干からびたカエル

男が私に向かって手を伸ばしてくる。


息をつめた。


―――横たわったパパが、


見てはいけない。


―――赤く、赤く染まっていく部屋


思い出してはいけない。


―――男が囁いた


男が手を伸ばしてきた。




上って来る足音。ピリピリした空気。唇に当てる人差し指。向けられた微笑み。ゆっくりと開かれた扉。聞いたこともないようなおぞましい音。荒い息遣い。ふりあげられた拳。飛び散る赤い液体。光るナイフ。太陽のような金色。生臭い臭い。血走る瞳。澄んだグレー。迷彩柄。殴り飛ばされたパパ。パパに駆け寄りたかった。伸ばされた手が赤く染まっている。口に手を当てた。喉が引きつった。どくどくと心臓の音が聞こえる。軋む扉。叩き割られる窓。パトカーのサイレン。優しい顔が見下ろす。もう大丈夫。男が言った。赤い血が飛び散った。男と目があった。ガラス玉のような。綺麗だと思った。赤と金色が混ざり合う。体が震える。もっと奥へと身を寄せる。ぐしゃりと何かがつぶれる音がする。耳を取ってしまいたかった。鼻を無くしてしまいたかった。目を見えなくしてしまいたかった。ああ、ああ、ああ、声が、助けを呼ばなきゃ。叫ばなきゃ。誰か。早く、パパが、私が、男が、






『You are also next time. 』







「紫杏!」


急激に引き上げられたかのようだった。


息ができなくて、苦しくて、何度も吸おうとするけれど、吐こうとするけれど、肺が言うことを聞かない。引きつった肺は痙攣を起こしたかのように何度も何度もひくひくと跳ねる。


苦しくて、頭が真っ白になる。なんとかしなければと焦れば焦るほど呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだった。


背中に温かい何かが触れた。そして口元に何かが近づけられる。耳元で、大好きな人の声がした。


「紫杏。大丈夫だ。大丈夫。ゆっくり息をしろ」


リボーンだ。


頭でそう理解した時にはもう、私の手はリボーンのスーツを握り、呼吸に合わせるようにして胸を上下させていた。


「そう、いい子だ」


私の手によって握られたスーツにしわが寄っている。彼の好みのブランド物。値段を聞いたらとても高かったのを覚えている。離さなきゃ、しわになってしまうと頭の片隅で考えているのに、それに反するように握る手に力を入れていた。


一人にしないでほしかった。頭の中がぐるぐるとまわる。さっきまで真っ白で何も考えられなかったというのに、呼吸が落ち着いてきた途端、さっき夢にまで見たことが頭の中を埋め尽くしていく。


赤色に埋め尽くされ、吐き気が催される。


酷い貧血を起こしたかのように瞼の裏でちかちかと光がはじけては脳を揺らす。そのたびに再び赤と黒の世界に引きづりこまれそうになった。吐き気も相まってひどい気分だった。


「紫杏」


リボーンに手を取られる。大きな手だった。温かい。その手がいつだって私を暗闇から引っ張り出してくれる。


「落ち着いたか」


ようやく呼吸も落ち着いた頃、口に当てられていた何かが外された。目にたまった涙を何度か瞬きすることで流す。


クリアになった視界には、紙袋が見えた。


「紫杏、もう何も怖いものはねえぞ」


リボーンの手が頭を撫でる。リボーンの膝の上に抱えられて、横抱きにされたまま、よりかかる。


上を見上げると、リボーンの黒曜石のような瞳と目があった。その目を見ただけで安心感が湧き上がってくる。


「おーい、紫杏ちゃん起きたか?」


ガチャと扉が開いた。


入ってきたのはいつかのお医者さん。不揃いなあごひげに、眠そうな顔だった。頭をかきながら入って来る彼は、前回同様白衣を着ている。でも、やっぱりお医者さんには見えない。


「お!起きてんじゃねえか。紫杏ちゃん久しぶりだねー」


なんでこの人がいるんだろう、と思いながら彼を見ていると、聴診器を取り出したお医者さんはベッドのそばに椅子を引き寄せて座る。


「ちょーっと、体見せてもらうよ」


やっと、彼が私を診るために来ているのだと理解した。


酷く頭が重い。頭の回転がいつも以上に鈍くて、何も考えたくない。


ぼーっとしていると、リボーンが私を抱えなおした。あわててリボーンのスーツをつかむと、どこにもいかねえから大丈夫だ。と言って頭を撫でてくれた。


リボーンは、私を膝の上に抱えたまま、お医者さんの方に向き直らせる。背中をリボーンに寄り掛からせながら、聴診器を近づけてきたお医者さんをぼーっと眺めた。


一通り簡単な検査をしたあと、お医者さんは私と目線を合わせた。


「うーん、体に異常は無しだな」

「シャマル」

「喉も腫れてねえ。紫杏ちゃん、声は出るか?」


思わずお医者さんをまじまじと見た。私の声がでないことは知っているはずだ。


そんな私の考えがわかったのか、彼はもう一度声を出すように促す。


リボーンを見上げても、同じように出してみろとうなずくだけだった。


「あ」


開いた口からはか細い声が出た。自分の口から吐息ではなく音が発せられたことに驚いた。思わず喉に手を当てる。少しピリッとした痛みが走ったのは、久しぶりに声を出すせいだろうか。


