蝉時雨が泣く

今、紫杏は走っていた。長い廊下を、何処に行くともなしにただひたすらに走っていた。階段を見つければ、それを駆け下りて、また長い廊下を走る。ただ、離れたかった。あの場所から。あの部屋から。あの人のもとから。


“出て行って”


どこか、切羽詰まったような、悲しみの帯びた声が耳の奥に粘着質をまとって残っている。どれだけそれを締め出そうとしてもできなかった。なんどもなんども脳内で繰り返される言葉たち。


何を間違えたんだろう。何が悪かったんだろう。何が、いけなかったんだろう。


“―――わからない”


足がもつれ、地面に体が転がっていった。肘を打ちつけたのか、鈍い痛みがくる。思わずその場所にうずくまった。腕よりも、胸の方が痛かった。胸の奥がまるで剣で刺されたかのように脈打ち熱くなり痛みが血液から全身をめぐっていく。


紫杏は、顔も見たくないと言われ、部屋を出た後、急いで向かった場所があった。顔も見たくないのだったら、見せないようにしないといけない。安易な考え方であるが、それしか思いつかなかった。なんとしても、“家族”にしがみついていないといけなかった。


再び、家族を失いたくはなかった。


そして、思いついたのが、いつかの日に物置部屋のような場所で見つけたお面だった。あれだったら、顔も隠れる。あれをかぶっていればきっとお父さんも普通に接してくれる。


それしか紫杏には思いつかなかった。それほど、頭は考えることを拒否していた。めまぐるしく変わっていく記憶は、先ほどの出来事を鮮明に映し出していく。まるで拷問を受けているようだった。
椅子に縛り付けられ、顔もそらせないようにされ、口には猿ぐつわを噛まされ。目をそむけることも、声をあげることもできない状態で、一番いやなものを目の前で見せられている。


紫杏はうずくまっていた体を持ち上げ、再び長い廊下を走りだしていた。まるで後ろから何かに追われているかのように必死に逃げていた。


お面をかぶった紫杏は今度は、ちゃんと説明しようと、ちゃんと謝ろうと思ってツナの部屋へ赴いた。しかし、中から聞こえてきた父の低い声に部屋の前で動きを止めていた。


耳は、常にないほどクリアになり、頭の中では聞くなという警告がなっているにもかかわらず体は金縛りにあったかのように動かない。いや、もしかしたら、金縛りにあっていたのかもしれない。


“もう、紫杏をどう愛せばいいかわからない”


それを聞いた瞬間走り出していた。


はっきりしていた。もうどれだけ頑張ろうと家族に戻ることはできないのだと。どんなに歩み寄ろうと、あちらが歩み寄ろうとしない限り無理なのだと。
もう、何もかもが手遅れだったのだと。


「紫杏!」


ふと、足を止めればそこは玄関ホールだった。すぐ横手に玄関のドアがある。気づけばそこに手をかけていた。幼い体には重い扉を全身で押し開く。外は酷い雨だった。風がないせいか、蒸し暑くじめじめとした空気が肌にまとわりつく。


「紫杏!」


後ろを振り返れば、狭い視界の中にリボーンをとらえた。


「…何、してるんだ」


紫杏は動かなかった。ただじっとリボーンと対面している。
リボーンの目の前には、ずいぶん前に一度だけかぶっていた黒猫のお面をつけた紫杏がいた。黒猫の顔は、こめかみの部分から中心に向けて徐々に狭まっていく白い線が両頬に2本ずつ書かれていて、鼻の部分は少し高くなっている。目は黒目の部分に穴があいているわけじゃなく、目の形に切り取られていて、人の目は見えるようになっていた。


「なんで、お面なんてかぶってるんだ」


そこで、初めて紫杏は動いた。持っていたペンでスケッチブックに何かを書き込んでいく。


[きぶん]


それは、酷く短い言葉だった。


しかし、次の瞬間リボーンはハッとなった。お面の下から雫がぽたぽたと落ちてきている。それは、紫杏の足元にしみをつくっていった。


「紫杏…」


リボーンは歩み寄ろうと、足を一歩踏み出した瞬間、紫杏は手に持っていたスケッチブックやペンを投げ捨て開けていた扉から飛び出した。


「紫杏!」


雨の中を飛び出していく紫杏。紫杏自身自分が何をしたいのかわからなかった。ただ、リボーンに近づかれたくなかった。泣いていると気づかれたくなかった。彼にまで、嫌われたら?いらないと言われたら?顔を見たくないと言われたら?
そんな考えしか、今の紫杏には思い浮かばなかった。


