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プライベート泡姫4 〜この関係、延長しますか?〜@
 ピロン。
 新着メッセージの通知音が、空調の音と熱気につつまれた銭湯の浴場に響いた。番台に置いたスマートフォンからだ。その持ち主である津村明之は、読んでいた野球雑誌を膝に置き、あわててスマートフォンのロックを解除する。
 メッセージの差出人の名は「谷田脩平」。
「やっぱり谷田だ」
 想像していたとおりの名前に、明之の顔がほころんだ。メッセージを開くと、
『すぐそっちに行く』
 そんな、そっけなくも思える一言だけの文章が送られてきていた。相変わらず彼のメッセージには必要なことしか書かれていない。
 脩平に便乗して明之も『了解』とだけ返信した。
 だが一度スマートフォンを置いて、少しだけ悩んだ。
「んー、あんまりかな」
 味気ないやりとりがちょっと寂しい気がする。結局、退屈そうに足をばたつかせている犬のイラストスタンプを追加した。メッセージを見て、慌てて玄関を出る脩平の姿が目に浮かんだ。
 谷田脩平のいう「そっち」とは、いま明之がいる銭湯のことだ。そして谷田脩平は明之の同級生で、この銭湯の常連客でもある。
 いま明之がいる銭湯は、明之の祖母ハツエが経営している。3ヶ月ほど前にハツエが腰を痛めて入院した際、孫の明之がしばらく店番をしていた。そのとき親しくなったのが以前から銭湯に通っていた谷田脩平だ。
 野球部のエースで人気者の脩平と帰宅部の明之。同じ学校、同じ学年ということ以外互いに接点はなかったのだが、ハツエの入院以降、たまたま脩平が明之の手伝いを買って出たのが縁で、いまではしょっちゅうふたりで外出するほどの仲になった。
 そしてハツエが退院してからは明之がアルバイトとして週3日ほど番台に座り、そんな日は脩平も閉店後いっしょに入浴することが最近は当たり前になってきている。脩平は以前のように、閉店後の手伝いもしてくれた。
 今日もあらかたお客が帰ってしまって、あとは脩平が来るのを待っているだけだった明之は、学校で脩平にもらった野球雑誌を読んでいた。脩平から野球の観戦にいかないかと誘われている。野球に詳しくない明之は、それまでに少しでも野球のことを知っておきたかったのだ。
 待っている間に続きを読もうと雑誌を取り上げたとき、スマートフォンがメッセージの着信を告げた。また脩平だろうか。
「ん?」
 画面を見ると、送ってきたのは同じクラスの田中真依子だった。
「どうしたんだ?」
 開いた画面には可愛らしいクマのスタンプで『おつかれ!』と書かれてある。そして、
『急で悪いんだけど、明日の放課後買い物に付き合ってもらってもいい??』
 明之にとって意外なメッセージが送られてきていた。
「……買い物? 俺と?」
 真依子とは1年のときから同じクラスだが、特に親しいわけでもない。最近話をしたのは修学旅行の自由行動先が偶然一緒になったときだ。現地で、偶然だね、と向こうが明之に話しかけてきた。
 連絡先もつい最近交換したばかりだし、それも共通の友人を通してたまたまそういう雰囲気になったからで、今日までとくに真依子からメッセージが送られてきたことはない。
 そんな真依子が突然買い物に付き合えといってきたのには明之も驚いた。が、とくに断る理由も見当たらないし、明日は他に用事もない。
「いいよ、っと」
 なにか明之を誘う理由があるのなら明日話してくれるだろう。軽い気持ちで返信した。
『ありがと〜』
 返事はすぐに返ってきた。既読にしてからスマートフォンを置き、膝の上の雑誌に手を伸ばした瞬間、
「うぃーす」
 年季の入った引き戸が、ガラガラと大きな音をたてて開いた。
 暖簾の向こうから顔を覗かせたのは脩平だった。
「あっ、谷田。いらっしゃい」
「よ。おつかれ」
 いつものジャージ姿にパーカーを一枚羽織って、足下は学校指定のスニーカー。相変わらず私服まで運動部らしさ丸出しなのだが、スラッと伸びた長い脚や小さい頭、なにより高校生ながら男の色気に溢れた凜々しい顔立ちがだらしなさを一気に払拭している。
「さみー。ここめっちゃあったかいな。生き返る」
 脩平は腕を擦りながら戸を閉めた。季節が秋から冬へと近づくにつれ日焼けのあとも薄れて、蛍光灯に照らされた高い鼻先と耳元がほんのり赤い。
「遅れて悪い。まだ客はいるみたいだな」
「あと一組だから。そこ座って待ってて」
 番台から降りて、温蔵庫に温めておいたペットボトルのお茶を脩平に渡す。
 脩平は礼をいってそれを受け取った。冷えた大きな手を熱いボトルで温める。
「あ、それ。俺がやったヤツ」
 番台の上の野球雑誌を見て、脩平が嬉しそうに笑った。
「そうそう。勉強しとこうと思ってさ。ルールとか」
 どうせ観戦するなら一緒に楽しめた方がいいから、と明之が得意顔で答える。
「17年間生きてきて野球のルール知らないってどうよ」
「うっせ。野球とか興味なかったんですー」
「へえ。いまは? ちょっとは興味あんの?」
「そりゃまあ、谷田が一生懸命やってるし……観るのは面白そうかなって」
「ふうん」
 脩平の口元がニヤニヤと緩んでるのを見れば、明之が野球に興味を示しているのを嬉しく思っているのはあきらかだ。
 脩平のために努力しているのを見透かされた気がして、明之は気恥ずかしくなった。
 いままでは素通りしていた野球部のグラウンドも、放課後になるとなんとなく脩平の姿を探してしまう。もしかしたらそれも気づかれているかもしれない。
 今日も脩平のクラスが体育の授業で校庭にいるのを発見して、つい観察してしまった。なにしろ脩平には華がある。他の生徒と並んでも背が高いぶん、どうしても目がいってしまう。
「そうだ俺さ、今日2組が体育で野球してるの見たんだけど。谷田、エラー? してたじゃん」
「げっ。見てたのかよ」
 脩平が顔をしかめた。
「バッチリ見てました。めっちゃ派手に転んでたじゃん。アレは谷田ファンが見たらドン引きだよな」
 ぷぷぷ、と口元を覆ってわざとらしく笑ってやると、脩平の顔が赤くなった。
「いや、アレはさ……授業でピッチャーはさせてくんないし、ほら……いや、言い訳はしないけど……」
「どうせ好きな子に見られてるかもって緊張してたんだろ。校庭でやってるから、どのクラスからも見えるし」
「いや、それは……」
 否定はしているものの、脩平の顔を見る限りどうやらそれは図星らしかった。
「意外とカッコつけだな、谷田クンってば」
「そりゃまあ、いいところは見せたいだろ、そこは」
 ボトルのキャップを握ったまま脩平は目を逸らした。さっきまでは寒さに赤くなっていた耳元が、暖かい場所にいるにもかかわらず、さらに赤みを増していた。
 ピロン。
 そのとき、また通知音が鳴った。真依子との会話がまだ終わっていなかったことを思いだして、明之はスマートフォンを手に取った。
 通知が何件か溜まっていて、最後のメッセージだけが画面に映し出されている。
『寝ちゃったかな?? また明日ね〜オヤスミ!』
 脩平との話に夢中になっていて真依子のことをすっかり忘れていた。真依子は明之からの返事がないことをどう思っただろうか。返事がなかったことで真依子が気を悪くすることはないだろうが、同じクラスの女子のことをないがしろにしていると誤解されるのはちょっと面倒だった。
 いま気づいたと返すべきか、もう寝てたということにするべきか。いくら考えても女の子の扱いに慣れていない明之には、どれが正解かわからない。
 ふと脩平と目が合った。彼は飲みかけのボトルを持ったまま、スマートフォンを握りしめて固まっている明之を不思議そうな目で見ている。
「どうした?」
 脩平ならば女子と話すことも多いだろうし、真依子が不自然に思わない返事のしかたも知っているかもしれない。
