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捧げもの
初恋(原沖/颯花さんへ誕生日記念)
沖田の機嫌がいいことには、おそらく俺と土方さんだけが気づいていた。
それも一日だけではない。ここ一週間くらいだろうか。
やけに目がキラキラしている。土方さんをからかって、答案用紙に妙な落書きをするような、そういった悪戯は相変わらずだったけれども――
ここのところ俺の前でニコニコ笑顔しか見せないのだ。
やけに物わかりがいい。
体育委員会に所属するようになって、初めは面倒臭そうに業務をこなしていた総司が、ここのところは素直なものだった(まあ、こいつは土方さん以外にはいつも比較的素直なんだが)。
ジュースの一つでもおごってやれば、気前よく授業の準備を手伝ってくれるから、正直に言えばかなり助かってもいる。けれどまあ、妙というか、らしくもなく浮足立ってはいる様子の総司が気がかりで、俺はその日声をかけることにしたのだ。
「最近何かいいことでもあったのか」
「んー?」
「お前がそんなに浮足立っているの、珍しいと思ってよ」
その日は保健の授業があった。プリントを手早くまとめ、パチパチとホッチキスの軽快な音を鳴らしながら、上機嫌な総司が笑う。
「なあに、それ。どういう意味です?」
「ここ一週間、やけにニコニコしてるだろ。近藤さんに何か言われたのか?」
「ええー?いやだなあ、そんなのじゃないですってば。僕だってそこまで子どもじゃないんだから」
「………」
ニコニコ笑顔はどこか子どもっぽく見えるのだが…総司はそういう自覚は無いらしい。大きな目をくりくりと動かして、俺を見つめた。
「僕、どこか変ですか?」
「変じゃあ無いけどよ。珍しいなと思ったんだよ」
「別にどうということもないですよ。ただ最近ね、僕、好きな人ができたんです」
パチリ。
ホッチキスが噛みあう音を軽快に鳴らす。

――好きな人。

沖田の口からそんな台詞が出るとは、実に意外だ。まずもってこいつの恋愛話なんて聞いたことが無い。いつも剣道の話題か近藤さんの話題ばっかりのこいつが、よりにもよって“恋”を口にするとは。
意外も意外、思わず口を開けてしまった。
存外失礼な対応になってしまったのではないかと直ぐに気づいて閉じる。

「はあ…そりゃまた、近藤さんあたりが目を潤ませそうだな。あの人、お前が結婚したら泣きそうな気がするぜ」
「あは、結婚とか話が飛び過ぎでしょ。今は僕の片想いのお話ですよ、そもそも付き合っている訳でもなし」
「へえ。そうなのか」

片想いねえ…とんと覚えがない感覚だ。いちおう幾人か女と付き合ってきたことはあるのはあるのだが、どれも、告白してきたのは相手からだった。自分から付き合おうと思って付き合った女は、今の所いない。

「(好きな人ができたからといって浮足立つなんて、また可愛いことをしてくれたものだな)」

自分とて、女と付き合ったことは幾度となくあるけれども、若気の至りがほとんどで、最近はとんとご無沙汰である。そんななかで弟分である総司のその台詞には、やや心が揺さぶられんでもなかった。青春の甘酸っぱい響きがそこにはある気がした。何というか、心がむずむずするというか…。

「ま、お前の見てくれだったら大抵の女が魅力的に思うだろうが、相性ってもんもあるしな。…どんな相手だよ?」
「それが年上なんですよ」
「ほお」

まあ、意外でもないか。総司は甘えたなところがあるから、それを受け入れる包容力のある相手が似合うだろう。そう納得して、続きを待つ。

「脈は今の所どうとも言えないんですけど、僕のこと可愛がってくれてて。気づいたのは最近なんですよ。一週間前くらいかな」

総司がやけに機嫌がよくなったのも、一週間前からだ。とてもわかりやすい。

「へえ。美人?」
「美人、っていうのとは少し違うかな。でもすごく優しいですよ」
「いいじゃねえか。どうやって知り合ったんだ?」
「土方さんの友人でね。その伝手で」
「そうかそうか。で、どういうところが好きなんだ」

