アソビの恋〜完結編〜
ガチャン、と古い扉の閉まる金属音。
冷たい部屋にその音が虚しく響いた。
基哉が部屋を逃げるように出て行って、遊穂の心の中に残ったのは罪悪感と虚無感だけ。
酒の勢いじゃない。自分からあんなことをすれば嫌われるとわかっていたのに。
それでも、言えなかった。
本当は基哉さんと笹川優子の間に、もう望みなんてない。そんなことは言えなかった。
傷つく顔を見るのが怖かった。
自分から真実を話すと言っておいて、いざ基哉を目の前にすると、本当のことが言えなくなった。
「馬鹿だ、俺」
どちらにしても基哉に嫌われるということには変わりないのに。
頭を抱えて指に絡めた髪を引っぱる。
この痛みがすべてを忘れさせてくれればいいのに、と遊穂は思った。
確かめたいことがある。
そう言って基哉が優子を呼び出したのは、あれから何日か過ぎた頃だった。
突然会社を辞めた優子のことを考え、呼びだした場所は自分のマンション。
最初は電話も無視されるかと思ったが、先日偶然再会してしまったせいもあるのだろうか、優子は素直に頷いた。
ホッとしたと同時に、これでもう引き返せないという想いが湧く。
何に対して引き返せないのか、基哉にはよくわからなかったが。
「いらっしゃい」
かつては優子が冗談交じりに「ただいま」と言いながらくぐったドアを開ける。
「・・・お邪魔します」
久しぶりに会った優子は、再会した夜よりもさらに少し痩せたようだった。
ちゃんと食べているのか、という言葉をぐっと飲みこむ。
いまはまだ、そんな心配ができるほどの関係には戻っていない。
戻れるかも、わからない。
「入れよ」
優しく促すと、優子はちょっと笑って靴を脱いだ。
変わらないその笑顔に、昔のように胸が高鳴ることはなかった。
深夜、遊穂は喉の渇きを覚えて目を覚ました。
首を巡らせて枕もとのデジタル時計を見ると、2時を少し回ったところ。
(ヤバい。寝過ごした・・・)
軽い後悔と頭痛を目を閉じてやり過ごし、腕を動かそうと力をこめ、動かないことに気づいた。
原因は、腕に乗っている頭だ。
少し短めの髪で、男ものの香水をつけた。
その髪に顔を近づけ、香りを吸い込む。
・・・いい加減、変態じみてる。基哉さんと同じ香水をつけているというだけで、わざわざこの相手を選ぶなんて。
「・・・遊穂、起きたの?」
小さく掠れた声が聞こえた。暗くて顔は見えないが、相手が起きたらしい。彼女は遊穂の遊び癖をよく知る、友人のような関係の女性だった。
「ごめん。起こした」
そっけなく謝ると、隣で肩が動いた。溜息を吐かれたとわかったのはすぐ後だ。
「いいけど・・・いま何時?」
もぞもぞと布団を引き上げ、女が遊穂の方へ寝返りをうつ。
「2時過ぎ」
「うそ。ヤバい、そろそろカレシ帰ってくる」
布団を跳ね上げるように女が起き、遊穂は襲ってきた寒さに目を閉じた。
どうやらさっさと出ていかなければならないらしい。
「じゃあ帰るわ。ごめんね、邪魔して」
今日は、夜の仕事をしている女の恋人が、仕事帰りに彼女の家に寄る日だ。
すぐに帰ってくるからと一度は追い返されたが、遊穂は自分の部屋に一人でいるのが耐えきれず、無理矢理部屋に入った。
シャワーを浴びるためにバタバタとベッドを降りる彼女の背中を見ながら、遊穂は床に散らばっていた自分の服を掴む。
セックスの後の気だるさや痕跡が体のあちこちに沁みついていたが、気にせず服を着た。
胸にバスタオルを巻き、バスルームへ向かう女に声をかける。
「ホントごめん」
無理に押しかけてしまったことと、すぐに帰らずに寝入ってしまったこと、両方についての謝罪のつもりだった。
しかし女はそうとは受け取らず、気を悪くしたようだ。
「・・・それはあたしと寝て後悔してるってこと?失礼にもほどがあるけど」
「・・・いや、そういう意味じゃなくて」
女のいつになく強い口調に、遊穂は言い淀む。
「遊穂。あんたとは今までいっぱい寝たけど、今日みたいなのは初めてだった」
「今日みたいって?」
「誰かの代わりに抱かれるってこと」
「・・・」
図星だ。恥ずかしくて消えてしまいたかった。
アソビはアソビなりに、ケジメをつけようとしていたのはドコのどいつだ。
「落ち込むくらいなら最初からしないで。しかもケータイ繋がらないし」