 でもなぜだかこのとき、明之は脩平に相談することをためらってしまった。
「なんでもない」
 結局、既読をつけないままカバンにしまった。真依子には明日学校に着いてから謝ればいい。
「そうだ津村、明日一緒に帰らねぇ? 部活が休みでさ。お好み焼き食べにいこうぜ」
 突然、脩平が思い出したようにいった。もちろん行くと答えそうになったところで、ふと真依子との約束を思い出す。
「あー……っと、悪い。明日は用事があるんだった」
「なんだそっか。じゃあまた別の日だな」
 脩平がため息をついた。平日に部活動が休みなのは珍しい。明之との食事を楽しみにしていたのかもしれない。
「えっと、うん。また今度」
 断った明之も胸が痛む。
 本当は明日だって、脩平と食事に行きたい。だが真依子との約束が先に決まってしまったからには断るしかない。残念に思う気持ちを明之は心の奥にぐっと押し込んだ。一緒に行きたいのは山々だと脩平にいったところで、どうにもならないことはわかっていたからだ。
「なんだよ津村。そんな顔すんなって」突然、二の腕に脩平の拳が軽く触れた。
「え?」
「そんなにお好み焼きたべたかったのか?」
 冗談めかして笑われ、自分はそんなに残念そうな顔をしてしまっていたのだろうか、と恥ずかしくなる。
「べ、別にそんなことないっつの!」
「心配しなくてもひとりで行ったりしねぇよ。抜け駆けはナシだろ」
「ぬけがけ……」
 抜け駆け。その言葉をつい最近も聞いた気がする。どこでだっただろうか、と考えて頭に思い浮かんだのは、クラスメイトで友達の甲斐の言葉だった。
『紺谷ばっかりぬけがけすんなよ〜! 俺もデートしたい〜!』
 そうだ。あのときは甲斐が友人の紺谷を遊びにさそったが、恋人とのデートを優先されたのだ。それで甲斐がからかい混じりにいった言葉だった。
 脩平と一緒にいることが多くなってからは、交友関係も自然と変わってきている。まず、それまでいつもつるんでいた紺谷や甲斐と遊ぶことがめっきり減った。
 もうひとつ別の理由もある。
 紺谷には以前から付き合っている恋人がいるし、甲斐も最近好きな人ができたらしく、その人を追いかけるのに夢中になっている。自然と、誰とも恋愛をしていない明之は、彼らの邪魔をしないよう距離を置くようになっていった。
 そうなると脩平といることがさらに多くなって、もともと交友範囲の広くない明之は脩平がそばにいることにすっかり慣れてしまった。だから「友達がいなくて寂しい」という思いが頭から抜け出てしまっていたのだ。
 なぜ急にこんなことを考えてしまったのか。それはきっと明之が、脩平に依存してしまっている自分に気づいたからだ。
 明之にとって大事な友人にはふたりとも好きな人がいて、ふたりにとって明之よりも優先すべきは好きな人だ。それが自然であるべきだし、友人の幸せは明之にとってもなにより喜ばしいことだ。
 そしていま一番の友人である脩平にも好きな人がいる。いまはまだ両思いではないといっていたけれど、明之からみても脩平は格好良くて優しいイイ男だ。遅かれ早かれ、その子と両思いにならないはずがない。
 だから、きっとそのうち……脩平も。
「……」
 明之の頭の中は脩平がいなくなったときの悲しみでいっぱいになった。それはひどく身勝手な感情に違いなかったけれども、ほぼ間違いなくやってくるであろう未来への悲しみなのだ。
 いつか脩平に恋人ができたら一緒にいられなくなる。想像するだけで、胸が締めつけられるような思いがした。
 紺谷も甲斐も、そして脩平までもが恋人をつくってしまったら、自分はひとりになってしまうんだろうか。この痛みは、そういう痛みなんだろうか。
 明之はズキズキと疼く胸を擦った。
「…………なぁ谷田」
「ん?」
 飲み終わったボトルのラベルを剥がしていた脩平が振り返る。
「やっぱり人って、友達よりも好きな人と一緒にいるほうを選ぶよな……?」
 思わず口をついて出た明之の質問に、脩平の顔が引きつった。
「なんだよ急に」
「んー……なんか、そう思っただけ」
 湯気ではないなにかに曇った視界を、明之は脩平に見られないよう、そっと拭った。こんなことで悩んでいる自分を脩平が見たら笑うだろう。
 ふと、磨りガラスの向こうに人影が浮かぶ。一組だけ残っていた親子連れが上がろうとしていた。
「あ、お客さん上がる。ちょっと待ってて」
「え? おい、津村」
 なにかを言いたそうに口を開いた脩平に背を向けて、明之は最後の客を見送るために番台に戻った。
 売り上げ台帳を開いて記入をはじめると、ベンチに座ったままの脩平はそれ以上なにもいわなかった。脱衣所にはただ旧式の空調がたてるこもった音と、楽しそうな親子連れの笑い声が響いている。
 さっき感じた痛みは、まだじくじくと胸の奥で脈打っていた。
 きっとこれは幼稚な感情なのだろう。脩平にとってはたいした問題でもなく、いつかお互いに恋人ができて疎遠になっても人当たりのいい脩平のことだ、うまく明之と距離をたもって、ずっと友達でいてくれるかもしれない。
 結局その日、楽しいはずの脩平との入浴は、お互いにどこかぎこちないものとなった。
 



 悶々とした夜を過ごした、その翌日。
 朝、正門を抜ける明之は、肩に柔らかい手の感触を感じて振り返った。
「明之くん、おはよ!」
快活な笑みを浮かべ声をかけてきたのは、クラスメイトの田中真依子だ。サラサラと揺れるショートヘアが彼女の元気さをいっそう際立たせている。
「おはよう」
 制服の布越しに触れる女性らしい手のひらに明之は少し戸惑った。なにせ普段から女子と触れ合う機会があまりない。女性が苦手なわけではないのだが、積極的なスキンシップには慣れていないのだ。
「今日寒いね−。ってか、明之くんマフラー早くない?」
 からかうように笑われ、明之は首に巻いたマフラーを少し緩めた。
「寒がりなんだよね。あとマフラー巻いてるとなんか落ち着かない?」
「あ、それちょっとわかる」
 正門から校舎までは校庭を迂回するように外廊下が続いている。ふたりは並んで歩き出した。 
「昨日はごめんね。ビックリしたでしょ」
 真依子は吹奏楽部の副部長を務めている。3年生の少ない吹奏楽部で、明るく闊達とした性格で同級生や後輩たちから慕われ、男友達も多い。
 そんな彼女だからこそ今度の誘いは予想外の出来事だった。普段から目立たない部類の明之とはあまり接点がない。
「真依子ちゃん、買い物っていってたけど」
「そうそう。ちょっと一緒に見てほしいものがあって」
「なに買いたいの?」
 明之が尋ねると、背の低い真依子は見上げるようにこちらを向いた。
「参考書。明之くん、N大の経営学部受けるでしょ? 私も受けるんだけど、相談にのってほしくて」
「え、真依子ちゃんN大?」
「うん。うちのクラスで受けるの私たちだけじゃないかな」
 だから一緒に、という真依子に、明之は内心首をかしげた。たしかに今のところN大の経営学部を第一志望にしているが、それを真依子に教えたことがあっただろうか。
 もしかしたら紺谷や甲斐から聞いたのかもしれない。彼らとは明之も進路について話すことがある。
 そういえば、脩平とはいろんな話をしているが、進路についての話題は上ったことがない。まだ2年生とはいえ受験の準備をはじめている生徒がほとんどだ。脩平にも希望の進路があるだろうが、将来の話については何も聞いていなかった。
 彼の成績について詳しいことは知らないが、テスト後に貼りだされる順位表にときどき名前が挙がっているのを明之は記憶していた。上位50位までは名前が載ることを考えれば、けっして勉強をおろそかにしている様子ではない。
 それに、なんといっても脩平には野球がある。いますぐプロに、という可能性はおそらくないだろうが、野球の推薦で有名大学に進学することは可能なはずだ。
 じゃあ県外の大学にいくっていう可能性もある、のか……?
