
 自然と熱く荒くなる息を感じながら、明之は顔を上げた。
「俺もっ……俺も、谷田のこと独り占めしたい」
 誰からも好かれる脩平を自分だけのものにしたい。友達よりももっと深いところで繋がりたい。
「俺は最初からお前のモンだよ」
 白い歯を見せ微笑む脩平に、つられて明之も笑顔になる。
「あー、はは。なんかあっついな! いまごろ汗出てきた!」
 湿度の高い場所でずっと寄り添っていたのだから無理もない。脩平の首筋にはうっすらと汗が光っていた。
「あ、風呂! 風呂入っていけばいいじゃん!」
 慣れない、というよりも初めての甘い緊張感がふたりを挙動不審にしていた。
「ほらまだお湯止めてないし! 背中流そうか!?」
「そうだな! じゃあそうして……ってダメだろ!」
「えっなにが!?」
「いや、さっきいったばっかじゃん! お前のこと好きってバレてんだから風呂入ったらヤバいっての!」
「ヤバい!? なんで!?」
「だからっ! その、裸とか! 俺いま絶対止まんないから!」
「止まんない……? あっ」
「な!? ダメだろココは!」
「ダ、ダメですね! ばあちゃんに怒られる……!」
「いやもう出直すから! 今度する! な!」
「えっ、今度!? 今度っていつ!?」
「近々だよ!」
「近々!?」
「だってもう我慢できねぇし! すげーヤりたいし!」
「ちょ、ちょっとそういうの口に出すってどうよ!?」
「ハッキリいわないと誰かさんが聞こえないフリするからな!」
「なにそれ人聞き悪い!」
 それからしばらく、あのときは聞こえてただろ、いいや聞こえてないを繰り返した。
 そのうちにすっかり体力を消耗したふたりは笑い、抱き合い、キスをする。
 空調の音が響く番台の前。熱に浮かされ熱気につつまれた銭湯で。
「津村。俺以外のヤツの背中流すの禁止」
「わかってるよ、お客さん」
 看板息子がこれからもずっと、ただひとり好きな人をもてなすだろう。
「で……次は汚してもいい場所で、な?」
「…………このムッツリめ!」

end.

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あきゅろす。
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