「あ〜・・・それは、壊して。メモリぶっ飛んだから」
怒りや焦りに任せて子供のように物に当たってしまったことは言えなかった。
「・・・まぁいいけど。とにかく、しっかりしてよね。遊穂らしくない」
そう言うと、女はバスルームに消えた。
一人残された遊穂は、彼女の恋人が帰る前にさっさと部屋を出て行く。
途中でタクシーを拾い、とりあえず自分のマンションに向かった。
本当はあの家には帰りたくない。
招き入れて数分で帰ってしまった基哉のことを思い出してしまう。自分が彼を力ずくで抱こうとしたことや、醜い交換条件も。
何もかもうまくいかない。
基哉に出会ってから遊穂のすべてが少しずつ狂い始めていた。
これが甘い恋の駆け引きなら、楽しんでいられたのだろうか。だが、楽しむにはあまりにも悲惨な状況。
鉄筋がむき出しの外階段を、足音をたてないように上がっていく。
基哉への未練を引きずりながら、他の女性を抱くことでしか想いを発散できない。
そんな自分の恋愛偏差値の低さに呆れて溜息すら出ない。
八方塞がり。
もうどこにも逃げ場はなく、逃げようとすればするほどドツボに嵌まっていく。
少し冷たくなった夜風が遊穂の長い髪をかきまぜ、視界を塞がれたまま最後の一段を上がったときだった。
「え・・・?」
自室の前の外廊下。
一瞬見えたその姿に、遊穂は目を見開いた。
「・・・・・・・・・なに、してんの」
絞り出すように漏れた言葉は、果たして目の前の彼に届いたのだろうか。
明らかに会社帰りと思われるスーツ姿の男。
錆びて今にも崩れ落ちそうな欄干に背中を預け、遊穂の部屋の前で缶コーヒーを飲んでいたのは、まぎれもなく基哉本人だった。
信じられない思いで足がすくみ、廊下の端で遊穂は立ち止まる。
静かに上へとのぼってきた遊穂の気配に気づかなかったのか、基哉も驚いたように遊穂を見ていた。
一瞬、視線と視線が絡まる。
お互いが言葉を発するタイミングを計っていた。
そのもどかしい沈黙を破ったのは、基哉のほうだった。
「遅かったな」
その一言でカチ、と場の空気が動き出す。
ふわふわと漂っていた遊穂の心が突然現実を取り戻した。
「いつから・・・?」
いつからそこにいたのか。いつから自分を待っていたのか。
どうしてここにいるのか。
訊きたいことは山ほどあるのに、何ひとつ言葉にならない。
「・・・いいから部屋に入れろよ。ここじゃアレだろ」
「あ、うん」
慌てて駆け寄り、鍵穴に鍵を差し込む。
すぐ後ろに、もう二度と会う事もないだろうと思っていた基哉の体温を感じ、緊張して震えた手が鍵をカチカチと小刻みに鳴らす。
「落ち着けって」
笑い混じりの声が聞こえ、それだけで全身から力が抜けそうだった。
嬉しい。無様で、情けないけど、嬉しい。
優しい言葉が全身に沁み渡っていく。
「汚いけど」
やっと鍵を開け、ドアを開く。籠った空気が押し寄せ、遊穂は眉をひそめた。
ここ何日かまともに家に帰っていない。
風呂に入るか寝るかだけの部屋は、散らかっていない代わりに埃っぽかった。
「うわ。お前ちゃんと換気してんのか」
中に一歩足を踏み入れた基哉が溜息をつく。
足元に転がっていた酒の缶を拾い、流しに置いた。
「窓開けるから」
基哉が入ったのを確認し、急いでその背中を追い越す。
大きめの窓を開け放つと、外からの新鮮な空気が頬を撫でた。
しかしすぐに、背後から基哉の声が届く。
「窓閉めろ」
「え、でも」
「いいから閉めろ。隣に聞こえる」
ドク、と遊穂の心臓が鳴る。
聞かれたらまずい話でもするのだろうか。
こんな薄い壁一枚のマンションでは、たとえ窓を閉めたとしても声は届いてしまうこともある。
それが叫び声や怒鳴り声なら筒抜けだ。
できるならそんな話になりませんように。
いままで自分がしてきたことを棚に上げ、遊穂は祈るような気持ちで振り返った。
「あのさ・・・基哉さん」
笹川優子について遊穂が話したことは嘘だ。
きっとあれから彼女にも会っただろう。あれほど優子との関係の復活を望んでいた基哉だ。騙されて恥をかかされたと、遊穂を怒りに来たのかもしれない。
それでも仕方がないし、むしろ責められるべきだとは思っている。
遊穂は覚悟を決め、その場に膝をついた。
「ごめん。本当に、ごめん!」
傷つく顔が見たくない。そんなのはただのわがままだ。
