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第一章
30 disappears in the sound of raindrops(2)




その日の夜。まだ傷跡の残る雨音と共に、俺は寝ていた。
雨音の存在は、いくら父上が連れてきたとは言え、家人に見ず知らずの子を容易く城に入れたと知られれば間違いなく追い出されてしまう。
ただでさえ俺がこの姿になって、母上が荒れて、問題事を抱えている子供には敏感なのだ。
だから雨音の部屋は設けずに、父上が俺の部屋へと連れ込んだのをきっかけに、そのまま俺と部屋を一緒にしていた。
もう暫く、俺の部屋に近づくような人はいなかったから、決して雨音の存在を知られる心配はなかった。



暗闇の中、少しずつ重たくなる瞼に気を許し、閉じようとしたときだった。
少し離れた場所から、ドタドタと真夜中には不似合いの荒々しい足音が聞こえた。


「―――おやめください! 姫さま!」


やがて静止を求める叫び声が複数聞こえた。この騒ぎの元は母上だ、とすぐに察しがついた。
雨音もその声に驚き、目を瞬かせている。


「もう藤次郎さまはお休みになられております! どうか、今はお部屋にお戻りください!!」
「――五月蝿い! 私に指図するでない、離せ!! 禍々しい我が子め、今夜こそ」



今夜こそ、―――――。



その後に続く言葉は、聞こえなかった。
いや、もしかしたらただ俺が自ら耳を塞いだからだったのかもしれない。


「・・・藤次郎」


不安げな雨音の声に、はっと我に返る。今は雨音に危害が及ばぬようにするのが一番だ。


「雨音、押入れに隠れてて・・・!」


そう言って何か言いたげな雨音を無理やり押入れに入れる。
押入れの襖を閉じたと同時に、部屋の襖が勢いよく開いた。月光に反射し、顔の見えぬ母上の姿が目に映る。
相変わらず、母上のそばを取り囲む数人の女中はおやめください!と叫んでいる。
しかし母上は、俺の姿を見るなり、ふと優しそうな笑顔を俺に向ける。


「――藤次郎、どうしたの? そんなところに座り込んで。母が恐ろしくて押入れに隠れようとした?」
「・・・そんな、つもり・・・じゃ」


――やめてくれ。昔の、まだ優しかった頃の母上と同じ笑顔を俺に向けるのは。
・・・その笑顔で、その口で。


「母も、あなたが恐ろしい。瞳が欠けているなど、これから戦で使い物になりましょうか。
ねぇ、藤次郎―――」


やめて、くれ――。


「あなたがこれから生きる意味など、なにかあるのでしょうか」


「ないのでしたら」




「お前に生を与えた母が、お前の生を断ち切ってあげましょう」



幼い頃、母上の笑う顔が大好きだった。
笑顔が見たくて、毎日花を摘んでは母上へと持っていった。その花を母上は大切そうに、花瓶へと生けてくれた。
そうして母上はいつもこう言うのだ。
藤次郎は本当に、母想いのいい子ですね――、と。


それなのに、俺は病気にかかり、右目を失い。母上の想いを裏切ってしまったのだ。
だから、母上は俺のことを嫌いになってしまったのだ。俺のせいで。


「母上・・・、ごめん、なさい」
「―――何をしているのですか!!」


突然、小十郎の声が聞こえた。顔を上げれば、目の前に小十郎の背があった。


「早く、その方を寝室へお連れしなさい!!」
「――は、はい!」


なおもがく母上を、数人が無理やりに部屋へと連れて行き、さきほどまで騒がしかった俺の部屋はいっきに静寂に包まれた。
小十郎が慌てたように俺の体を確かめる。


「どこもお怪我はございませんね!?」
「うん・・・。大丈夫だ」
「・・・本当に、大丈夫ですか?」


複雑な顔をして、小十郎が俺の顔を覗き込む。
思わず、そんな小十郎の瞳から逃れるように顔を背ける。


「・・・あ、雨音!」


慌てて襖を開けるのと、それは同時だった。


「・・・雨音?」


ぎゅうっと、抱きしめられている。俺の胸に顔をうずめた雨音の髪が、かすかに首筋をくすぐった。
俺よりも、少しだけ小さな体を震わせているのがわかった。


「ごめん、雨音。・・・驚かせちゃって。もう大丈夫だから」
「・・・藤次郎っ」
「大丈夫だよ。――ほら、寝るぞ」


何か言いたげな雨音の顔を見ないふりをして、無理やり布団の中へと押し込め、自らも布団へと潜る。
小十郎はそれをみて、今は何を言っても仕方ないと悟ったらしく、「失礼します」と言って部屋を出て行った。