「明之くん。じゃ、そういうことだからヨロシクね」
「えっ?」
 いつの間にか靴箱の前まで歩いてきていた。真依子は女子の靴箱の方へ、明之は目の前の靴箱で上履きに履き替えなければならない。
「なにボーッとしてんの。大丈夫?」
「あ、うん、大丈夫。じゃあまた」
「っていっても教室で会うんだけどね!」
 笑顔の真依子にバシッと二の腕を叩かれて明之は苦笑いする。昨夜から、どうもぼんやりしてばかりだった。
 他の女子と合流して人混みに消えていった真依子の背中を見送りながら、上履きに手をかけた。その視界の端に一瞬映り込んだものがある。明之はそれがなんなのか理解する間もなく、無意識に目で追っていた。
「津村、おはよ」
 視線の先にいたのは、明之に向かって手を上げる脩平だ。
「……はよ」
 ちょうど彼のことを考えていた明之は驚いた。まるで明之の脳内から脩平が姿を現したかのようなタイミングだ。
「こんな時間に会うの初めてだな」
 こちらに歩いてくる脩平がいった。そういえば今日は部活が休みだといっていたのを明之も思い出した。この時間に登校してきたということは放課後の練習だけではなく、朝練も休みなのだろう。
「あ。寝ぐせ」
 見下ろす脩平が明之の髪に手を伸ばす。その拍子に、ひんやりとした指が耳に触れた。
「……ッ!」
 とたんに背筋を、ぞくり、とあやうい刺激が走った。
 思わず口から漏れ出そうになった声を必死に誤魔化して、明之は脩平の胸を押し退ける。
「谷田、手ぇ冷たい!」
 微弱な電気がはしったようにジンと痺れた耳の先を指先で擦った。痛いほどに摘まんで、やっと脩平の手の感触が消えた。
 それでも一瞬だけ……ほんの一瞬だけ感じた気持ちの良さが、明之の首筋にたしかな熱をもたらしていた。
 マフラーをしていてよかった。友達に耳を触られて感じてしまったなんて、周囲の人間にバレたら恥ずかしくて死ねる。
「はは。悪い悪い」
 当の本人は悪戯が成功した子供のように笑っている。
「おーい、脩平。行くぞ」
 遠くから呼ぶ声に脩平が振り返った。クラスメイトが呼んでいるらしい。
「またな」
 ポン、と明之の肩を叩いて脩平は階段を上がっていった。広い背中は明之を振り返ることはない。
 いまさらながらに思う。脩平は人気者だ。階段を上がる間にも、何人かの生徒が脩平に話しかけている。それは野球部だったり、女子生徒だったりする。
 そのひとりひとりに脩平は優しく挨拶を返している。彼らは明之と同じ『脩平の友達』だ。彼らと明之の間に、なんら変わるところはない。
 少しずつ小さくなっていく脩平の背中を目で追いながら、明之は足取りも重く二階へ続く階段を上った。




「おまたせ。行こ」
 放課後、明之と真依子は玄関で待ち合わせた。明之としては真依子と一緒にいることをクラスメイトにからかわれやしないかと内心ヒヤヒヤしていたのだが、真依子の方はそんなことは気にしていないようだった。普段から付き合いの広い彼女のことだ、男友達と出かけることに誰も疑問をもたないのかもしれない。
 朝とは逆、つまり外廊下を通って門へと向かう途中、部活棟の裏に何人かの生徒が集まっているのが見えた。みんな制服を着ているが、いくつか見知った顔がある。野球部だ。
 そのなかにひとりだけ、ひょっこりと頭半個分飛び出している生徒がひとり。脩平に間違いなかった。
 野球部の面々は部活が休みという開放感に浸っているのか、ずいぶんと賑やかだ。
 今いる場所から声をかければ気づかないこともないかもしれない。それでも仲間内で楽しくやっている脩平に声をかけるのをためらって、明之は後ろ髪を引かれつつも素通りすることにした。
 そのとき、部員と一緒に雑誌のようなものを覗き込んでいた脩平の顔が、突然ぴたりと真顔になった。そして吸い寄せられるようにゆっくりと、まっすぐ、明之の方へ視線を据えた。
 驚いたのは明之だ。今の今まで明之の存在にも気づいていなかっただろう脩平が、まさかこちらを向くとは思ってもみなかったのだ。
 脩平は明之の存在を認めたあと、朝と同じように軽く手を上げた。明之が挨拶を返すと視線を戻そうとしたが、直後になにかを発見して、す、と視線を止めた。
「ねぇ、いま手上げたのって谷田くん?」
 明之の隣で真依子が遠くを眺めるように手をかざす。その間に脩平は野球部の会話のなかに戻っていた。
「そう。2組の」
 行こう、と真依子を促して先を歩く。
「明之くんって谷田くんと仲いいの?」
「二学期のはじめ頃からね。谷田ってさ、すげー真面目な印象あるじゃん。話すとめっちゃおもしろいよ」
「へぇ。それにしてもよく気づいたね」
「だよな。やっぱ野球やってるし、目もいいんだと思う」
「ふぅん」
 気のない返事をしながらも真依子はチラチラと後ろを振り返っている。
「でも谷田くんって近寄りがたい感じがする」
「見た目だけだって。いや、見た目もいいじゃん。女子にも人気なんだろ?」
「ん〜、まぁ……私は好みじゃないけどね!」
 強い真依子の言葉に、明之は少しだけ驚いて、そしてほんの少しだけむっとした。
 たしかに人の好みはそれぞれだろうが、明之の知る脩平は本当にいいヤツだ。どんな女の子に紹介しても恥ずかしくない。でもそれを真依子にいってもしょうがない。どのみち脩平には好きな子がいるのだから、他の女の子に好かれても困るだろう。
「じゃあ真依子ちゃんの好みってどんなの?」
 ふたりは正門を抜けて、大型のショッピングモールに向かう道に入った。車の通りが多い県道沿いには下校途中の生徒がちらほらと見える。
「えっ私!? え〜っと……う〜ん……優しい、人?」
「うっわ、アバウト!」
「一番大事だよ! それにけっこういそうでいないんだから、本当に優しい人って」
 真依子はむきになって拳を握る。
「そうかなぁ。他には?」
「ん〜……お、お年寄りに優しい人?」
「さっきと一緒じゃん!」
「あ、あれっ? ホントだ」
 首を捻る真依子に明之は笑った。一緒に下校する恋人というのはこういう感じなのかな、と考えた。もちろんこういう想像に真依子を巻き込んでしまうのは申し訳ないとも思いながら。
 大通りをしばらく歩くと大型書店の店舗が入ったショッピングモールが見えてくる。店の中にも同じ学校の生徒が多かった。高校の近くに娯楽施設が少ないため、学校帰りに映画を観たりお茶をして帰るカップルがたくさんいるのだ。目指す書店は3階にある。ふたりはまっすぐ3階に向かった。
 参考書はすぐに見つかった。地元の大学に関する資料や、いわゆる赤本とよばれる本はひとつのコーナーにまとめられ、むしろ見つけない方が難しいくらいだった。これには明之も拍子抜けで、
「思ってたよりすぐ見つかったな」
 思わず呟いてしまった。
「ホント……なんか早く勉強しろっていわれてるみたい」
 真依子も、こうあっさりと目的のものが揃うとは思ってなかったのか、大量に購入した参考書の入った紙袋をため息交じりに眺めている。
「それ貸しなよ。真依子ちゃんバス通だったよね? バス停まで送る」
 荷物を受け取ろうと手を伸ばすが、真依子は紙袋を両腕に抱え込んでしまった。
「ありがとう、大丈夫! そ、それにしてもまだ時間早いね。明之くんは何か用事あるの?」
「用事? いや、ないけど……」
「じゃあちょっとお茶していこうよ。ここに新しくできたパンケーキ屋さん、チェーン店なんだけどすごく美味しいって評判なんだ。ひとりじゃ入りづらいから……ダメ?」
 とくに甘党でもない明之はパンケーキには惹かれなかったが、女子に上目遣いでお願いされると断る勇気がない。ちょうど小腹も空いてきた頃だ。お茶の一杯くらいは付き合おうと決めた。
「いいよ、行こう。じゃあ荷物貸して」
「ありがと」
 荷物を受け取って地下のフードコートまで降りた。こちらも高校生のカップルがひしめき合っている。フロアに充満した甘い匂いとラーメンやカレーなどの食欲をそそる匂いが混ざって、それだけで満腹になった気がした。
 いつもの明之なら今ごろ脩平とお好み焼きを食べているだろう。真依子に「一口食べてみて」とすすめられたパンケーキはたしかに美味しかったが、腹はあまり満たされなかった。




「今日はありがとう。また明日ね」
「うん。気をつけて」
 バスに乗り込んだ真依子が車窓から手を振る。角を曲がるまでこちらを振り返っている真依子の姿が消えてから、明之はため息をついた。
 女子とふたりきりで出かけるのは初めてだが、なぜか無性に疲れていた。世の男性はこんな思いをしながらデートしているのか、と感心までした。
 真依子のことや受験勉強のこと、いろんな話をしているうちにいつの間にか時刻は8時半をまわっている。お互い家族には連絡してあるが、さすがに女の子の真依子をひとりで帰すには遅すぎたかもしれない。