目の前で基哉が傷つくか、自分の見ていないところで傷つくか。たったそれだけの差なのに。
つくづく自分の情けなさを実感する。
「おい」
「殴っていいから。気が済むならいくらでも殴ってくれよ」
覚悟は決まったと目を閉じる。
ギシ、とフローリングが軋み、基哉が近づいてきたのがわかった。
ひゅ、っと耳元で風が鳴る。
歯を食いしばり、次にくる衝撃に備えた遊穂の頬に。
ぺち。
驚くほど、軽い平手打ちがお見舞いされた。
「・・・・・・・・・・・え?」
予想外の衝撃にうっすら目を開ける。
するとすぐ目の前に、基哉の顔があった。
「・・・なに勘違いしてんのか知らねぇけど。これで満足か?」
「・・・」
冷たい手のひらは遊穂の頬から離れない。
その冷え切った体温が、どれほど長く基哉が外で遊穂を待っていたのかを教えてくれる。
「基哉さ、」
「お前の言ったとおりだった」
吐息が絡まるほどの至近距離で、基哉は囁いた。
「アイツは・・・優子はショック受けてた。俺がアイツのために言ったことは、たしかに酷いことだった。俺自身を愛してくれてたのにな」
なんだって?という声を遊穂は慌てて飲みこむ。
嘘をついたつもりだった。彼女は最初から基哉自身を好きだったわけじゃないと言っていた。
なのに、それすら彼女の嘘だった?
「は?え?」
頭が混乱してくる。
自分は結局なにをしたことになる?
全部がうまくいくように、だ。
騙して壊すつもりが、助けてしまって、それでも傷つけたはずなのに、結局すべてが元通りだ。
結局、すべてが順調。
「・・・・・・は、はは」
遊穂の口から乾いた笑いが漏れる。
可笑しくて、訳が分からなくてとにかく笑うしかない。
これでよかった。
基哉の誤解も解けて、笹川優子は本当は彼を心から愛していて。その気持ちを遊穂は手助けして。
置いていかれたのは、自分一人。
「なんだそれ・・・」
笑い続ける遊穂を、基哉は正面からじっと見つめていた。
「よかったね基哉さん。あの人と元に戻れて。俺に感謝しなよ」
上っ面だけの言葉がするするとこぼれる。
違う。
そんなこと言いたいんじゃない。
嫌だ。行かないでくれよ。
元になんか、戻るな。
「これで俺も肩の荷が下り、」
「戻れねぇよ」
それは、今日初めての基哉の怒りを含んだ声だった。
強い口調に、はっと意識を引き戻される。
基哉は、キツい口調で続けた。
「本当に基哉が好きだから傷ついた。私の気持ちをわかってくれたならもう一度やり直そう。優子は俺にそう言ったんだ。そのときの俺の気持ちがわかるか?」
遊穂は答えられない。
ただ、基哉の目を見つめ返した。
「嬉しくねぇんだよ。優子の話を聞きながら、考えてるのはお前のことばっかりだ。お前の、傷ついた顔ばっかり。ほら・・・そんな顔だよ、そんなッ!」
「ぃ!?い、いででででっ!!」
ぎりぎりぎりと頬を抓られ、遊穂は思わず後ずさった。
それでも基哉の力強い指は離れない。追いかけてきてさらに捻り上げる。
「いひゃいっ!いひゃいっへもほやはん!!」
「うるせぇ!人をさんざん振り回しやがって!」
「ほへんなはいーっ!!」
なおも逃れようとする遊穂の上に、基哉は馬乗りになって追い詰める。
容赦ない罰を受けながら、それでも遊穂の心には、ぽつりと灯りが燈っていた。
どこか遠くで、かすかに光が見える。
その光を引き寄せたい。
涙目になりながらも、口元が緩むのを止められなかった。
それを見た基哉がかすかに耳を赤くする。
「ニヤけるな」
「・・・らっへ」
いつものプレイボーイぶりの欠片もないだらしない顔で、遊穂は笑った。
ふんっと鼻息も荒く、頬を抓っていた基哉の指が離れる。
解放された遊穂の片頬は真っ赤に染まって腫れていた。
「いってぇ・・・マジ基哉さん力強すぎ」
「本当はボッコボコにしてやりたいんだからな」
「え、うそ」
自分の上で拳を作る基哉から身を守るように、腕で顔をカバーする。
すると基哉が気の抜けた笑い声を上げた。
「しねぇよ。お前の取り柄は顔だけだし」
「ひでぇ!」
2人してケラケラ笑い合う。
しばらくして、遊穂の方が先に動いた。
その顔からはもうふざけた表情は消え、代わりに雄の色香が漂い始める。
上に乗ったままの基哉は、徐々に流されていく自分を冷静に受け止めていた。