雨を大量に含んだ地面は柔らかくなり、紫杏の裸足の足に土と土で濁った水をとび跳ねさせていく。外に飛び出した瞬間、体全部を包み込むように雨が降ってきて、服を髪を、お面を濡らしていく。そして、紫杏の涙を覆い隠していく。


芝生の上には雨の重さに耐えかねた短い草たちが、その短い胴体をうなだれさせていた。そこのうえを紫杏が通り過ぎていく。


重くなっていく体も気にならずただ走っていた。走って走って、どこに向かおうとしているのかもわからないのに、走っていた。雨水がお面から中にしみ込んできて目を濡らす。ぬぐおうにもお面が邪魔で拭えない。


それでも走り続けた。蝉時雨が耳の奥に響く。この雨が洗い流してくれればいいと思った。全て、今日会ったこと全て無かったことにしてくれればいいと思った。


「紫杏っ!」


聞こえた声にはっとなったときは、雨にぬれて冷えた体が温かいものに包まれていた。視界が黒く染まり、耳には激しい鼓動と荒い息遣いも聞こえてくる。


「紫杏。大丈夫だ。大丈夫」


ぎゅっと抱きしめてくれる腕。目の前に広がる黒と、耳に聞こえてくる鼓動が雨をかき消していく。
目の前の黒に抱きついた。一度触れてしまった温もりは忘れることができないんだと思い知る。思い知らされる。


「紫杏…。部屋に、戻るぞ。風邪をひく前に」


ゆっくりと体を持ち上げられた。二人ともびしょぬれだった。でも、リボーンの体温は結構高くてくっついていれば寒さなんて感じなかった。
リボーンの首に腕をまわし肩に顔を埋めた。


リボーンがあるくたびに起こる振動の揺れを感じながら目を閉じた。しばらくして、扉の開閉音に顔をあげた。


「紫杏。風呂に入ってこい。風邪ひくぞ」


私を床に降ろしたリボーン。気づけば、リボーンの部屋にいた。地面に足をつければ、リボーンが遠ざかるから、思わず彼のズボンに手を伸ばしていた。


「どうした?」


微笑みながら聞いてくるリボーン。ぱっと手を放し首を振る。本当は離れてほしくなかった。でも、それは我がままだから。我儘はわずらわしいから。


「早く入って来い。俺はここにいるから」


リボーンを見上げる。リボーンも全身ずぶぬれだった。当り前だ。あれだけの雨が降っていたのだから。リボーンに先に入っていいよ、という意味を込めて、リボーンを指差してから風呂場を指差すと、分かってくれたのか頭を撫でられた。


「俺は平気だ。それより、紫杏が風邪ひいちまったら、俺が麻依に怒られるんだぞ。それとも…、一緒に入るか?」


ニヒルな笑みを浮かべるリボーンに顔が真っ赤になるのがわかった。一気に熱くなる頬に思わず俯くと頭をぐしゃぐしゃに撫でられる。上から喉の奥で笑うような声が聞こえる。


「さっさと入って来い」


背中をそっと押され脱衣所に入る。広いそこは、とても子供一人で使うような場所じゃ無い。ピカピカに磨かれた鏡は、猫のお面をかぶった私を映し出す。


そっとお面に手を伸ばした。お面をゆっくりと持ち上げれば、その下から泣きはらした目がのぞく。なんて、醜い顔だろう。なんて、嫌な顔だろう。


嫌いだ。嫌い。こんな自分嫌いだ。大っきらい。消えてしまえばいいのに。無くなってしまえばいいのに。


鏡から顔をそむけ、風呂場へ入った。シャワーを出せば湯気があがり、風呂場内にあった鏡がどんどん曇っていく。曇った鏡は何も写そうとはしなかった。それでいい。誰も、何も写さなければいい。何も、見えなくなればいい。


その日の夜は、リボーンの腕の中で眠りについた


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