「んっ……んん」
 肩を回すと、ポキ、と音がする。この何時間かでずいぶんと肩が凝っていた。あんなに可愛らしい店に入ったのも初めてだったし、たくさんの女性に囲まれて食事をしたのも初めてで、緊張していたのかもしれない。
 とにかく今は帰って風呂に入りたい。それに、これからやらなくてはならないこともあった。
 明之が家に着いたのは9時過ぎだった。
「ただいま」
「遅かったね。ご飯は?」
 明之の声を聞いた母、美貴がリビングから顔を出した。
「茶漬け食べるわ」
 靴を脱ぎながら答える。バス停から家に帰り着くまでにまた腹が鳴っていた。
「食べたらお茶碗洗っといてね」
「へーい」
 冷蔵庫にしまわれていた残り物のアジフライと具のないお茶漬けで簡単に腹を満たしたあと、シャワーだけを浴びて部屋に戻った。
「あー……疲れたー……」
 ひとりになると、どっと疲れが湧いてくる。たいしたことはしていないから、単なる気疲れだろう。
 こんな日は広い銭湯の浴槽でゆっくり身体を休めたい。そして脩平と―――。
「あ」
 重たい瞼をこじ開け、明之は学校カバンを漁った。スマートフォンの通知ライトが点滅している。開いてみると、やはり脩平からのメッセージが届いていた。明之が銭湯の店番に駆り出されない日は、こうしてたまに、眠るまで他愛もないやりとりをするのだ。
『今日の晩メシ。ありえねぇ』
 そう書かれたメッセージの下に画像がついている。脩平が撮ったらしい写真の中身は、大皿に溢れんばかりの特大お好み焼きだった。どうやら今晩の夕食にお好み焼きを出されたらしい。
「ありえねぇ!」
 これではどのみち今日はお好み焼きを食べる運命だったのだ。明之は笑い転げた。
 ひとしきり笑ったあと、時計を確認した。10時半。脩平はまだ起きてるだろうか。
 お好み焼きの画像への感想と、いま少しだけ話ができるかと訊くメッセージを送る。返事は脩平からの電話だった。
「もしもし?」
『よ、お疲れ。用事済んだのか?』
 脩平もちょうど部屋で休んでいたのか、電話の向こうに人の気配はない。
「用事っつっても、ちょっと買い物行ってただけ」
『買い物?』
「参考書。一緒に選んでくれって頼まれて」
『そっか。今日となりにいた子?』
 訊かれて、そういえば脩平と目が合ったとき真依子と一緒にいたのを思い出した。
「おう。同じクラスの子。なんか俺の希望の大学と同じところ受けるんだって……あ、そうだ。それ訊こうと思って電話したんだ」
『ああ、なに?』
「あの、さ……谷田って進学とか就職とかどうすんの?」
『俺?』
 電話口で不思議そうな声を上げた脩平は、しばらく沈黙した。内心、明之は緊張していた。脩平の答え如何では卒業後に疎遠になる可能性もあるからだ。せっかくできた友人を失いたくない気持ちがあった。
 だから脩平の答えは、明之を大きく安心させたといってもいい。
『俺はふつうにこっちで進学するけど』
「あっ……そ、そっか」
『お前、いつもホント突拍子もないこと思いつくよな。で? 今日はどうしたんだよ』
「いやぁ、たまたま進学の話になったからさ。そういえば谷田は野球やってるし、そういう推薦とかもあるのかなって」
『ああ……俺、高校で野球やめるから』
 さらりと口にした脩平に、明之は驚きのあまりベッドから身体を起こした。
「やめるっ?」
 意外すぎる言葉だった。明之の中にある谷田脩平という男のイメージは、とうてい野球からは切り離せないものだからだ。それに脩平の野球への打ち込みようは傍から見ていても相当なものだった。その脩平があっさりと野球をやめるなど、にわかには信じがたい。
「なんでやめんだよ! 野球やってる谷田、すげーカッコイイじゃん!」
 明之は思わず力説してしまったが、真剣に野球をやっている谷田は本当に格好良かった。練習風景を見たことがあるが、いつも何人かの女子生徒がフェンスの向こうから声援を送っていた。
『そういってくれるのは嬉しいけどさ。でも無理っつーか』
「無理って」
『膝が悪くてさ。ふつうにしてるぶんはいいんだけど、もうあんまり投げられないって言われてんだ』
「そんな……」
 明之の脳裏に昨日の脩平の姿がよみがえった。授業中、大きく飛んでいったボールをジャンプしてキャッチした脩平が、着地と同時にバランスを崩して倒れたのだ。
「じゃあ昨日倒れたヤツは……?」
『いや、アレはふつうにコケただけ。思い出させんなよ、恥ずかしい』
 電話を通して聞こえてくる脩平の声に陰りは感じられない。面と向かって話しづらい内容だけに、明之はよけい辛かった。
『津村、お前いま変なこと聞いて悪いって思ってんだろ』
「……」
 そんなもの、思わない方がおかしい。たとえ半年ほどの付き合いだったとしても、脩平がどれだけ野球に打ち込んでいたのか、明之にも痛いほどわかっているのだ。これからもっと活躍する機会があっただけに、部外者の明之ですら悔しくてたまらない。
『お前が落ち込むことじゃねぇから。ってか、肘じゃなくて膝っていうのがウケるよな。なんでソコなんだよって』
「ウケねぇよ」
『ははっ』
 脩平の声は明るい。その明るさに嘘はないように思えた。
『っつーわけで、俺はとりあえず選手は引退だな。早く後輩育てなきゃなんねぇから部活は行くけど。あ、そうだ』
「ん?」
『だからもうすぐ朝練もなくなるんだよ』
「マジで。じゃあこれからは、」
 一緒に学校行けるじゃん。そういいそうになった口を、明之はすんでの所で制した。 つい昨日思ったばかりなのだ。ここのところ脩平に依存しすぎなのではないかと。
 脩平には野球部の仲間や、他にも仲のいい友人たちが大勢いる。ただでさえ一緒にすごす時間が多い明之に、これ以上付き合わせるわけにはいかない。
「これからは……朝もゆっくりだな」
『そこはマジで最高』
「……で? 将来はどうすんの?」
『進学先? ああ、理学療法士の資格とりたいから、とりあえず大学か専門学校か考えてる』
「理学療法士、ってリハビリとかする……」
『おう。俺も病院とかで膝のこと理学療法士の人に相談したりとかしてたんだけど、すげー格好良かったからさ。津村のばあちゃんのこともあったし』
「うちのばあちゃんが何か関係あんの?」
『ばあちゃん、リハビリが大変だっていってただろ。そういう人の助けにもなりたいし、俺みたいなスポーツやってる人が復帰できるように手助けもしてみたい』
「ふぅん。いろいろ考えてんだな、谷田は」
 将来やりたいこと、その動機。両方がしっかりと見えている脩平は、明之には眩しく思えた。
『それで、津村はどうすんの? さっき大学行きたいっていったよな』
「一応、N大……」
 脩平の立派な夢と比べれば自分の夢がひどく漠然としたものに思えて、明之の答えは尻すぼみになった。
『へぇ……N大か。何学部?』
「経営」
『なんか意外だな。経営でなに勉強すんの?』
「えーと……」
 脩平ほどはっきりした目標ではないにしろ、明之にもやってみたいことがある。経営学部を受験しようと思ったのも、なにも適当に選んだわけではなかった。
 経営学部を選んだ理由はまだ両親にも話したことがない。両親は好きなようにしろといってくれてはいるが、いまの明之には経営学部が一番、将来の選択肢を増やす手助けになると思ったのだ。
「俺さ、まだどうなるかわかんないけど、ばあちゃんの銭湯なくしたくないんだよ。俺の身内には銭湯継ぎたいって人いないし……でもいつになるかわかんないけど、あの店のために何かできないかなって思っててさ」
『銭湯継ぐのか?』
「それができれば一番かなって。もちろん銭湯だけで食ってけるかっていったら不安もあるし、実際大変だと思う。でも、谷田みたいに通い続けてくれてるお客さんがたくさんいるし、その人たちのためにも、あの店なくしたくないなって」
 まだ自分の頭の中でもまとまっていない将来の夢を、ふつうなら笑われるかもしれないと思いながらも一生懸命に伝えた。
 そしてもちろん、明之の知る脩平は人の夢を笑ったりはしないとわかっていた。
『いいじゃん。俺も入る風呂がなくなったら困るし。継ぐにしろ継がないにしろ、津村がそう思ってるってわかれば、ばあちゃんも喜ぶんじゃね』
「……サンキュ」
 むずがゆいような、面映ゆいような。
 自分が経営する銭湯に毎晩脩平がやってくる。そんな未来がチラリと頭に浮かんで、案外それは幸せなことなんじゃないかと明之は思った。
『そうかー。N大かぁ。N大ねぇ……』
「なんだよソレ」
 脩平が電話の向こうでなにやら唸っている。考え込んでいるようで、その声は少し愉しげだ。
『いや、考えてみたらN大にも理学療法士の勉強できる学科があるな、と』
「マジで!」