総司はにこにことしている。声がスキップでもしているみたいに弾んだ。

「そうだなあ、僕のこと上手に甘やかしてくれるところ。優しいところ。大人びた人なのに、たまにすっごく子どもみたいに笑うことがあって、可愛いんだ」

嬉しそうに、自慢げに言う総司が、そっちこそ可愛い表情で、ゆるやかに頬を染めていく。

「普段は大人っぽいのに、たまにハメはずしちゃったりね。そういうとこも可愛いなって」
「へーえ。お前がそこまで言うなんて、よっぽど惚れこんでるんだな。頑張って落とせよ?なんなら口説き方、俺が教えてやろうか」
「いいですよ、左之さんの口説き台詞、なんか恥ずかしそう」
「そんなことねえよ、新八じゃあるまいし」
「そりゃ、左之さんが言ったら格好良い台詞かもしれないけどさ、一般の男子高校生には荷が重いってば。心臓がもちません」

照れてしまったのだろうか、パチ、パチと、やけにホッチキスを閉じる速度が上がっている。
やや焦ったように、ごほんと咳払いをして、心を落ち着けてから総司は作業を再開した。俺も合わせてコピー機をあやつる。

「そういうもんか?しかし、好きな人ができたから浮足立つなんて、お前にも可愛いところがあるんだな。…まあでも、思春期にそういう大きな恋をすることは大事なことだ。存分に楽しめばいいと思うぜ」
「うん、そうだね。今すっごく楽しい。その人のこと、好きになれてよかったなあって思ってる」
「よかったな」
「うん!」
「………だがなあ…お前にも春が来るのか。寂しくなるな」
「娘を嫁に出すお父さんみたいな顔しないでくださいよ。あ、ちなみにこれ、土方さんには内緒ですからね。あの人もなんだか口うるさそうなんだよなあ」
「わかってるよ、言わねえって」

ざーっ、ざーっ、と印刷された紙が排出し終わったことを確認して、軽く目を通してから総司に渡す。総司は手際よくそれを製本して、腕が疲れたのか、ふうと息をついた。

「ね、左之さん」
「ん?」
「んー…なんていうか、その、」
「なんだよ」
「ふとした疑問なんだけど。ちなみに左之さんにはそういう人いないの?」
「ん?ああ…いないな。この歳になるとさすがに焦るけどよ。仕事もあるし、まだ家庭作る気にはならねえな。やりたいことの方が多すぎる」
「左之さんなら焦らなくたってよりどりみどりでしょ?理想が高いんじゃないの」

ズバッと言う所は相変わらずだ。ほとんどの人間が言わずにすませることを、総司は思ったままに口に出す。思わず苦笑してしまうほど、あっけらかんとした態度だ。俺には好ましいものだが、他の人間が沖田ととっつきにくさを感じる要因はこれだろう。
やはりまだまだ子どもだ。

「まあ、理想が高いのはそうかもしれねえな。相性ってのもあるし、大事なことだ。じっくり決めていくさ。お前もそうしろよ?」
「……じっくり、ねえ。僕はもう決めちゃってるから」
「決めちゃってるって、何がだよ」
「左之さんって片想いしたことないでしょ」
「は?」
「女の人と付き合って、扱いに慣れてはいるけれど、それも自分から告白したこととかはどうせないんでしょ?相手に好かれて、それが嬉しくてOKしちゃうタイプ。でもそこまで本気になれなくて、なんだかんだで別れて今に至る……みたいな」

大当たりだ。沖田の観察眼には目を見張る時がある。

「まるで見てきたように語るじゃないか」
「見てないですけど。でもなんとなくわかりますよ、左之さん片想いしたことないんだろうなーって」
「……わかるか?」
「わかるよ。だから僕がこうやって片想いにドキドキする気持ち、左之さんにはわからないんだ」
「そういうもんかな」
「そうだよ。……片想いってこんなに楽しくて幸せなのに、それを知らない左之さんって可哀想」

