話せないから黙ったまま俯いていれば、どこからか溜息が洩れた。 「ハア…早くしてよ」 ビクッと肩が震えあがった。声にしなくちゃいけない。言わなくちゃいけない。声を…声… ゛声を聞くだけでも気持ち悪い…″ ママのぞっとするほど低く、小さな、それでいてはっきりと聞こえた声が耳に響いた。あの、狂ったような目が頭に浮かぶ。 何も、言えなくなる。言葉が浮かばない。どうしよう、どうしよう。声ヲ出シタラ、嫌ワレル…。 俯いたまま、服の裾をギュッと握り、溢れそうになる涙を流さないように必死にこらえる。 目の前が真っ暗になる。窒息していく…。心が、言葉が、死んでいく…。 涙がもう耐えきれなくなって落ちる、というときに、頭の上に何かがパサッっとかぶさって視界が真っ暗になった。 それと同時に浮遊感があり、ビックリして体をこわばらせると、背中をゆっくりとなでる手。 頭の上にかぶっていたものは帽子みたいで、しかし、その帽子はすぐに頭上に乗ったままカメレオンになってしまった。 開けた視界には、ボルサリーノをかぶっている少年。私の頭の上にはさっきの少年の帽子に乗っていたカメレオンがいた。カメレオンはすぐに、少年の帽子の上に戻り、私を見つめてくる。 少年も私を見ていて、夜の闇のような瞳の中には、もう涙があふれている私がいた。少年は私を器用に片手で持つと、もう片方の手で優しく涙をぬぐってくれる。 「お前、声が出ねえんじゃねえか?」 驚いた。わかってもらえると思っていなかったから。驚いて、一瞬頭が真っ白になったけど、すぐに正気に戻り頭を縦に振る。この人のそばは安心する。私を連れてきた人のそばも安心するけど…。 「ああ、そうだったんだ。ごめんね?」 私を連れてきた男の人は、私の頭をなでながら微笑んだ。私は、首を横に振る。 「字はかける?」 うなずく。私は今は5歳の格好をしているけど、もとはといえば17歳だから、かけないわけがない。…そういう力がなくなっていなかったらだけど…。 彼に、紙とマジックを持たされたので、少年は私をおろしてくれた。ソファーの前にあった低い、私でも届く机に紙を置いて、自分の名前を書く。 [紫杏] 「紫杏っていうんだ。…何歳?」 [たぶん、5さいだと…] 「たぶん?」 たぶん、はたぶんなのだ。正確に5歳とわかったわけじゃないし。ただ、ショーウィンドウに映っていた姿が5歳の時の私と似ていたというだけだ。 でも、その説明をどう説明すればいいかわからないし、説明したところで信じてもらえるとは思えなくて、少し考えた後に、書き直す。 [ 「?じゃあ…どうして走っていたの?」 走っていたというのは、この人にぶつかってしまった時のことだろう。怒られるのかな…。 [おいかけられていたから…] 「追いかけられた?」 男2人を思い出す。たぶん、私があの何かの取引みたいな現場にいたから追いかけてきたんだ。私がドジって枝を踏んでしまって見つかったのだ。 そのあとは、銃も発射され…。今思えば人生にそう無いだろう経験を今日一日で体験したんだな…。 「…[おとこ2りがいて]…[なにか]……」 そこまで書いて言葉が詰まってしまった。困惑しながら彼を見上げれば、優しい頬笑みを浮かべて私が書くのを待っててくれる。 ほかの人たちはみんな黙ったまま私が描くのを待っている。 沈黙のせいで、少し頭の回転が遅くなっているように感じる。いや、実際に遅くなっているんだと思う。どう説明していいかわからない。 どうやって、あの場面を説明しよう?私は、説明するだけの言葉が出てこない。もともと、誰かに説明するという行為が苦手だった。だから、絵を描いて説明するようになった。 もともと絵を描くことは好きだったから。まあ、それも途中までだ。