 それは思ってもみない発言だった。まさか脩平が地元に残るだけでなく、同じ大学に通う可能性があるなんて。明之の胸は高鳴った。
『マジで。一応候補に入れてたんだけど、そうか……いいかもな』
「えっ、え、ホントに?」
 それが本当ならば、こんなに心強いことはない。学部は違えど親しい友人がいるのといないのとでは大違いだ。
「あ、でも、俺に合わせてるとかなら無理すんなよ……?」
『ソレお前がいうか、津村。俺の方が成績上だぜ?』
「うっ……ごもっともです」
 痛いところを突かれて明之は口篭もった。
『でもホント、津村が迷惑じゃなければ考えてみる。N大、公立だから親も喜ぶし。津村とも一緒に勉強できるしな』
 脩平はなにをいっているんだろう。明之が嫌がるはずがなかった。
「迷惑とかあるわけないじゃん……嬉しい」
 素直な気持ちがするりと口から滑り出る。気分は有頂天だ。
『…………は〜』
 ため息交じりの笑い声が電話の向こうから聞こえる。
「え? なに」
『……お前、やばい』
「なんだと、成績のことか! 本気だすから見てろ!」
『はいはい。じゃ、そろそろ寝るわ。また明日な』
「おう。おやすみ」
 うきうきと電話を切って、明之はベッドに勢いよく寝転んだ。
 脩平が同じ大学に通うかもしれない。また4年間一緒にいられるかもしれない。
 自然とにやけてしまう口元を枕で覆う。さっきまで脩平と距離を保たなくてはと思っていた気持ちがすっかり姿を潜めた。
 将来の自分の姿と、すぐそこにある未来と。一気に明るく輝きだした夢に、いてもたってもいられなくなる。
「…………勉強しよ」
 どうせ今夜はしばらく眠れそうにない。
 軽い足取りで机に向かい、明之は参考書に手を伸ばした。





 真依子とふたりで参考書を買いに出かけてから、3日が経った金曜日。いつものように紺谷と甲斐と3人で昼食をとっている席に、真依子がやってきた。手にはきれいにラッピングされたクッキーの袋をもっている。
「明之くん、このあいだはありがと。コレちょっとなんだけど、お礼。みんなで食べ……」
「あっ、クッキーだ! サンキュー!」
 真依子の言葉を遮るようにクッキーの袋を奪った甲斐が、さっそく細いリボンを解きはじめた。
「ちょっと浩介! あんたにやったんじゃないんだけど!」
 取り返そうと伸ばされた真依子の手を甲斐がひらりとかわした。
「え〜? だっていま『みんなに』っていったじゃん」
「いったけど、まずは明之くんに食べてもらおうと思って……!」
「じゃあ一緒じゃん。いただきま――ぁっ」
 いまにも甲斐の口に放り込まれそうになっていたクッキーを、明之はとっさに奪い返した。まだ口に昼食のおにぎりが入ったままだったが、勢いのままクッキーを口に入れる。
 口の中で混ざった米とシーチキンとクッキーが絶妙なマズさのハーモニーを醸し出した。
「ぐふっ……!」
「おい明之、大丈夫かよ?」
 咳き込んだ明之に紺谷がお茶を差し出した。ありがたくそれを受け取って、明之は口の中のものを味わわないよう、一気に全部飲み込んだ。
「明之くん、大丈夫?」
 心配そうに覗き込んでくる真依子に、大丈夫、と手振りで返事をする。
「えー、まずそう……」
 うげ、と舌をだした甲斐のデコを明之は軽く叩いた。スパン、と小気味いい音が鳴って、甲斐が抗議の声を上げる。
「いたっ。なにすんだよー」
「げほっ、んんっ、んっ! お前な、人のモン断りなしに食うな!」
「だって食べていいってー」
「これは俺が! 真依子ちゃんにもらったモンなの!」
 甲斐に悪気がないことはわかっている。悪気がないことが一番問題なのだが、甲斐浩介という男は一事が万事この調子だ。彼の奔放な性格にはもう慣れている。
 甲斐も本気で怒られてはいないとわかっているのか、少しだけしょんぼりと肩をすくめただけだ。
「マイコ、ごめん」
「いいよもう。浩介がそういうヤツだってわかってるし」
 甲斐と中学時代からの付き合いである真依子も、弟を叱る姉のように眉を八の字にして苦笑した。
「よかったら残りも食べて。ちょっと焦げちゃったけど……」
「そんなことないよ。めっちゃ美味しい。ありがとう」
 あらためてもうひとつ口に運びながら明之はいった。クッキーはたしかにほろ苦かったが、歯触りもよく、素人にしては充分よくできている。
 じゃあね、と3人に手を振る真依子に手を振り返して、残りを食べようとラッピングを広げたとき。
「あ、谷田」
「えっ」
 廊下の方を向いていた紺谷が発した言葉に、明之は急いで振り向いた。しかしたくさんの生徒が行き来する昼休みの廊下に、脩平の姿はみえない。
「いないじゃん」
「いや、なんかすぐどっかにいっ……あ」
 突然、紺谷がなにか思いついたように口を開けた。
「なんだよ」
「そうか……あーあ、こりゃマズったな明之」
「なにが」
「いままさに明之に彼女ができない理由がわかった」
「はっ!? ちょっと待てよソレすげぇ重要な話じゃね!?」
「誰にでも優しいってのはときに残酷なもんだよな」
 明之には理解できないなにかを悟った紺谷が、うんうんとひとり頷いている。その隙に甲斐はガードのなくなったクッキーをむさぼっていた。
「コレ苦いじゃんアキ。よくマイコに美味いっていったね」
「……俺はいままさに甲斐がモテない理由がわかった」
「コレはコレで浩介の美徳のひとつだから」
 紺谷もクッキーをつまむ。そして一瞬で顔を顰めた。
「……まぁでも、素人が作ったらこんなもんだよな。美味い方じゃん」
 遠くからこちらをチラチラみている真依子に見えないよう、3人は肩を寄せ合ってクッキーをたいらげる。結局一番多く食べた甲斐は終始渋面をつくったままだった。
「中学のときから料理ヘタだったもんな、マイコ。なんでクッキーなんて作ろうとおもったんだろ」
 ラッピングの紙を手の中でもてあそびながらいう甲斐に、紺谷がまたもやひとり思案顔だ。
「明之、田中のいってた『このあいだ』って?」
「こないだ、同じ学部受けるから参考書一緒に買いにいってくれって頼まれた」
 明之は少し前に、突然真依子から連絡があったことを教えた。
「へー。マイコってN大受けるんだ。意外〜」
「しかも経営だろ、明之が受けるの。たしかに意外だな。田中って前に保育士になりたいっていってなかったっけ」
 初耳とばかりに頷くふたり。明之の頭を疑問符が駆け巡った。
「知らなかったの? じゃあ俺がN大の経営受けるって教えたの、お前らじゃなくて?」
「いんやー、俺いってないよ」
 甲斐が首を振る。
「俺もいってない」
 紺谷も首を傾げた。
「マジで? じゃあ誰に聞いたんだろ」
 他に明之がN大を希望していることをしっているのは、両親と担任の教師くらいだ。脩平にだって昨夜話したばかりである。
「もしかしたら俺たちが話してたのを聞いたのかもな」
「わざわざ? なんのために? どうでもいいじゃんそんなの」
 普段から真依子の動きに注意をしていなかったが、進路の話をしているときに彼女が近くにいたことがあっただろうか。そもそもいつそんな話をしたのかも明之には思い出せなかった。
「マイコも同じトコ受けるつもりだから耳に入ってきたのかもよ。ホラ、みんながガヤガヤ喋ってるとき、話してることはわかんなくても自分に関係ある言葉は聞こえてくるっていうのがあるじゃん。なんだっけ……あ、ほら! カクテルパーティー効果!」
 得意げに小鼻を膨らませる甲斐に、ふたりは顔を見合わせた。
「……甲斐がなんか賢そうなこといってる」
「明日は槍が降るぞ」
「失礼なヤツらだな。あ、そうそう。コレで読んだんだった」
 そういって甲斐が得意げに取り出したのは、一冊の本だった。
「なにコレ。恋愛心理学?」
 黄色い表紙にでかでかと書かれているのは、ハートが散りばめられたピンク色の『恋愛心理学』という文字だ。文庫本のような厚さのなかから、にょきにょきと付箋が飛び出している。甲斐が読みながら貼っていったらしい。
「コレに書いてることをやったら、相手が自分のことを好きになってくれるんだってー。いますっげー売れてる本!」
「うへぇ」
 占いその他、ハウツー本の類いを毛嫌いしている紺谷は、その説明だけで拒否反応をしめした。
「俺パス」
「う〜ん……俺も興味ないかも」
 明之も恋愛に興味がないわけではないが、この手の本はどうも苦手だ。
「まぁまぁ。そういわずに読んでみてよ」
 甲斐は適当なページを開いて机に置いた。
 『男も女もギャップに弱い!? 思わぬ一面にドッキリメロメロ☆』
 男性も女性もギャップに弱いもの。いつもは頼りないあの人が、いつもはガサツなあの子が。ちょっとしたときに見せる強さだったり、実は女の子らしい趣味をもっているとわかったとき。とつぜん恋愛対象になっちゃったりするんです!