またそういうことをサラリと言って、総司はその一瞬だけ、笑顔を消した。
じっと俺を見つめて、ふいと逸らす。頬が赤い。

「知らないでしょ?本気で誰かを好きになるとね、その人の傍にいるだけで気持ちがふわふわしちゃうんですよ。声を聞くだけで嬉しくなっちゃうんです。その人に恋人がいないって聞いただけで物凄く舞い上がるし、優しくされると泣きたくなる」

そういうものだろうか。
…そういうものかもしれない。

「……なんていうか…総司、お前って、たまに物凄く可愛い事言うよな」

青春ってこういうものなのか、と、その味を知らずにきてしまった俺は素直に感嘆する。
可愛いという台詞を聞いただけで、総司は首まで真っ赤になってしまった。
へにゃ、とへたくそな笑みを浮かべる。

「…そういうことがずるいんだよなあ…」
「………ん?何か言ったか?」
「んーん、何でもないです。それより先生、僕がその人に振られたら、ちゃんと慰めてくれる?」
「おお、いいぞ。いくらでも慰めてやるよ。酒は20になるまで駄目だから、何か美味いもんでも食べに連れて行ってやる」

楽しみなような、そうでもないような。
複雑だなあと一人うそぶきながら、総司が困ったように笑った。

「まあ、先生の前で泣き顔さらすようなみっともない事態にはならないように努力しますよ」
「そうか。まあ、頑張れよ」
「はい」

先ほどとは違い、総司らしくも無い大人しい笑顔だ。
なんとなく違和感を覚えながらも、追求するのは止めることにした。
いつまでも子どもらしく笑っていろというのは、俺の願望でしかないのだから。

俺の複雑な心を断ち切るかのように、パチン、とまた一つ、軽快にホッチキスが鳴った。




†  †  †






大人と子どもの垣根というのは何だろう、ということを、俺は考えた。しかし明確な垣根などなく、自分だって「いつ」大人になったのかと問われると、言葉にするのが難しい。18歳の自分と今の自分では大きく異なるけれど、ある日急に劇的な変化を迎えた訳ではないのだ。少しずつ、少しずつ、大人になる。
しかしそんなことを正直に話したところで、目の前の少年は納得しないだろうと予想ができたから、俺は頭をかいた。
大きな目を困ったように揺らめかせながら、教え子が俺を見つめている。

「好きな人に僕をもう少し大人として扱ってもらいたいんだけど、どうしたらいいかな」

そんなことを相談されたのはつい先ほどのことだ。
教え子は、名を沖田総司と言う。

ただの教え子ではない。総司とはこの学園に入学する前から、近藤さんの道場でたまに顔を合わせていた。剣道部に在籍していて、剣の腕前は子どもとは思えないほどの鋭さだ。成績は悪くないのだけれど、何故だか優等生というイメージはない。古文の試験だけいつも赤点をとる。土方先生とは腐れ縁らしく、素直じゃない部分が多かった。
近藤さんの道場を起点として、俺も総司とは懇意にしていた。付き合いはそう長いわけではないが、不思議と馬があい、生徒と教師という垣根を越えて、兄弟のような感覚すら覚えている。

その総司が、最近恋をしたという。まあ、この年代の子どもにはありがちなことだ。むしろ初恋にしては遅い方かもしれない。

「(総司の奴、案外に年上が好みとはな。成就すればいいが)」

俺にそのことを打ち明けて以降、総司は戸惑いながらも、俺に恋の相談をするようになった。恋愛に関しては百戦錬磨、という確証もない噂がはびこっていることを、一応自覚はしている俺である。はじめての恋をして、誰かに相談したいという気持ちは、理解できなくはない。
総司は切なげに瞳を揺らしながら、小さくこんなことを言った。

「可愛いって、言ってもらえるのは嬉しいんだけど…“可愛い”っていうのは、やっぱりなんていうか、子どもとしてしか見られてないってことなんだよね。子どもとして見られてるうちは、恋愛対象になんてなりようがないんじゃないかなって思うんだけど」
「ああ、なるほどな。それで大人として認めてほしい、か」