雨音に背を向け、布団を頭までかぶる。
母上の先ほどの言葉が、何度も何度も頭の中で木霊し、離れなかった。
一度木霊するたびに、胸の奥が、頭が、何かに埋め尽くされていくようで、怖くなった。






翌日。いつの間に降り出していたのか、雨が降っていた。
あれから結局、ずっと頭が冴えて眠れなくなってしまった俺は起きた後も瞼が少し、重たかった。
それは雨音も同じだったらしく、少し眠たそうにしていた。
小十郎が運んできた朝餉をふたりで食べたが、その間言葉を交わすことはなかった。


おそらくまだふたりの頭には、昨日の記憶が漆黒の煙になでられたように微かに、しかし深く残ってしまっていたからだろう。
雨音がやけに大きく部屋に響いていた。


朝餉を終え、俺は勉強のためにと書物を広げた。
物心ついた頃から、よく母上に教えられながら読んだ。
右目を失った今、誰からも期待されなくなってしまったが、それでもこの習慣は続けている。
雨音は襖を少し開け、縁側から見える雨雲、落ち続ける雫を眺めていた。
何がそんなに面白いのだろうと聞いてみれば、雨音は「この、音が好き」と微笑みながら答えてくれた。
いつかふたりの間に、遠慮だとか、戸惑いの空気はなくなっていた。


だからだろう。雨音がそんな事を小さく口にしたのは。


「――藤次郎は、お母さんのこと、怖くないの?」


雨音の顔を見れば、真剣な目で俺を見ていた。
好奇心とかじゃなく、本気で聞いてきているのだと思った。
だから俺も、正直に答えようと思った。


「――怖くない。だって、俺の大切な母上だから」
「・・・そっか。私、藤次郎が羨ましい」
「どうして?」


少し躊躇いがちに瞳を伏せる。


「私は、母上が怖くて怖くて、しょうがないから」
「怖い、人なのか?」


よく怒るから、とか、悪さをしたら叩くから、とか。
そんな理由を思い浮かべて、しかしそれはすぐに頭の中から消えていった。
雨音の瞳の奥に、俺の知らない秘密の空間があるような気がした。


「母上は、私のことを見てはいないから。私の“中”が、大切だから。それが嫌で逃げてきちゃった」


そう言って俯く雨音の声が初めて聞くような、か細い声だった。まるで泣いているみたいに。
その声につられるように。


なぜか俺の目頭まで、熱くなってきた。



あの日から。
右目を失い、母上が日々荒れていく姿。
醜い自分の姿。
今まで自分を取り囲んでいた人家が離れる。


なにもかもが絶望でしかなくて、毎日毎日俺は泣いた。
小十郎や成実はそんな俺から目を離そうとせず、隣にいてくれた。
でも母上は俺の泣いている姿を見ると、少し眉を寄せ、彼女も涙を流した。
そうして、数々の言葉を吐いて去っていった。
辛いのはお前だけじゃない、と。嫌というほど伝わってきた。


だから少しでも、母上が辛い思いをしないように。
小十郎や成実がせめて、夜はちゃんと寝てくれるように。
俺は泣くことをやめた。


でも。ここには母上も、小十郎も成実もいないから。
泣いてもいいんじゃないか、って思った途端、待ち構えていたように涙が落ちてきた。


雨音が少し驚いたように俺を見る。
俺はなんだか恥ずかしくて、思わす僅かに開いた襖をあけ縁側から飛び降り、落ちる雨も気にしないで一気にかけていった。
そして蔵の裏へとしゃがみこむ。
雨にぬれて顔はぐちゃぐちゃなのに、それでもまだ涙が出てきていた。口に入った雫が、少ししょっぱかった。


