お母さんのところに行くと、成吉におっぱいをあげているところだった。ソファーでは隼人が腰掛け、何やら書類を眺めている。 入ってきた私たちを見ると、隼人は挨拶だけを済ませてすぐに書類に目を戻してしまった。 「あら、紫杏ちゃん。いらっしゃい」 笑顔で迎えてくれたお母さんに駆け寄る。 成吉の顔を覗き込むと、彼の目が私の方に向いた。 頬に指を伸ばし、つんつんとつついてみる。ふにふにした頬はやわらかくとても気持ちいい。しかし、食事中に邪魔されたと彼は顔をしかめてしまったため、すぐに指先を離した。 成吉は再び食事を再開した。 お母さんはそれを愛おしそうに見つめている。 「紫杏ちゃんは、朝ごはん食べた?」 頷く。 「そう。もうすぐ、成吉のご飯も終わるから、そうしたら遊んであげてね」 まだ首も座っていない成吉。寝返りも打てないため、動き回ることもない。 飽きもせず、おっぱいを飲んでいる成吉を見続ける。しばらくしてお腹がいっぱいになったのか、おっぱいから口を離した成吉。よだれで濡れた口元を、よだれかけで拭い、成吉の背中をとんとんと叩く。少しして、成吉が小さくげっぷをした。 「よし。お食事終了」 成吉をベビーベッドへ寝かせると、お母さんは伸びをした。 「ちょっとトイレに行ってくるから、成吉のこと見ててくれる?」 頷き返すと、お母さんは頭を撫でてくれた。 「リボーン君もよろしくね」 「ああ。任せておけ」 「ついでに、綱吉のところにも顔を出しに行くわ」 「わかったぞ」 お母さんが立ち上がったのを見ると、隼人も立ち上がった。そして、お母さんと一緒に出ていく。 リボーンを見ると、彼は私を抱き上げてくれた。 「はやと、は?」 「あいつは今日は麻衣の世話係だ」 「おかあさんの?」 「成吉を生んだあとだからな。何かないように麻衣についてるんだぞ」 「にんむ?」 「そうだ」 私は再び成吉に目をおとす。成吉は、どこを見ているのか、宙を見つめて、ぼうっとしているようだった。こっちに注意を引きたくて、手を伸ばし、成吉のほっぺをつつく。 刺激に驚いたのか、成吉がこちらを見た。 ゆるく握られていた手をつつくと、小さな掌が開く。 その掌に指先を乗せると、ぎゅっと握りしめた。 「なり、よし」 成吉は元気に足を動かし始めた。 足の先に手を当てると、私の掌を一生懸命蹴ってくる。 とてもかわいい。 「元気だな」 頷く。本当に元気いっぱいだ。 まだ、泣くことしか知らないらしく、笑ってはくれない。それでも、不思議そうに私たちの方をじっと見たり、音に反応したりする。 「紫杏はどれくらい前までの記憶があるんだ?」 「たてるように、なったとき」 私の一番古い記憶。あれが何歳だったのか、いつの季節だったのかもわからないけれど、断片的に覚えているそれは、とても幸せな記憶。 「パパが、てを、のばしてて、だっこ、してほしくて、そっちにいくの」 「ほう、そのころからの記憶があるのか」 「でも、パパいじわる。て、ひっこめちゃう」 「くく、そうか」 「だから、ないたの。そうしたら、パパ、ママにおこられてた」 成吉が短い声を上げる。そして、目線を彷徨わせる。まるで何かを探すように。 きっと、お母さんを探しているのだろう。部屋から出て行ってしまったお母さんを。もしかしたら、不安になったのかもしれない。 大丈夫だよという気持ちを込めて成吉の頭を撫でる。頬も優しくこする。大丈夫、大丈夫。 成吉は再び短い声を上げる。 何を訴えているのかはやっぱりわからなかった。それでも、とてもかわいいと思う。 「でもね、うまれるまえのこともすこしおぼえてる」 「産まれる前?」 「うん。あかいおへやにいたの。ままがおうたうたってるのずっときいてたんだけど、ままとつぜんやめちゃったの。