ふむ、と頷いてみせて、俺は総司が淹れてくれたコーヒーを飲む。…最近気づいたことなんだが、普段は大雑把なくせに、総司はコーヒーを入れることだけは上手い。丁度いい濃さに淹れてくれるから、俺は総司の家で、総司のいれるコーヒーを飲むのが楽しみになっていった。あまり生徒を贔屓するのはよくないのかもしれないが…俺も何故だか、総司を無下にするつもりになれなかった。それに事情もある。総司は、わけあって土方さんと一緒に住んでいるのだ。そういう背景もあって、土方さんと飲む予定の日は、早めに家に行って飲み会が始まるまでの時間を総司と語らうのが常となった。

「大人っぽく見られたい、かあ。…しかし難しいことに、それを意識して大人びたふりをすると、そのこと自体がますます子どもっぽく見える場合があるからな。放っておいても本当に大人になるんだし、あまり気にしない方がいいと思うぜ」
「…うん、まあ、それもわかるんだけど…」

もにょもにょと、総司は何か言いたげな顔だ。

「左之さ…んは、」
「ん?」
「僕のこと、子どもっぽいと思う?大人っぽいと思う?」


問われて、初めて考える。同い年の生徒たちの顔を思い浮かべて、そうだなあ、と唸った。総司は、顔立ちがどこか甘い。整いすぎているのかもしれない。その外見だけで言えば、大人っぽく見えなくはないのだが…

「土方さんの句集に悪戯したり古文のテストでわざと赤点とったりしているからなあ…子どもっぽく思えるな」

少し意地が悪い答えを返してやると、総司は唇をへの字に曲げた。

「原田先生は意地悪だなあ。もうそんなことしませんよ。最近はいい子にしてるでしょ」
「ああ、まあな。でも最初の印象ってのはなかなかぬぐえないもんだぜ。まあ、総司は顔立ちが綺麗だからな、身長も高いし、見た目だけで言えば割と大人っぽく見えるだろ」
「ほんと?」
「ああ、まあ、平助と比べればな」
「……平助と比べたら大抵の人が大人っぽく見えるでしょ」
「そうだな。まあ、斎藤、沖田、藤堂の順か」

総司はむすっとしている。手に持ったココアをカツンとテーブルに置いて、ふいとそっぽを向いた。

「僕より斎藤くんの方が上なの、気に入らない」
「…斎藤はしっかりしてるからな。まあそう拗ねるなよ」
「僕だってしっかりしてますよ!先生のところの体育委員会になってから、真面目にしてるでしょ。いつも書類整理したり、それ以外にもいろいろ…企画したりとか、」
「ああ、そう言えばそうだな。…もしかしてそれも、大人への一歩になると思ってやってるのか?」

可愛いことをするものだ、と俺はなかば感心してしまう。自分が総司の年齢だったころはどうだっただろうか。…そこまで女に固執したことは無かった気がする。気になる年上の女はいたような記憶があるけれども、頑張って追いつこうと背伸びして…といった可愛らしい努力は、経験がなかった。むしろあちらからちょっかいをかけられることが多くて、恋愛の主軸は俺ではなく、つねに相手だったのだ。

だから今、頬を赤らめているこの総司の必死の様子は、ほほえましいと同時にどこか羨ましいような気持ちもする。

「…わ、るいですか。ちょっとは大人っぽく見てもらえるかなって…」
「いや、悪くはない。俺は可愛いと思うぜ。無理に大人びるよりは、その健気さを武器にしていった方がいいんじゃないか」
「………」

ぷしゅう、とさらに赤くなって、総司は困ったように眉をひそめた。

「可愛いって言ってもらえるのは嬉しいんだけど…もうちょっとこう、意識してくれないと、困るんです。あの、体験談でいいんですけど。原田先生って相手がどういうことをしたら、相手を恋愛対象として意識しますか?」
「ん?ケースバイケースだと思うが、そうだな…」

