とある女の独白

その日は特に何の変哲もない日だった。強いて言えば珍しく旦那の仕事が休みだった。そのかわりというように私に予定があり、出かけなければならなかった。いつもとは逆だねなんていいながら、お昼ご飯だけ用意して三時ぐらいには帰るからねといって出かけた。


虫の知らせなんて言葉があるけれど、そんなの何も感じなかった。


お昼ご飯を食べる時に、旦那に送ったメールには紫杏が作り置きしたお昼ご飯を食べる姿が送られてきた。おいしいよというメッセージ付きで。それに微笑みながら、もうすぐ帰るねと送った。それが最後のメールになるなんて、ちっとも思っていなかった。


家に帰ると、パトカーが何台も止まっていた。何か事件があったのかなんて呑気に思っていたのはすぐに覆された。


私の家の前に規制線が張られているのだ。慌てて駆け寄った私に警察は止めたけれど、私の家だと説明すると入れてくれた。


「奥さん、気をしっかり持って聞いてください」


玄関先で刑事だと名乗る男が私の顔を覗き込んだ。玄関先からみただけでも家の中は一眼で何があったかわかるほど荒らされていた。写真立ては床へ落ちガラスが飛び散っている。引き出しという引き出しはひっくり返され、中身が散らばっているようだった。そして、階段の上には多くの警察が立っていた。鑑識らしき人たちが何枚もフラッシュを焚いて写真を撮っている。その足元には赤い血が滴り落ちていた。


血の気が引くとはこのことだと思った。


ふらりとめまいがして、動悸が激しくなる。


喘ぐようにして娘と旦那の所在を聞くと、刑事さんは痛ましそうに顔をしかめた。


「娘さんは無事でした。目立った外傷もありませんが、精神的なショックで気絶したようで今は救急車がくるまで一階の寝室で休ませています。そこは比較的荒らされていませんでしたから」

「だ、旦那は……」

「旦那さんは、残念ですが……」


反射的に駆け出していた。静止の声も聞かずに、駆け上った先で、別の刑事さんに抑えられる。しかし、その腕の隙間から見えたものに、私はたまらず悲鳴をあげていた。


ほんのすこし前に、おいしかったよとメールをくれたのだ。美味しそうに私が作ったご飯を頬張る紫杏の写真を添付して。


今朝だって、いつもとは逆だねって言いながら、いってらっしゃいといって見送ってくれたのだ。気をつけてねといって、笑っていたのだ。


その彼が、顔の判別もつかないほど真っ赤になって倒れていた。目と鼻があった位置が不自然に陥没していた。紫杏の手足が傷つかないようにと引いたラグマットが一面真っ赤に染まっていた。


酷い吐き気が襲いとっさに口元を押さえてうずくまる。


刑事の一人が私を抱きかかえるようにして階下へ連れて行った。


「こんな時ですが、すこしお話を聞かせてもらえますか」


刑事が気遣うようにそっという。私はそれになんと答えたのだったか、まったく思い出せない。しかしおそらく聞かれたことには答えていたのだろう。


ぼうとする頭でいつのまにか救急車に乗せられ、目の前にはストレチャーに乗せられた紫杏がいた。外傷がないと言われた通り、紫杏に目立った傷は見当たらなかった。穏やかとも言える寝息を立てている紫杏の顔を撫でる。


なぜ、こんなことになったのか。


これからどうすればいいのか。


考えることも億劫でぼうっとしている間に病院について病室へ連れて行かれた。


それから何人かの刑事さんが話を聞きにきた。刑事さんの調べによると、ここ最近頻発していた強盗じゃないかという話だった。同様の手口で隣町も2件の家が強盗されていたらしい。ただし、家に人はおらず人的被害は出ていないようだった。しかし今回はたまたま旦那が居合わせてしまった。抵抗したあともあったことから紫杏を守ろうと立ち向かったのだろうという話だった。


犯人は逃亡中で全力で足取りを追っていると警察がいう。しかし目撃証言が少なく、なかなか犯人を割り出せていないらしい。


紫杏はクローゼットの中に隠されていたようだ。刑事さんに紫杏は瞬間記憶能力というもので見たものを忘れないと伝えた。もしかしたら似顔絵を作成できるかもしれないと思ったのだ。


紫杏は三日三晩眠り続けた。医者は精神的ショックによるものだろうと行った。


そして三日目、紫杏は目を覚ました。すぐに事件のことを聞くと、驚くことに紫杏は何も覚えていなかった。


紫杏が忘れるはずがない。だってこの子は瞬間記憶能力を持っているのだから。


試しに何度か見せた絵だって瞬時に記憶して全て覚えいた。


それなのに、事件のことを何も覚えていないなんてはずがない。


しかし、刑事に何を聞かれても紫杏はわからないというように首を横に振る。しまいには唐突に眠ってしまうこともあった。


医者は精神的なショックで、自分の心を守るために記憶を封じこめたのではないかと行った。不意に思い出すこともあるかもしれないが、悲惨は事件のため思い出さない方がいいのではないかととも付け加えて。