いまはもう、流されてもいいとさえ思いながら。
遊穂の指が基哉の頭に伸びる。そのまま引き寄せられ、あと少しで唇が触れる距離で。
「・・・なぁ。なんで急に俺のほう見てくれたの?」
「は?」
覚悟を決めたと思ったら寸止めされ、基哉は間の抜けた声を出す。
しかし遊穂の目は変わらず真剣だった。
あれほど頑なに遊穂を拒んでいた基哉が、あっさりと自分を受け入れてくれたことに対する疑問が残っている。
遊穂の真面目な質問に、基哉は少し考え、ゆっくりと口を開いた。
「お前がしつこいから」
「え、そんな理由!?」
「言っただろ。俺は一途なんだよ。だからお前が真剣に俺のこと好きそうだから、絆された」
基哉とて別に、軽い気持ちで遊穂の想いに応えようと思ったわけではない。
ただ恋愛に慣れているはずの遊穂が、自分を好きだということだけであれほど理性を失うくらい、それくらい好かれているのだと思うと、彼に対する愛しさが生まれた。
最初はこの気持ちを否定するだけで精一杯だったが、認めてしまえばこんなにも容易い。
「今まで遊んでた女、切るんだろ?俺だけにするって」
「・・・・うん」
遊穂は男の匂いがする基哉の頭を引き寄せる。
甘くもなく、柔らかくもない。
なのに、胸が高鳴って仕方がない。
「ん・・・」
お互い経験のある大人だ。触れ合うだけのキスは自然と深いものに変わっていく。
3度目のキス。
一度目はキツイ酒のニオイ、二度目は蕩けるような快楽を伴って、そして三度目は、安いコーヒーの味。
徐々に高まっていく興奮と、沸き起こる歓喜。
遊穂は長い息をついた。
いろいろあったけど、よかった。これでやっと基哉を抱き・・・・
抱、き・・・・・・・?
「ひいッ!!??」
そのとき遊穂は、一番してはいけないことをしてしまった自分を思い出した。
ガバッと飛び起き、態勢を崩した基哉が後ろに倒れる。
「っ、おいなんだよ!」
苛立たしげに体を起こし、遊穂を見上げた。
その遊穂はというと。
「・・・大丈夫か?顔真っ青だぞ」
「へっ!?い、いやいやいやいやだいじょーぶだって!でも、でもね基哉さんッ!?」
「は?」
明らかに挙動不審。
その手はしっかりといつの間にか基哉に脱がされかかったシャツを掴んでいた。まるで襲われた生娘のように。
「あの、あの、あのさ、今日は、その、やめとこう!ね!」
「はぁぁあ?」
いままでにないほどの動揺を見せる遊穂に、基哉の眉が跳ね上がる。
「お前なぁ、俺が男に抱かれるってどんだけ覚悟してきたと思ってんだよ!いまさらナシとかできるか!」
「いや、それはわかってます!わかってるけど今日はお願い!マジ勘弁してください!」
「理由を言え理由を!俺を抱けない理由!」
ぐわし、と遊穂の襟元を掴み上げ、基哉は男前にも遊穂に詰め寄った。
ふと遊穂の手がベルトを握りしめているのを見て、まさかと舌打ちをする。
「・・・・・おい遊穂」
「えっ!?なに、なんでもないよ!?」
つー・・・と一筋、遊穂の顔に汗が垂れる。
その瞬間、基哉の予想は確信へと変わった。
「パンツ脱げ!」
「いっ、いやぁーッ!!」
精一杯抵抗するも、実は遊穂より力の強い基哉にかなうワケもなく。
遊穂はあっという間にズボンごとパンツを引き下ろされた。
剥き出しになった下半身に残るのは。
「・・・・・・・・・・・・・・ほぉー」
「は、話を聞いてください基哉さま!これには深いワケがッ!」
男の基哉には隠しようのないイロイロな痕跡。
きちんと後始末をせずに服を着たばかりに、そこは数時間前の情事の跡を色濃く残していた。
ソレを見下ろす基哉の目がすうっと細められる。
背後にゆらりと陽炎が立ち上ったように見えた。
「女は切る、と」
「あのッ、だからコレは基哉さんにフラレたと思って、」
「俺以外いらない、と」
「そう思ってたよ!いや、思ってます!いまでも!誓って!」
「男でも俺が好きだとぬかしたのはどこのどいつだぁぁあー!?」
「ぎゃーーーーいひゃいいひゃいいひゃいッ!!!」
今度こそ渾身の力で両頬を摘みあげられ、遊穂は叫んだ。
「ひぎれるッ!ほっぺらひぎれるぅっ!!」
「うるせぇっ!!お前みたいな節操無し、顔ぐちゃぐちゃにしてやらぁッ!!」
ぐいぐいと腰が浮くほど頬を引っ張り、いよいよ顔が変形しだしたとき。
ズドンッ!!!
