第一章 26「お前の想い、しっかり叶えてやる」 「・・・いかがされました、政宗さま」 「An?」 「・・・・先ほどから一向に、書類の山が減っていないのですが」 小十郎の言葉に、政宗はたった今目の前に書類の山があることに気がついたかのように目を丸くし、すぐ逸らす。 はぁぁぁ、という小十郎の嫌味がたっぷり詰まった溜息が背中越しに聞こえた。 小十郎からこの大切な時期になにをたるんでいるのだと説教を食らった政宗は、今度こそ書類一枚一枚に目を当通し始める。 今日は朝から、どうにも集中力に欠けている。 書類に目を通しても、一枚処理し終えるとすぐに手が止まってしまう。 その繰り返しで、結局昼過ぎまでに半分も終わらなかった。 まだまだ後が詰まっておりますぞ、と言いながら次から次に小十郎が書類を執務室へ運び込むものだから、 あっという間に山がいくつかできてしまうのも無理はない。 いつもならそれでもなんとかその目まぐるしい仕事の回転率についていけていたが、今日は始めからすでに追いつくことができなかった。 まるで競争でひとりずっこけて、どんどんと追い抜かされていく気分だ。書類の山たちに。 ――敗因はわかっている。 昨日の、慶次の言葉が頭から離れないからだ。 「――俺が、柊を・・・・ねぇ」 正直に言ってしまえば、今まで柊をそのような対象として考えたことはなかった。 というより、恐らく今までに誰かに、恋焦がれるという感情を持ったことがない。 “恋焦がれる”という表現に、己のことながら似合わなすぎずについ笑ってしまう。 確かに、柊のことが気になって仕方がない、というのは本当だ。 泣いている姿を目の前にしたときは思わず抱きしめもした。でもこれが果たして恋愛感情なのかどうかは、全く持って検討がつかなかった。 何か正解があるのなら是非とも知りたい、と柄にもなく他人任せな考えを持ったりもした。 柊は伊達軍の、大事な大事な官医だ。 腕は確かだし、何に対しても真面目でしかもなかなか面白い奴だ。時々寝ぼけたようにおっちょこちょいを仕出かしたりはするが。 だが、それだけだった。医師として、伊達軍の一員としてみてきたが、それ以上に考えたことはない。 それなのに、前田慶次のたった一言に、こんなにかき乱されているのはなぜだ。 しかし、この自分自身のなかにある感情を口で説明するのはかなり難儀なことだし、 むしろこういう気持ちを言葉で言い例えるのは、なんだか無粋にすら思える。 「あいつに直接会って確かめるのが一番いいか・・・」 柊に会えば、自分の中に渦巻いている感情がなんなのか分かると、誰が言ったわけでもないのに確信していた。 どこか頭の片隅で、「そんなのは言い訳で、ただ柊に会いたいだけなんじゃないか」と聞こえた気がして、また頭を抱えるはめになった。 織田の目まぐるしい勢力拡大は、伊達軍のなかでも噂の中心だった。 訪れる人が集中するお昼過ぎ、医務室は医務室らしくなく、患者で賑わっていた。皆怪我で訪れていたので、口は至って元気なのだ。 治療が済んだ者もいまだに留まっていた。いつもならさっさと追い出す鄭だったが、しかし今日はそれをしなかった。 それは恐らく、話題になっていた織田軍の話に興味があったからだろう。 柊も何気なく話を聞いていると、それに気づいたひとりが柊にも話をふった。 「噂じゃ、次は甲斐に攻め入るって話だ。そうすりゃ上杉に行って、次はこの奥州だ。なぁ柊ちゃんもそう思うだろ!?」 「えっ・・・、すいません、私には何とも言えないです・・・」 勢力についての知識なんて、名前を知っているという程度だったため、今後どこへ攻め入るかなんて柊には皆目検討がつかなかった。 「なんで次は甲斐だなんて言えるんだ?」 「馬鹿野郎、織田は徳川と同盟結んでるんだよ。そんで徳川は甲斐を手に入れたがってる。 甲斐攻略できりゃ双方大きな力になるんだ。攻め入らない理由が見つからねぇよ」 「・・・徳川と同盟を・・・?」 「ああ、そうだ。随分昔からすでにそういう関係だったみたいだが、近年ちゃんとした同盟を結んだらしい。 ・・・どうした、浮かない顔して?」 「あ、いえ。 ・・・なんでもないです」 なぜだか、その部分だけが妙に引っかかった。 先の女攫い事件のせいでただ、徳川という姓に敏感になってしまっているだけなのだろうか。 いや、敏感になっているというのなら、徳川というよりも織田のほうだ。 織田・・・、織田 信長・・。 なにかが脳裏を掠めたとき、鄭の声が割り入る。 「おい、柊。手が止まっているぞ」 「あ、・・・すいません」 結局、そのまま掠めたと思った何かはすぐに泡の如く消えてしまった。 夕刻。 