 ポップな文字で書いてある箇所が蛍光マーカーで強調されている。これもまた甲斐がやったのだろう。
「ギャップねぇ」
 書かれていることはとくに目新しくもないが、たしかにあらためて考えてみると効果があるような気がしないでもない。
「さっきマイコがクッキー作ってきたのも、ある意味ギャップだよなー」
「でも料理とか作るキャラじゃないってわかってなきゃ意味なくね?」
 3人のなかで真依子が料理下手だと知っているのは甲斐だけだ。とくにギャップを狙っていたとも思えない。
「他には? なに書いてあんの」
「えっとね。コレとか」
 甲斐の指さした先に男子高校生3人の視線が集まる。
 『デートに持ち込むには何か頼み事をするのがいいかも! 買い物に付き合って☆などさりげない理由がGood!』
「……うん。次は?」
 『自然なボディタッチで相手に意識させちゃおう☆』
 『悩みを相談していつのまにか深い仲に☆』
 『下の名前をたくさん呼んでみて! 名前を呼ばれると人は好意をもっちゃいます☆』
「……」
「……」
「どう? すごい役立ちそうじゃない?」
 目をキラキラと輝かせる甲斐とは対照的に、明之と紺谷の表情は曇っている。その両目には恐怖の色さえ浮かんでいた。
「コワッ。えっ、こんなことまで考えてんの……?」
 好きになると相手に近づきたくなる気持ちはわかる。だがそれがすべて打算の上に成立しているのなら、もうなにが『好き』だという感情なのかすら明之にはわからなくなってくる。
「紺谷は? いまの彼女さんとどうやって付き合ったの?」
「俺の場合は……まぁ、ちょっと特殊だから参考にはならないと思う」
「えー。教えてよぉ」
 袖を引っ張る甲斐を引き剥がしながら、紺谷は後ろを振り返った。彼の視線のさきでは真依子が弁当箱を広げて女子トークに花を咲かせている。
「そういえばさ」
「なに?」
「明之って、田中に『明之くん』なんて呼ばれてたか?」
「えっ」「えっ」
 ほぼ同時に明之と甲斐が声を上げた。
「どうだったかな……」
 クラスは一年生のときから一緒だが、喋ったことすら数えられるほどだ。その数回も、なにを喋ったかほとんど記憶にない。
「参考書買いにいこうって、突然いわれたんだろ? それ以外になにかした?」
「結局、参考書はすぐ見つかって……そのあとパンケーキ屋に誘われたけど」
「ふたりきりで?」
「ふたりきりで」
「ふつうほとんど知らない男子とパンケーキ屋にいくか?」
「いや、だってお礼とかなんじゃないの……?」
「ねえねえ。パンケーキ奢りだったの?」
「……ふつうに自分のぶんは払った、けど」
「……怪しいな」
「なにが!」
 顎に指をあてた紺谷が名探偵よろしく視線をキラリと光らせる。隣で甲斐も真似をした。
 ひとり置いていかれたかたちの明之は、ふたりの顔を不安そうに眺める。
「いいたいことがあるならハッキリしろよ!」
「う〜ん……ニオイますねぇ、紺谷クン」
「ニオイますねぇ、甲斐クン」
「なんだよ〜」
「明之」
 小さく、クラスの皆には聞こえない程度の声で紺谷が名前を呼ぶ。耳を寄せた明之に、彼はそっと囁いた。
「田中真依子は、お前が好きだと思う」
「……え?」
 耳に入ってきた言葉を咀嚼できなかった明之が聞き返した。紺谷の薄い唇は悪魔の微笑をたたえている。背筋をゾッと悪寒が走った。
「よし、明之。レッツ修羅場だ」




 紺谷の言葉を明之は信じていなかった。
 だから真依子に『友達のデートについてきてくれといわれた。ひとりでは行きづらいからついてきてほしい』と頼まれたときも、ただの親切心で引き受けたのだし、毎日のように進路の相談を受けるのも、他に相談できる相手がいないからだと思っていた。
 だから予定していたダブルデートで真依子の友達カップルとはぐれたといわれたとき、明之は激しく動揺した。
「いまからでも遅くないよ。探そう」
 人混みであふれかえったテーマパークで、ベンチに座ったままの真依子に促した。真依子は友人たちと連絡をとろうとしたが、すぐに電話を切られてしまったらしい。そのまま途方に暮れて近くにあったベンチに座り込んでしまったのだ。
「ごめんなさい……明日花が私たちふたりで回ってきてって……」
 真依子はしょんぼりと肩を落としていたが、明之は彼女を責める気などなかった。彼女にとっても想定外のことだったのだ。つまり真依子もどうしてこうなったのかわからないということだろう。
「……」
 おそらく……たぶん、おそらく、真依子の友人が明之と真依子をふたりきりにさせようと画策したのだろうが、とにかく困ったことになった。
 ここで『帰ろう』といえば真依子を傷つけることになるし、かといって『じゃあふたりで遊んでいこう』といえば正真正銘デートになる。それでも明之の方からふたりきりになるのを断ることは、女の子にとって失礼なことのような気がしていた。
「せっかくだし遊んでいこうよ」
 努めて明るく真依子に声をかけると、真依子はうっすら涙を浮かべた目で明之を見上げた。
「……いいの?」
「ほら。あっちアイス売ってるよ。買ってくる」
「あ、私もいく!」
 スカートの裾をはらって真依子が小走りでついてくる。
 最初は落ち込んでいた真依子だったが、少しずつ笑顔の増えていく真依子をみていると明之自身も楽しくなって、いつの間にか夢中で遊んでいた。
「はぁ〜つかれた〜!」
 真依子の希望で一通りの絶叫系マシンを制覇したあと、ふたりは近くのカフェへと入った。こちらもすごい人だかりだ。店員のなかには人気キャラクターのコスプレをした人物までいる。
「真依子ちゃん体調は大丈夫?」
「ありがと。ちょー元気!」
 運ばれてきたキャラメルラテに口をつけながら真依子がいった。明之といえば慣れない絶叫マシンに若干疲れ気味だ。
「それにしてもあのふたり、どこにいったんだろ。人が多くてすれ違ってもわかんないな」
 道行く人々のなかに真依子の友人カップルを探してみるが、人と人とが重なってまったく見当たりそうもない。
「ごめんね、明之くん」
「なにが?」
 明之はアイスコーヒーをもつ手を止め、テーブルに置いた。
「無理いってついてきてもらったのに、こんなことになっちゃって」
「いいよ、そんなの。真依子ちゃんのせいじゃないじゃん」
「でも、私が明日花にあんな話したから……」
 あんな話、の内容は真依子の赤く染まった頬を見れば明之にもなんとなく察しはついた。きっと真依子は明之と遊びたいと明日花に相談していたのだろう。
 明之は紺谷の言葉を思い出した。真依子は自分のことが好きなのだと、恋愛に慣れていない明之にもいまはわかる。
 ここから話を広げれば、たぶん真依子は明之のことが好きだというだろう。もしくは明之に気持ちを察してもらおうとするかもしれない。でも、明之はそれを望んでいなかった。
 たしかに彼女はいい子だ。元気で明るくて、付き合ったら楽しいだろうということもこの何時間か接してみてわかった。それになにより自分を好きでいてくれている。
 以前は自分を好きになってくれる人がいるのなら、誰でも付き合いたいと思うのがふつうなのだと思っていた。付き合っていくうちにお互いのことをよく知って、関係を深めていくものだと思っていた。
 だけど、脩平は違った。彼は「知らない人間とは付き合えない」と明之にいったのだ。お互い好きになった相手と付き合うのが自分の理想だと。