そのときだった。突然背中に誰かが抱きついてきた。
驚いて後ろを振り返れば、そこには俺と同じくずぶ濡れになった雨音が俺を包むようにしゃがんでいた。


ようやくうずめていた顔を上げた雨音の顔は、涙でぐちゃぐちゃだった。


「藤次郎の『大丈夫』は、きらい!」
「・・・?」
「全然、大丈夫じゃないのに! あんな顔して大丈夫なんて言わないで!」


雨音の、俺の腕を握り締める力に、頭の奥がカッと熱くなった。


「――しょうがないだろ!」


さっきまで俺を少し下から、怒ったように見つめていた雨音の顔が、驚きからか無表情に変わった。
しかしそんな些細な変化に構える余裕がないほど、心がいっぱいだった。


「俺は、俺のせいでこんな姿になったんだ!誰のせいでも、母上のせいでもない!
だから母上が俺を疎ましく思うのも、城の人たちが嫌な目で見るのも、全部俺のせいだ!
なのに、辛いとか、もう嫌だとか、そんなこと言えるわけないだろう!?


――もうこれ以上、ひとりにはなりたくないから」




「・・・あのね、藤次郎。
あたし、目が覚めた時に傍に誰かいてくれたのも、誰かと一緒に寝たのも、誰かがあたしを守ろうとしてくれたのも、誰かと一緒にご飯を食べたのも・・・、
全部初めてだったの」
「え・・・」


「ひとりじゃないって、なんだか温かくて、少し照れくさいんだね。

――ありがとう、藤次郎」


間違いなく、そのときの言葉が俺の心を支えてくれた。救ってくれた、と言うほうが正しいかもしれない。
冷たい海の中に、少しずつ確実に沈んでいた心が、海面を通り抜けて光に当てられたように。
眩しくて、温かかった。








雨音が来て、いつの間にか半月が過ぎていた。
その時間の早さに驚くほど、雨音と過ごした日々にはたくさんの事が詰まっていて、色濃く記憶にまだ留まっていた。
雨音との時間は、自分自身の中に大きな変化をもたらしていた。
それは小十郎や成実も感じたことらしく、ふたりは俺を見てどことなく嬉しそうだった。



「父上!」


ある昼下がり、雨音と共に離れの中庭で遊んでいると、父上がゆっくりと歩いてくるのが見えた。
久々に見る父上の姿に、俺は嬉しくなって駆け出す。
父上の傍にいた側近が「そんなに急に駆け出しては転んでしまいますよ」と笑いながら言った。


「父上!今、雨音と遊んでいたのです!」
「ほう、そうか。ならばこの父も是非混ぜてもらえないだろうか」
「もちろんです!」


離れには、うららかな昼下がりに相応しい明るい笑い声が響いた。
他の者は城にて執務に追われているため、この離れの笑い声に気づくものはいない。だからだろう。
雨音が来てからは、休日でなく、皆が仕事をしている日に父上は会いに来ることが多くなった。


遊びつかれ縁側で三人並んで腰をかける。
父上が来ると、きまって三人で取っ組み合いやかけっこをして、疲れればこうしてお茶を飲みながら一息つく。


「――藤次郎。お前は表情が柔らかくなったな」
「え・・・」


お茶をゴクンと音を立てて飲み込み、父上はそう言った。
その言葉に雨音も続きの言葉をせがむように父上を見上げる。


「雨音が来て、お前は確実に変わったように思う。俺はそれが嬉しい。
――ありがとう、雨音。やはりお前を拾ったのは正しかった」


なぁ、と側近を見上げれば、側近の彼はそうでしたね、と悔しそうに笑った。
雨音は嬉しそうに俺を見て笑い、そして父上を見て「拾ってくれてありがとうございます」そう言った。


こうしてなにもない、だけど暖かい日々を積み重ねるたびに、ずっとこうして、皆で一緒にいれたらいいと願わずにはいられなかった。


だからこそ、落ちてきた小さな黒点に、俺はどうしようもなく不安で怖くなり。


やがてそれは俺をあざ笑うかのように現実になってしまったのだった――。





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