捜査は難航した。


連日テレビの報道陣が我が家を映し、事件の凄惨さを囃し立てた。そして誰かが言ったらしい紫杏の瞬間記憶能力のことも取り上げられた。


しかし、紫杏は何も覚えていない。


唯一の事件の手がかりだというのに。なぜ、何も覚えていないのか。旦那の最後を看取ったはずなのに、なぜ全て忘れてしまったのか。


そんな思いが胸の中でとぐろを巻く。


悲しみと恨みで気が狂ってしまいそうだった。もし目の前に犯人が現れたのなら躊躇わずに同じ目に合わせてやるのにと考えていた。


そんな中、元の家には戻れないからと引っ越したアパートの一室で引きこもるような生活が続いていた。


いつだって笑顔で私を出迎えてくれて、支えてくれた人はもういない。紫杏のことも一緒に育てていこうと言ってくれた人はもういない。


笑い方も何もかも忘れてしまった。どうすればいいというのか。


なぜ私がこんな目に合わなければならないのか。


その頃、私がどうやって生活していたのか、はっきりと覚えていない。カーテンも閉めきり、外界から遮断して紫杏と二人閉じこもる毎日だった。紫杏は私の異様な雰囲気を察したのか、あまり近寄ってこようとはしなかった。


そんな紫杏が不意に言ったのだ。


「ねえ、ママ。パパはどこ?どうしていなくなったの?」


それがきっかけだったように思う。何もかもが崩れていく音がした。


何度紫杏にパパは死んだのだ殺されたのだと伝えても紫杏はそのことだけは覚えていられない。


何を言っているのかわからなくなるらしい。記憶にとどめておけないことをとても不思議そうにしていた。


私が怒鳴りながら言ったところでこの子は覚えていられないんだと思うと、この問答を何度繰り返さなければならないのだと思うともうしんどかった。全て投げ出してしまいたかった。耳を塞いで、目も塞いで、そうやって現実逃避できたらどれだけいいだろう。


そう思っていた時、紫杏が行方不明になった。一人で家を飛び出したらしい。


今まであまり構ってこなかったのに、それなのに我が子はやはり心配で、着のみ着のまま飛び出して探し始めていた。前の家かもしれないとそちらにも言ってみたが紫杏はいなかった。


警察に連絡するべきかと迷っていたところで紫杏を見つけた。


そして、紫杏は言ったのだ。


「パパをみつけたよ!あのね、パパね」


嬉しそうにあっちにいたよと指をさす紫杏に恐怖した。


なんでこの子は何度言っても覚えられないのだろう。この子は何をみたというのか。なぜこんなに嬉しそうにしているのか。


気づいたら、紫杏の頬をひっぱたいていた。打ち付けた手のひら以上に心が軋んだ。


それでも、紫杏はパパがと言ってやめなかった。気づいたら私はなんどもなんども紫杏を殴っていた。


気づいた時には紫杏は気絶していて、顔を真っ赤に腫らしていた。慌てて保冷剤で冷やして紫杏を抱きしめた。ごめんね、ごめんねとなんども謝って、抱きしめた。


それからはなるべく働きに出るようにした。紫杏を見るとまた叩いてしまいそうで避けるようになった。けれどまったく顔を合わせないなんて無理で、ストレスが溜まると紫杏に当たるようになった。


こんなの間違っているとわかっているのにやめられなかった。


やがて紫杏は笑わなくなった。教師に何度も虐待をしているのではないかと疑いをかけられたが、その度に紫杏は否定しているようだった。


そのうち私は全てを忘れたくて男遊びに走った。何日も家に帰らないこともあった。でも家に帰らなければ紫杏に当たることもないと知っていたから、それにどこかで安堵していた。


でもやっぱり寂しさに耐えられなくなって、悲しみに押しつぶされそうになって、彼の両腕に抱きしめてほしくてたまらなくなった時は気づけば家に帰っていた。そして紫杏を殴っていた。


誰か止めてとどれだけ願っていたのだろう。


そんな日々が続いて気づけば私はボロボロだった。紫杏もボロボロだっただろう。


もう嫌だった。こんな自分も、紫杏を愛してあげられないことも、あの人がいない世界も何もかも嫌だった。何が間違いだったのだろうとなんども考える。どうすればよかったのだろうとなんども思い出す。


どこで選択を間違えたのか。


ああ、きっと全て、全て間違っていたのだ。


「アンタを、生んだことが間違いだったのよっ!」


今でも覚えている。この子を授かった時の不安。それを上回るほどの幸福。二人で一緒に育てようと誓った。どんな子に育つだろうと想像した。三人で幸せになろうねと誓い合ったというのに。


なぜ、この場所に彼はいないのだろう。


私はまだ、こんなにも愛しているというのに。






頭から血を流し、倒れる紫杏に血の気が引く。手にはさっき振りかざしたスタンドライトがあった。震える手がそれを掴んで離さない。激しい息遣いは自分のものだった。


あの時の彼と紫杏がかぶる。ラグマットに広がる血が命が流れ出していくのを教える。


何を間違えてしまったのだろう。


私はどうすればよかったのだろう。


震える体で紫杏に近づく。閉ざされた目が開く頃はない。


「紫杏、紫杏……」


久しぶりにこんなにも穏やかな気持ちで紫杏に触れたのではないだろうか。


そっと頬を撫でる。いつの間にか、こんなにも大きくなっていた。身長もそう変わらない大きさになっている。


平均的な体重より少なく生まれてきたのに、こんなにも大きくなっていた。


それからずっと私は紫杏を抱え彼女の頭を撫でていたらしい。


騒ぎを聞きつけ近所の人が通報したらしく、警察がきて取り押さえられた。


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