恋愛対象として見てほしい、か…理解できなくはない話題だ。俺は顎を撫でながら、それならばと指をたてた。

「恋愛話を振るとか」
「え?」
「恋愛対象として意識してもらうのに手っ取り早いのは、まず、今現在恋人がいるかどうかを聞くことだろ。これを問われると相手はそれだけで何かを察するもんだぜ。あとはボディータッチとか、目を見つめるとか…ああ、俺の場合、過去に付き合ってきた相手の話をそれとなく振られたこともあったな。その後、その相手と比べて自分はどうかって聞かれた」
「うーん…それはちょっと僕には難しいかな。だいたいもう、僕は相手に恋人がいないって知っているし」
「え、そうなのか?」
「うん。…それは、知ってる。でも相手は気づいてないよ」
「そうか。なかなか手強いな」

となると…さて、どういう手段があるだろう。

「アプローチにもいろいろあるからなあ…ベタベタ触れてくる相手もいたし、直球で告白してくる場合もあったし、手紙をよこされた場合もあるし。俺はたいていは態度で気づくけどな、やっぱりこう、気がある相手と対面すると緊張するものだから、なんとなく空気で。ああ、あとあれだ、実は気になってた相手にいきなりキスされたなんてこともあった。あれはびっくりしたな」
「…そうなんだ。やっぱり原田先生って経験豊富なんですね」

おや、何故だろう、総司がしょんぼりと肩を落としてしまった。そんなに垣根が高いことを言った覚えがない俺は、首を傾ける。

「…まあ、何でもやってみればいいさ。若いんだから、遠慮せずいけよ」
「うん。じゃあ原田先生、もう一つ僕に教えて欲しいんですけれど」
「おう。なんだ?」
「キスの仕方、教えてくれませんか」
「……は?!」

思わず驚きの声を発して、同時に思考も止まる。
総司はお気に入りのクッションを持つと、足をソファに載せて膝を抱える形になった。

「…僕、やったこと、ないから」
「また難しいこと言うな。実際にやって教えるわけにもいかないだろう」
「キスしようにも、そういう雰囲気への持っていき方ってあるじゃないですか。それを教えてほしいんですよ。寸前のところで止めてくれていいから、途中まで教えてくれませんか?どうしたらそういう雰囲気にもっていけるのか…僕を女の人に見立てていいので、やってみてください」

自分でも滑稽なくらいに動揺して、俺は手を振った。

「いや、さすがにそれは」
「お願いします、原田先生。…僕、こんなこと、土方さんにはとても相談できないから…」

そう言われると、どうにも困ってしまう。

「総司、あのな、そういうことには順序があるだろう。告白して OK貰ったらキスしてもいいかもしれないが、まず告白もすんでないのに、どうしてキスなんだ」
「…だって、子どもじゃないってところを、見せたいから」
「その考え方がすでに子どもだろ」
「……。だめ?」

やけにか細い声だった。総司なりに決死の覚悟を込めていたのだろうその声に、さしもの俺も、動揺する。何故だろう、昔から、総司のこういう細い声をきくと、何をさておいても願いを叶えてやらねばという気持ちになるのだ。案外に、俺は総司の泣きそうな声音というものが、苦手なのである。
しばらく考え込む間を置いてはみたものの、それは「簡単なことではないのだ」ということを総司に伝えるためのアピールとしていれてみただけで、結論はすでに自分の中で決まっていた。

「…参考になるかわからねえけどなあ…でもまあ、わかった、お前がそこまで言うならやってやるよ」
「え?ほんとに?」
「何だよ、断って欲しかったのか?」
「…いえ、そういう訳じゃ…ないんですけど」
「振りだろ、本当にはしないさ」
「………」

了解されるとは思っていなかったのかもしれない、総司は長い間固まっていたが、少し間を置いてから「ご指導お願いします」と実に片言でしゃべった。緊張しているのか、顔色が青い。