患者の数もすっかり落ち着き、医務室はいつも通り鄭と柊のふたりになっていた。 今日訪れた患者の記録や、薬の整理をしていると、ふと鄭が口を開く。 「――柊。 まだ、過去の記憶は戻らないのか?」 その言葉に、柊は思わず筆を取り落としそうになる。 「・・・なぜ、そのことを・・・」 大きく見開かれた瞳に、鄭は特に気にするでもなく言葉を続ける。 「儀俊から聞いていたのでな。確かお前が7歳のときに、儀俊のもとへとやってきたのだったな。 しかしその時にはすでにそれまでの記憶を無くしていたそうじゃないか」 「・・・はい、その通りです。私には父上と母上に会う前の記憶がありません」 「父上と、母上か」 「記憶をなくした私にとっては、あのお二人は親同然でした」 「・・・・過去を、思い出したいと、思わぬのか?」 鄭の言葉に、柊は震えを隠すために手を握りしめた。 「・・・思い出したくない、といえば嘘になります。無くした過去に、未だに縛られていますから。 でも、思い出したいというのも、嘘になってしまうと思うのです。私はどこかで、思い出すのを拒んでいる。 けれど、恐らくそんな悠長なことを言っていられる状況にないところまで、追い詰められている」 「と、いうと?」 「先日の奇襲騒ぎの際、風魔小太郎という忍に問われたのです。柊という名が『偽の名か?』と」 「偽の名?」 「私に、もうひとつ名前があることを知っているような口ぶりでした。 確かに、『柊』という名は、父上・・・儀俊殿が己の名すら忘れた私につけてくれたものです。 恐らく彼は、私の失った記憶について知っているのでしょう」 鄭は思案するように考え込む。掠めたのは、小十郎に手渡した文だった。 「私がこの先自分の過去について何も知らなければ、もっと伊達軍に迷惑をかけてしまいます。 ――私の知らないところで、何かが動き出しています」 「怖くはないのか?」 何が、とは言わない。言い出したらきりがないくらい、不安事なんて沢山ある。 しかし右腕の刺青、そして父上、母上と出会ってしばらくした時に、使うことを禁止された『能力』。 自分のことなのに、自分が一番、わかっていない。 きっと今までなら、知るのが怖くて、恐ろしくて、逃げていたに違いない。 でも、今は。 政宗さまがいる。 心の支えがある、と言うほうが正確なのかもしれない。 今まで、護りたいものなんてなかった。 自分のことだって、大切にしようとは思わなかった。 でも、ここ米沢城にきて、皆に出会って、政宗に出会って。 大切な人たちだと思うから、護るための力の一部になりたいと、いつの間にか思うようになっていた。 護りたい。だからこそ、自分のことを、知るべきだ。 「――怖い、ですけれど。でもそれ以上に、護りたいものができましたから。 そのためなら、怖さなんて大したことじゃありません」 「そうか・・・」 口を緩ませて話す柊に、鄭も安心したように目を細める。 「あ、鄭さん。私この書簡、蔵に戻してきますね」 「おお、宜しく頼む」 柊の出て行った襖を暫く眺め、鄭は天井を仰ぐ。正確には天井のさらに上、空だ。 体が死んだ者の、魂はどこに行くのかと、職業柄かよく考える。海に還るのか、魂も一緒に土の中に入るのか。 鄭は、空へ上るのだと思っていた。だからいつも、故人を思うときは空を仰ぐ。 「儀俊よ、少なくとも、お前が選んだ柊の次なる場所は、あやつにとって大きな影響を与えたようじゃの。 少しずつ、自分の存在に向き合おうとしている。 ・・・しかしお前が一番に望んでいたことにはまだまだ遠いようじゃ」 儀俊に、柊の話を聞いたときのことを思い出す。 あいつは、幼い時からきっと苦しい思いをしてきただろうから。 厄介な家に生まれちまったばかりに、入りもしない付加価値をいろいろ付けられてしまったのだろうから。 だから、過去を忘れた、というのはいいことでもあると思うんだ。 そりゃあ、それだけであいつが幸せになるとは限らない。 きっと、これからも失った過去に縛られることがあるだろう。本当の親だって、今後何かを仕掛けてくるかもしれない。 でもだからこそ、俺は願うよ。 あいつの、あいつの。 ――柊の、平凡を。 「まァ、もうちょい待っておれ。・・・政宗さまがいてくださる。伊達軍がついておる。わしだって、何かの役に立てるやもしれん。 お前の想い、しっかり叶えてやる」 今更ですが・・・、当初の予定よりも随分、本当にずいーぶん、長くなりました、この連載。 そしてまだ半分にも入っておりません。あともう少しで折り返し地点な感じですが。 この連載を読んでくれている方がどれくらいいるのかは分かりませんが、読んでくださっている方本当にありがとうございますです。 [*前へ][次へ#] [戻る] |