 その言葉の意味が、いまの明之にはなんとなくわかる気がする。自分のなかには真依子への気持ちがなくて、それをもたないまま付き合うのは彼女にとっても失礼なのではないかと思い始めていた。
 これから先、真依子を好きになるかはわからない。でもそれを彼女にうまく伝える自信がない。きっとどんな言葉で伝えても、彼女を傷つけてしまう。
 沈黙が続いた。あちこちから子供のはしゃぐ賑やかな声が聞こえる。
 真依子がおもむろに席を立った。その顔には笑顔が浮かんでいたが、瞳の奥にかすかな悲しみが見て取れた。
「ちょっとお手洗い」
「あ……うん」
 手の中で氷がカランと音をたてた。
 なぜだか無性に、脩平の声が聞きたくなった。
 



「ん、あぁぁぁ生き返るー」
 静かな広い浴場で、両手足を思い切り伸ばす。明之はこの時間が一番好きだ。小さい頃から幾度も見てきた湯気の向こう、視界いっぱいが今だけは明之の天下だった。
「最近マジで寒すぎだろ……」
 そして、そこに脩平がいれば、なお良い。
 その脩平は明之の隣で大きな身体を顎まで湯に沈めて小さくなっている。脩平が極度の寒がりだということを明之は最近になって知った。
 普段はいかにも逞しく雄々しい彼は、寒くなると冬眠しはじめた動物のように動きが鈍る。まだ秋の気配を濃く残したこの時期にこの有様なのだから、本格的な冬になったらどんな姿になるのだろう。想像するだけでおかしかった。
「今日の試合すごかった〜。あの返球! テレビで観るのとは全然違ってめっちゃ速いんだな!」
 今日は脩平とふたりで野球を観戦した帰りだ。試合は戸外の肌寒さを忘れさせるほどの熱戦だった。明之にいたっては、球場からの帰りずっと今日の試合をいかに感動したか脩平に熱弁をふるっている。
 つぎつぎと湧いてくる明之の初心者らしい質問に、脩平はイヤな顔ひとつせず、丁寧に答えてくれた。その後、ハツエが店番をしている銭湯に寄り、営業と片付けのあとを引き継いだ。
「また観に行こうな、野球」
 いまだ興奮冷めやらぬ様子でいった明之に、脩平の口元が緩んだ。
「今年はシーズン終わりだから、次は来年だな」
 来年。脩平の口から自然と出た言葉が明之をはっとさせた。
 頭をよぎったのは真依子のことだ。
 あの日、テーマパークを出て別れたあと、駅に向かう明之の背中を真依子が呼び止めた。
『またふたりで……遊んでくれる?』
 人混みのなか消え入りそうな声で訊ねてきた真依子を、明之は突き放すことができなかった。
 あのとき断れていれば。
『……うん。また今度』
 そんな言葉をかけなければ。いまこうして悩むことはなかったかもしれない。
 去り際の真依子の嬉しそうな顔が忘れられない。可愛らしくて、心が温まった。きっと真依子は誰からも愛される女性になるだろう。
 隣でぬくぬくと眠りかけている脩平をそっと見る。短い髪に雫がつたって、筋肉の張った滑らかな肩に落ちて流れた。
 脩平と遊べる日は、あとどれくらい残っているのだろう。今日一日の楽しい時間を思い出せば、チクリと胸の奥が痛んだ。
「なぁ、谷田。友達と恋人の違いってなんだと思う?」
「はぁ?」
「正直に、正直に!」
 目を閉じたままの脩平が首を傾げる。細く目を開けてちらりと明之を見て、何度か言葉を迷ったあと、
「…………ヤりたいかどうか?」
「うわっ最低」
「ちょっ、お前が正直にっていったんだろ! お湯かけんな!」
思わぬ返事に顔を真っ赤にした明之が、脩平の頭をめがけてバシャバシャと湯をかける。
「真剣に訊いてんのに!」
「すみませんでした! わかった、わかったから!」
 脩平は反撃するでもなく笑いながら手で顔をかばっていたが、今度こそ真面目に考えているようだ。しばらくしたあと、やっと顔を上げた。
「そうだな、人によると思うけど。俺の場合は……『幸せになってもらいたいのがダチ、自分が幸せにしたいのが恋人』だな」
「幸せにしたい人……」
「あー目に染みる」
 脩平が顔を擦る。長い指が短い前髪を掻き上げた。
「つっても、ヤりたいってのも本音だろ。ダチにはそんな感情ないし」
「まぁ……それはそうだよなぁ」
 そうはいうものの、明之にはそのあたりの事情が想像しにくい。この年頃の男子ならば視界に入った女子の裸を一度は想像してみるもんだ、というのが甲斐の口癖だが、明之にはそういう感情があまりなかった。
 自分でも年頃のわりには性欲が薄い自覚がある。いままで特に困ったこともなかったし、そういう男子高校生もある程度はいるだろうと思っていた。
「それにしても、谷田でもそういうこと考えるんだな」
 心のどこかで脩平の硬派さを勝手に想像していた明之だったが、頭の中は意外とふつうの男子高校生の性欲にまみれていると思うと複雑な心境になる。
「当たり前だろ。いままでは練習で発散してたのもあるけど」
「その……好きな子とか想像すんの……?」
「おう。普段ガマンさせられてるから。頭ん中でくらいは好きにさせろよ」
「……そんなにか」
 真顔で堂々と宣言されるのがなおさら羞恥をそそる。いっている本人よりもそれを聞いている明之の方が恥ずかしいのが理不尽だ。
 脩平の頭の中を一度覗いてみたい気もしたが、経験のない明之にはかなりハードルが高そうだった。
「谷田がこんなにムッツリだなんて知ったら、その子も大変だなぁ」
 脩平と風呂に入るようになってから直視はしないようにしてきたが、彼のモノは相当な大きさだ。自他共に認めるあの大きなモノで好き放題されたらと思うと、まだ見ぬ彼女の苦労も目に見えるようである。
「たしかに俺も若いし、その点は苦労かけるかもだけど。でも俺は、それ以上に幸せにする自信があるから」
「ひゅー。かっくいいー」
 たとえ冗談でも脩平にいわれるとなんだか説得力がある。
 身体を痛めて好きな野球が続けられなくなっても、脩平は次の未来を見ている。自分の理想をきちんともっていて、夢にも好きな人にも一途だ。
「ホントかっこいいよなぁ……谷田って」
 脩平に聞こえないようポツンと呟く明之は、ふと胸の苦しみを感じて息を喘がせた。優柔不断で、ドロドロとした自分の気持ちという泥濘に溺れてしまいそうだった。
「谷田はさ、その子のことホントに好きなんだな」
「うん。すげぇ好き」
 破顔する脩平。照れたようなまなざしに明之の胸がまた少し痛んだ。
 この痛みが何からくるのか、いまはもうわかる。嫉妬だ。
 どんな形でも脩平の一番にはなれないのだという現実を突きつけられて、ただただ自分勝手に辛くなっているだけだ。
 ――どうかしている。友達の好きな人に嫉妬するなんて。その理由が脩平と一緒にいられなくなるから、だなんて。頭ではわかっていても、心がついていかない。
 それでも、友達として脩平の幸せを祈らなければ。胃の奥から広がるじくじくとした痛みを無視して、口元まで湯に浸かった。
 ふと真依子の顔が浮かんだ。脩平に真依子とのことを相談するかどうか迷って、そして、すぐに思いとどまった。
 脩平はきっと明之と真依子の恋を応援してくれる。確信に近いものがそこにはあった。
 友達には幸せになってほしい。明之も脩平も、お互いがそう思っている。だから脩平は、明之の彼女がほしいという願いをきっと反対したりはしない。明之がそう望むかぎり。
 だからまだ、このままでいたい。