だからもっとうたってほしくて、おなかけったんだよ」 静かでとても優しい声。どんな歌だったのかははっきりと聞き取れなかったけれど、その歌がとても好きでいつまでも聞いていたかったのは覚えている。 歌ってくれるのが嬉しくて、もっと歌ってってなんどもなんどもお腹を蹴っていた。 「ママはね、ほんとうは、やさしいの」 「ああ」 「パパが、だいすきで、だいすきで…」 「ああ」 「でも、わたし、ひどいこと、いっちゃった」 パパのことも忘れて、何があったのかも忘れて、泣いているママに酷いことを言った。残酷なことを言ってしまった。 「パパはどこ?って。いつ、かえってくるの?って」 見開かれたママの目が、信じられないと語る。なぜそんなことを言うのと。ショックと、驚愕と、それらは憎悪へと変化していき、真っ赤に充血した目が悪魔のようにゆがめられる。 それが、初めて暴力を振るわれた時だった。 「だから、ママにきらわれても、しょうがない」 「それは違うぞ」 「?」 「悪いことを言ったなら、叱ればいいんだ。それをせずに、悲しみに任せて暴力を振るうのは、そいつが弱い証拠だぞ」 「ママはわるくないよ」 「ああ、誰も悪くない。ただ、弱かったんだ。心が弱かったから、屈してしまったまま立ち上がれなかったんだな」 リボーンが私の頭を撫でる。 「だから、紫杏も悪くない」 リボーンの言葉に涙がこぼれた。それは私の頬を伝い、成吉の手にポタリと落ちる。 「頑張ったな」 頑張った、のだろうか。何を?私は何を頑張って来たのだろう。 そう思うのに、認めてもらえたようでどこか心が救われたようで、胸がいっぱいになった。 成吉は泣いている私を見てか、ぐずり出した。顔をくしゃりと歪め、うぇ、と鳴き声を発する。慌てて成吉の頬をくすぐり、泣かないでと伝える。 そのとき、部屋にお母さんが戻って来た。成吉と二人で泣いている私たちを見て驚いたようだったけれど、あらあらと困った顔をしながら抱き上げてくれた。ベッドに腰掛けたお母さんに抱き寄せられる。ふわっと甘く柔らかい匂いが胸を満たす。成吉もお母さんの登場に安心したのか泣き止んでいた。 「どうしたの?紫杏ちゃん」 ふるふると首を横に振る。しばらく甘えるようにお母さんにくっついていると、成吉が何かをねだるように声を上げた。 見てみると、抱っこをせがむように手を伸ばしている。 リボーンが成吉の脇に手を差し込み、成吉を抱き上げると私の膝の上に下ろした。 成吉は子供体温でとても暖かい。それに、成吉も甘いいい匂いがした。私の洋服を小さな手できゅっと掴む姿はとても可愛い。 「………っ、お、おかあさん」 お母さんは驚いたように目を見開いた。 「あ、あの、ね、いつも、ありがとう」 お母さんの目にはみるみるうちに涙が溜まって言った。それに慌てる。何か間違えてしまったのかもしれない、嫌な思いをさせてしまったのかもしれない。どうしようとリボーンを仰ぎ見るとリボーンは微苦笑を浮かべていた。 「紫杏ちゃんっ!」 がばっと抱きしめられる。私の膝に座っていた成吉が潰れてしまいそうで慌ててしまう。 「私こそありがとう!お母さんって呼んでくれて、私たちのところに来てくれてありがとう!」 「おか、さん」 「紫杏ちゃん。大好きよ」 お母さんの言葉に私もお母さんにしがみついた。胸が痛いほどに締め付けられる。しかしそれは嫌な締め付けじゃない。とても暖かく、これが幸せってことなんだと思えた。 私たちの抱擁は成吉が泣き声を上げたことで終わりを告げた。私たちの間で潰れることに限界が来たらしい。お母さんは笑いながらごめんねと成吉に誤っていたので、私もごめんねと成吉の頭を撫でた。 |