途中からは絵を描くこともしなくなった。 友達も、親も、異質なものを受け入れようとはしなかったから。 [5ふんくらい、まってもらえますか?] 「?うん」 [あと…、えんぴつかほそいペンってありますか?] 「?これでいい?」 そう言って差し出されたのは、万年筆。しかも、かなり高そう…。周りにあるものも、あのふかふかのソファーもかなり高級なものなんだ。ということは、この人たちは金持なのかな? 渡された万年筆にうなずいて、今まで書いていた紙を裏返し、まだ何も書かれていない真っ白な方に書き始める。 あまりまたせてはいけないので、5分にしたけど、そうしたら結構適当になってしまう。 でも、かける。それだけが私の取り柄だったから。久しぶりだけど、手は感覚を覚えている。 あの情景もすべてを覚えている。あの光景。男3人。倒れている男一人。スーツの胸元にある模様。壁に書いてあった落書き。雲がどんな形をしていたか、影がどんなふうに伸びていたか、すべて――― 早描きで描いたからあまり上手とは言えない出来上がりになったけど、たぶん、状況は説明できるだろう。 そして、描き終わった後に、裏に [これをみてみつかっておいかけられた] この言葉を見せてから、私の前で待っていてくれた私を連れてきた男の人に絵を見せた。その絵をみた瞬間に彼は目を見開いて驚いた。 私の中には、なぜか、彼は私を受け入れてくれる気がした。 「よく、こんなに、鮮明に覚えているね…」 その言葉に、周りは意味がわからず首をかしげた。そこに、女の人は近寄り、絵を覗き込んだ。 「すごい…。写真見たい…」 少年が、彼が持っている絵を奪い取り、見ると彼もどうように驚きを顔にあらわした。 「へえ、赤ん坊がそんな反応するなんてね。僕にも見せてよ。それ」 そう言って、近づいてきたのは黒髪釣り目の男の人で、少年は彼にもう赤ん坊じゃねえと言いながら絵を渡した。 「ワオ。確かに、これはすごいね…。一瞬の出来事をこんなにも鮮明に、ね」 そして、彼から順番にその絵はみんなの手へと渡って行った。そして、最後にもじゃもじゃの髪の少年に渡った後、また少年のもとに返ってきた。反応はそれぞれだった。 少年は私の描いた絵をしげしげと見つめていて、ポツリと呟いた。 「瞬間記憶能力、か」 その呟きに、私の心臓が嫌な風に高鳴った。 いつかの誰かが言っていた言葉が頭に浮かぶ。 ゛気持ち悪い…。まるで化け物じゃないか″ さげすむ目で私を見る。私が自分のことを話した瞬間だった。なんで、なんでだろう。私は、『普通』なのに。 「瞬間記憶…って、あの一瞬でなんでも覚えられちゃうってやつ?」 「ああ、そうだぞ。速読なんかと違って、これは生まれつき持つ能力だ」 「へえ!すごいね!紫杏ちゃん」 「!!…[すごいの?きもちわるくない?]」 私を連れてきた人の隣に立っていた女の人は、そういうと私の頭をなでた。雰囲気が優しくて、昔のママを思い出す。 5歳のころが一番、幸せだったのかもしれない。 私が書いた文字をみると、彼女と私を連れてきた男の人は顔を見合わせた。 「どうして、気持ち悪いの?」 [ふつうじゃないから] 「普通じゃないと、気持ち悪いの?」 [だって、ふつうじゃないのはへんだよ] 「おい、紫杏。じゃあお前は変なのがいいのか?」 少年が、聞いてくる。その言葉に私は首を横に振った。小さい頃は、なぜ覚えていることが変なのかがわからなかった。 大きくなっていくにつれてわかったことは、変じゃなくて異質なんだ。異質なものは受け入れられない。 どこでも、そうだった。小学校でも、中学でも、高校に行ってからだって。 受け入れてもらうことなんてできなかった。 だから、この人たちも…。 |