「「ひッ!!」」
薄い壁が、ものすごい音とともに揺れた。
部屋の中が一瞬でシーンと静まり返る。
「た、叩かれたな・・・今」
茫然と壁を見つめる基哉に、遊穂はカクカクと壊れた玩具のように頷いた。
いまだかつて隣人に壁を叩かれるような生活をしたことのない2人の心臓は、ドキドキと激しく暴れる。
たしかにそろそろ明け方に違い時間。
力の限り叫びまくる2人に、隣人からの文句が出ても仕方がなかった。
「お・・・お前のせいだからな!お前がこんなボロいマンションに住んでるから!」
「ふぁ!?はにいっへ・・・!」
ドンッ!!
「ご、ごえんなはいッ!」
隣人に謝った途端に、基哉の手が離れて遊穂は床に倒れた。
真っ赤に腫れあがった頬を両手で覆い、うーうーと転がる。
太腿にズボンと下着をまとわりつかせたその格好には、同情を買うような要素はどこにもなかった。
イイ男の「イ」の字もない。
そんな遊穂を見下ろし、今度こそ基哉は心の底から溜息をついた。
「・・・もうお前引っ越せ」
「うん・・・そうしようかな」
これだけ派手に騒いで、しかも内容が男に抱かれる云々。
明日からまともに外に出られる気分ではなかった。
「しまえよ、ソレ」
情けなくブラブラとぶら下がってるモノを指差され、遊穂は泣きそうになった。
「やっぱダメ?許してくれない?」
「ダメ。俺に指一本触れてみろ。一生不能にしてやるからな」
やりかねない。遊穂の顔が引きつる。
しぶしぶ下ろされたズボンを引き上げ、ベルトを締めた。
「あの・・・もうしません。絶対基哉さんだけだから」
「・・・」
「お願いします。俺、基哉さん抱けないと死ぬかも」
「・・・」
「今日は無理でもいつか、」
「1ヶ月」
「・・・え?」
ボソッと呟かれた言葉に、遊穂が飛びつく。
「え、え、なにっ?」
「・・・1ヶ月、我慢できたら許す。それまで俺が一日たりとも目を離さないで見張っとく」
「それ、さぁ」
ぎゅ、と遊穂の手が基哉の肩を掴んだ。
隣を気にして、今度は小声で囁く。
「俺が基哉さんの家に行っても・・・」
「・・・勝手にしろ」
てっきり突っぱねられると思っていた提案に、意外にもOKが出る。
遊穂は天にも昇る気持ちで基哉の背中を抱きしめた。
余所を向いている顔を無理やり振り向かせ、キスをしようと顔を寄せたが。
「お前・・・誰かとキスした口で俺にする気か」
至近距離で睨まれ、遊穂は固まった。
「まさか、キスも」
「ナシに決まってんだろ。きちんと消毒が完了するまでナシ」
「消毒・・・」
「呪うなら自分の緩い下半身を呪え」
がっくりと項垂れる遊穂を尻目に、基哉はさっさと立ち上がった。
皺の寄ったスーツを伸ばし、足元で肩を落としている新しい恋人を見下ろす。
「ほら、行くぞ」
手を伸ばすと、遊穂がゆっくりと顔を上げた。
その情けない顔に笑いながら。
「もうフラフラ遊びまわれないようにしてやる」
そうカッコよく宣言する初恋の人の手をとり、遊穂は溜息をついた。
これから1ヶ月。
目の前にぶらさがる誘惑に、果たして勝てるだろうか・・・
(頑張れ、俺・・・)
アソビの恋 終わり。
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