「そうだな…それでも、相手が嫌がる素振りを少しでも見せたなら、途中でやめるべきだぜ。相手は女なんだから、ちゃんと OKかそうじゃないのかを感じ取ってからしろよ」
「…僕だって、相手が嫌そうなそぶりを見せたら流石に止めますよ」
「そうか。ならいいんだが」

子どものようにうなずく総司の手を取ると、大げさにびくりと跳ねた。

「――…原田先生?」
「とりあえずキスするんだったら近くに行かないといけない。まあ、今みたいに隣に座るくらいがいいかな。で、手を握る」
「ん。う」
「いきなり手を握られたら、たぶん相手は驚くだろう。そこで嫌がる素振りを見せるか見せないかをちゃんと見ておけよ。で、もしも嫌がらなかったら次だ。相手の目を見る」
「!」
「――できるなら、ここで口説くといいんじゃねえかな。それで、相手の頬とか…できるなら唇に指で触れる。こんな風に」
「ん、…ッ」

頬に手を添わせて、親指で唇を撫でた。総司は目を見開いて露骨に驚愕を浮かべたが、それでも逃げずに、慌てたように目を伏せた。照れている。

「これで相手が逃げないなら、 OKのしるしだ。そこまでして相手が逃げないならキスしてもいいだろ。無理矢理にはならねえよ」
「………ん、…ええと」
「ま、一つの例だからあんまり参考にならないかもしれないが…俺が教えられるのはこれくらいかな」

顔を近づけるのは流石にやりすぎだろうと思ったから、唇にふれる程度のことしかしていないのに、総司は何やら真っ赤になってしまった。初心なのだ。可愛らしい一面をまた一つ知れて、妙な優越感と、これでいいのかとざわついた気持ちになる。

「(…複雑な気分だ)」

オロオロと目線が泳いでいる総司が、やっとのことで真っ直ぐ俺の瞳を見つめ返した時には、真っ赤だった顔はさらに茹で上がって、熱を持っていた。汗すら浮かんでいておかしくないような、細胞を燃やすような赤面だった。きっと胸に手を当てたら、その動悸も激しいのだろうな、と予想ができる。

「(…ん?)」

総司が目いっぱい腕を伸ばして、俺の頬に触れた。じっと俺の目を見つめながら、

「原田せんせ、」

そっと控えめに唇を指でなぞってくる。まさかそういう反応が来るとは思わなかった俺は、思わず首を傾けて「どうした」と聞いた。触れていた指を離すと、総司は目いっぱい両腕を伸ばして、両手で俺の両頬に手を当てる。
意を決したように乗り上げてきて、濡れた瞳で俺を見つめながら、総司の唇が何かを言いたげにうごめいた。正直に言うと、少しばかりドキっとしてしまった俺は、教え子相手に何を考えているのだと慌てて顔を引き締める。

「……、…あの、ええと、」
「総司?」
「こうやって目を見て…拒絶されなかったら、キスしてもいいんですか?」

なるほど俺が教えたことを実践しているのだと納得して、頷きを返して見せる。頬に触れた総司の指は、やけにおどおどと、自信がなさそうだった。本当に軽く触れるだけで、しかも緊張しているのか、カチコチと固まっている。そして何より、驚くくらいに熱い。
…その熱さが頬に乗り移って、こちらまでなんだか妙な気持ちになってきた。そろそろ距離を取ろうかと思ったその瞬間、総司の身体が伸びあがる。

「…ん…!」
「?!」

ふに、と柔らかい感触が、右の頬――いや、頬というよりは顎のあたりか――にぶつかった。リップ音すらない。ただ、わずかに呼吸が首筋にかかったから、俺はその正体が、どうやらキスらしいと理解した。
いや、キスと言ってもこれは何と言うか、幼稚園児が先生にするようなそれだ。一瞬すぎて感触もよくわからなかった。
唇ではないとは言え、まさか本当にキスされるとは思っていなかったために、思わずまじまじ顔を見つめる。すると総司は総司で必死に俺を見つめているではないか。その翡翠の中にありありと浮かんだ期待の色に、胸がチリリとうごめいた。
この期待の色には、見覚えがあった。