 もう少しこのまま、脩平の近くにいたい。
 友達としては重たい感情なのかもしれない。だからこそ、脩平にはいえない。脩平を困らせたくない。
 くしゃりと歪んでしまいそうな口角を無理やり引き上げて、明之は笑顔をつくった。
「今度どこ遊びにいこっか」
「そうだなぁ。寒くないとこ」
「よし。スキーいこうぜ、日帰りで」
「…………ずっとお前に抱きついてていいなら」
「抱きつかれてたら滑れないじゃん」
「ツッコむトコそこじゃねぇよな」
 


 
 闇のなかで、身体をまさぐる手がある。
 冷たい指先が平らな胸をゆっくりと這う感触に、腰から背中一面がぞわぞわと総毛立って、明之は微睡みから覚醒した。
「ん……っ」
 結んでいた唇から艶めかしい声が漏れる。身体の芯に少しずつ存在感を増していく熱がある。
 やがて無視できないほどはっきりと形を現した淫らな熱。腰のあたりから重く突き上げるように広がっていく覚えのある感覚を振り切るように、明之は固く閉じたままの瞼を気力で押し開いた。
 部屋の中は真っ暗で、それもそのはず、枕元に転がしたスマートフォンの電源を入れると時刻はまだ夜中の2時。
 家の中は静まりかえって、窓の外からも人の声すら聞こえてこない。
 いつもどおり自室で眠っていたのはたしかなのに、冷たい指の感触はねっとりと肌に残ったまま。どんな夢をみていたのか思い出せないが、相当に現実味を帯びた夢だった。
 その証拠に、身体の中心はかすかに頭を持ち上げていて、掛け布団のなかでしっかりと存在を主張していた。
「え……マジで……」
 眠りたい。温まっている身体は夢の続きを欲して意識を沈めていく。それに対抗するように、脳の一部分、ふだんはあまり顔を出さない明之の性感を司る部分がうずうずと顔を覗かせている。
 最初は忘れてしまおうと布団を目深にかぶった。しかし身体の疼きは深く速くなるばかりで明之を離してくれない。
 こうなってしまった理由はわかってる。
 きっと眠る前、脩平の言葉を思い出したから。
『普段ガマンさせられてるから。頭ん中でくらいは好きにさせろよ』
 悪戯に目を細めて低い声でいった言葉が、帰宅して自室に戻った明之の耳から離れなかった。
 それからさきは見たことのない脩平の自分を慰める姿が浮かんできて、そんな想像してはいけないと思えば思うほど、空想は加速するばかりだった。
 一番いけなかったのは、明之自身が脩平の身体を隅々まで知ってしまっていることだ。
 手のひらに触れる褐色の肌の滑らかさも、逞しい太腿も。引き締まった臀部の形も。毎週のように眺め、触れている身体はいまでは明之自身の肌に吸い付くようになじむ。
 皮膚が硬く張ったあの長い指で、女の子の白い肌を優しく撫でるのだろうか。
 まるで他人の性行為を覗き見ているかのような罪悪感を抱いたまま、明之は床についた。それがいまの状況を作り出した原因であるのは間違いない。
「あー、もう!」
 一向におさまりそうもない熱を持て余して、掛け布団を蹴り上げる。ばふっと音を立てて両脚を投げ出し、ベッドヘッドのティッシュ箱に手を伸ばした。
「くそ……」
 悪いと思うことはない。なにも脩平の行為を思い浮かべてするわけではないのだ。
 ただそういう気分になった原因が、脩平とのやりとりを思い出したからというだけ――。
 誰に聞かせるわけでもなく心の中で言い訳をして、明之はスウェットを引き下ろした。
 自然と荒くなる息を抑える。闇に慣れてきた目を閉じて、女の子の身体を思い描こうと集中した。
 きれいな曲線を描く腰に手を回して、桃のように繊細なお尻を抱え込んで。
 顔――顔、は誰でもいい。流行りの可愛らしい女優でも、誰でも。
 こんなとき好きな子がいれば想像できるのに……ため息をつきながら明之は無言で自分のペニスを扱いていく。
「んっ……は……」
 熱く乾いたモノが先端から溢れてくる湿り気をまとう。布団を掴む足の指がひくりと揺れた。
「……」
 性に関しては淡白な明之だが、なにも性感が貧しいわけではない。むしろかなり感じやすいほうだ。その敏感な身体を持て余してしまっているのも、ふだんから自分の身体に触らないようにしている理由だ。
 だからときどき脩平に無理に身体を洗われるときは、全身を襲うこそばゆさと腰に直接響く快感から気を紛らわすだけで精一杯だった。
「ぁ、っ……!」
 いつも、するり、と耳朶の下を指が通り、首筋に沿ってタオル一枚隔てた手が明之の身体を撫で下ろすのだ。
 ぞく。
「んぅ」
 明之は身を捩った。夢で見た、誰かの手から逃れるために。
 手は執拗に明之の腰を追いかけ、前にまわって内腿を軽く引っ掻いた。震える膝頭を押し広げ、皮膚の薄い部分を嬲っていく。想像に合わせて、いつの間にか明之は大きく脚を開いていた。
「ぁっ……だめ……だめっ」
 左手で優しくペニスを慰めながら右の人差し指を噛む。声を殺して腰を揺すれば、空想のなかの手はそれを嘲笑うように脇腹を甘くくすぐる。
 明之は必死だった。
 底冷えするような夜だというのに、こめかみに汗を浮かべ、震える唇を噛みしめていた。
 ぞくぞく、全身を駆け抜ける快感を逃さないよう。優しく、ときに意地の悪い手が与えてくれる感触を逃さないよう。
「ぃ……イ、くっ……!」
 小さく叫ぶ。一瞬頭の中が真っ白になって、手の中の自身がびくびくと跳ねた。
「ぁ……ん、ふ……」
 余韻を楽しみながら白い体液をゆっくりと絞り出す。ひさしぶりに外に出したソレはねっとりと濃く、深い罪の臭いを放っていた。
「…………」
 なんてことを――――。
 明之は愕然として、力なく布団に倒れ込んだ。手のひらの粘ついた液体はもう直視できなかった。
「うそ、だろ」
 恥ずかしさと罪悪感でいっぱいになった頭が火を噴きそうなほど熱い。
 友達に触れられるのを想像して、達してしまった。あの手は、誰のものかはわからなかったけれども、いまではたしかに脩平の日に焼けた大きな手としか思えなくなっていた。
 枕元のティッシュをめちゃくちゃに引き出す。両手を乱暴に拭って、震える指先でスウェットを引き上げた。
 そっと階下へ降りて洗面所で手を洗った。鏡にうつる明之の顔は真っ赤で、心臓の音が廊下に響きそうなほど鼓動が荒ぶっていた。
「なんなんだよ……もー……」
 冷たい水で頬を冷やす。心臓はまだ痛いほど脈打っている。
「……はぁ」
 明之は、ひとつ大きく深呼吸をした。
「大丈夫……大丈夫」
 少しだけ歯車が掛け違っただけだ。たまたま脩平のことを思い出しただけ。
 なにも問題はない。脩平の迷惑になることなんて、なにもない。
 そう自分に言い聞かせ、また布団に戻った。
 温もりをなくした布団のなか、明之は明日からのことを思った。
 やはり真依子に気持ちを伝えよう。その結果が彼女を傷つけることになっても、きちんと向き合わなくてはならない。
 そしてもう一度、脩平と『ちゃんとした友達』になろう。
 脩平に応援していると告げ、彼が幸せになるのを見届けよう。
 そうしないと――。
「いつまでも宙ぶらりんじゃ、ダメだ」
 頭の中はまだ熱に浮かされて冴えている。それでも吐き出してしまった身体は素直に疲れを訴えていて、明之はいつしか深い眠りについていた。


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