まさか。
これはつまり、…そういうことなのだろうか。
総司の好きな相手というのは年上だと言っていた。総司のことを可愛がっている年上の…、

「(そういや、女だなんて一言も聞いていないな)」

酒に酔っぱらうとつい羽目を外してしまうところが可愛いだの、普段は大人っぽいけどたまにやんちゃなことをするだのと聞いていた総司の想い人の条件は、よくよく考えれば自分にも当てはまるような気がしてきた。

「(もしこれで違ったら赤っ恥だが)」

どれどれと総司の顔をわざとらしく覗き込んでみる。赤い。
…ああ、これはほぼ間違いないな。

「…総司?」
「…ちょっとはドキドキしてくれました…?」

総司は多分俺の頬にキスをするつもりだったのだ。だけれども身長差のせいで頬につけるはずだった唇が下にずれて、顎の方になってしまった。そんな中途半端な場所にキスをしてしまったことを恥じているのか、慌てた総司が汗をかいている。

「――どうした?」
「せんせ、あの、僕。その、ごめんなさい。実は、僕、」
「……」
「僕の好きな人は、…」
「……」

そこまで言われたら、流石にわかる。だがしかし続きは言わせてやるべきかもしれない。

「なんだ?総司」
「…は、原田先生なんです。僕は、あなたに片想いを、ずっと、」

たどたどしく続ける総司は、もう俺の目を見ることにも限界がきたのか、怖がるように睫毛を傾けていた。

「――僕は男だから、先生を困らせちゃうのはわかってます。わかってるんだけど、黙ったままでいるのも気持ち悪いから。…僕をこの世で一番幸せにできるのは貴方なんだって、知ってほしくて」

可愛いことを言ってくれる。
総司は、実に健気だ。

「だから原田先生、どうか僕をあなたの傍に置いてくれませんか。…で、できるなら恋人としてがいいけど、無理なら生徒とか、そういうのでもいいので。我儘言わないから、あなたの近くにいさせてください。その、…お願いします」
「………」

たぶんこれが、総司なりの全力だ。頑張って、頑張って、なんとか決死の告白を終えたと思ったら、気力を使い果たしたのか総司はぎゅうと目をつぶって、うつむいてしまった。
職員室で土方さんに怒られる生徒を見ていてもたまにこういう顔をしている奴がいる。
これは、処罰されることを待っている場合の子どもがする顔だ。
つまり怖がっている。
俺はもう、ここまで来るといっそ関心してしまった。

「なんというか…お前ってやることなすこと本当に可愛いな、総司」

何から何まで、行動の細部にわたるまでが、実に実直でまっすぐで気持ちが良くて――そのどれもがとびきり可愛いと思う。自分が総司の片想いの相手だったという事実には驚いたけれども、総司のこの態度を見ていたら、疑う要素など何一つとしてなかった。

「…か、可愛いっていうのは、原田先生にとって褒め言葉なんですか」
「褒めてるよ。…自分を一番幸せにできるのが俺だなんて、そんな告白は初めてされた。これでも恋愛経験は、まあ、それなりに多い方だと思っていたんだが」
「――あの、せんせ」
「笑っていいぞ、総司。どうやら俺もこれが初恋だ」

自分でも笑ってしまうが、どうやらこれが本当らしい。
未だかつて、こんなにふわふわした気持ちになったことなどない。総司が俺を好きだと言うたびに、形容しがたい熱が心臓をまるごと食べてしまった。

「俺もお前に惚れてるよ、総司」

人間は驚くと口をぽっかりと空けてしまう。総司もどうやら例にたがわないらしい。
ぽかんと開いた唇のその形すら愛おしかった。
言われた意味を問おうとさらに開いた唇を、俺は言葉のとおり、食った。大口あけて、先ほどの仕返しだ。
据え膳喰わぬは何とやら。
身体はまだ貪り食う訳にはいかないけれど、キスぐらいなら許されるだろう、たぶん。
土方さんに殴られる覚悟を固めて、俺は意気揚々と総司の身体をソファに沈めるのだった。




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