すっと吸い込んだ息が冷たい。冷や汗が出てくる。なんで、どうして、そんな考えが頭の中で渦を巻く。喉をつまみ、目を泳がせていると、リボーンの手がそれを咎めるようにふれた。


もう一度促される。私の緊張も恐怖も何もかも伝わっているはずなのに、リボーンは声を出せと促した。


「あー…」


もういとど恐る恐る声を出してみる。やっぱり、出てきた。


憶えのある声よりは幾分高いように思う。やっぱり子供の体だからだろうか。


掠れたその声に、リボーンを見上げると微かな笑みとともに頭を撫でられた。まるでよくやったと褒められているかのようだ。


「出るみたいだな。痛みとかはないか?」


頷く。最初、ピリッと走った痛みは次の時にはなくなっていた。その間も、リボーンが私の手を握ってくれている。


「よしよし。熱もなし。喉にも異常なし。久しぶりに声を出しているからな。無理に話させるんじゃなくて、徐々に慣らしていけばいいだろう」


お医者さんは何度か頷いた。


喉をさする。息を吐き出すと今までのように吐息しか漏れない。それでも、声を出そうと意識をすれば、喉は確かに指先に振動を伝えた。


「紫杏」


リボーンが私の体を抱き寄せる。リボーンの腕の中にすっぽり納まったまま、彼に体を預ける。


声が、出せるようになってしまった。


嬉しいというより戸惑いの方が大きかった。どうして、声が戻ってしまったんだろう。なんで。


「紫杏。俺はお前の声が聴けてうれしいぞ」


でも、怖いんだよ。


「紫杏、大丈夫だ」


声なんていらないのに。


そんなものない方が幸せだったのに。どうして、どうして。


「紫杏。俺の名前を呼んでみろ」


リボーンを見上げる。くるんとしたもみあげが彼の頬にかかっている。いつもボルサリーノの上にいるレオンの姿はない。切れ長の目から除く黒曜石のような瞳は何も変わらず私を見降ろしている。


彼が触れる手も変わらない。何も。


「お前の声で、俺を呼べ」


リボーンを呼ぶ。当たり前な行為のはずなのに、彼に気づいてもらうために彼の服を引っ張るのではなく、私の声で彼に私の存在を知らせることになる。


期待のこもったまなざしに、私は恐る恐る口を開いた。


「り、ぼーん?」


舌ったらずだが確かに紡いだ彼の名前。


その紡がれた名前にリボーンは嬉しそうに頬を緩めた。


嗚呼、彼は受け入れてくれるんだ。


ストンと胸のなかに落ちた。


あるべき何かがそこにぴったりはまったかのように私は素直にそれを受け入れられた。


「紫杏ちゃん。なんかあったらちゃーんとリボーンに言うんだぜ?こいつなら怖いもんも何もかも撃退してくれるからな」


ウインクをしたお医者さんはそういって笑うと医療機器を持って部屋を出て行った。


リボーンを見上げる。体は激しい運動をした後のように気怠く、重たい。


「り、ぼーん?」


もう一度呼んでみる。出てきた声は相変わらず掠れているが、先ほどよりもしっかりと耳に届いた。


喉をつまんでみる。痛みも何もない。


「紫杏。何があったか覚えてるか?」


頷く。


「話せるか?」


頭の中にちらつく赤い色。意識すれば今も耳元でささやかれているような低い声。今だからわかる英語の意味。だからこそ、余計に恐怖で体震える。


それがリボーンにも伝わったのだろう。私を抱えるリボーンの腕に力がこもった。


それから、少しだけ体が離される。今まであったリボーンのぬくもりが遠ざかり、恐怖を一層煽られた私は慌ててリボーンの腕をつかんだ。なんで、放すの、と抗議するように見上げると、見たこともないほど真剣なまなざしが私を見降ろしていた。


目を合わせた私に、リボーンは逸らすことをゆるさないというように両頬に手を宛がわれる。


「紫杏。何があったかわからねえと守りようがねえ。わかるか?守るにはまず敵を知る必要がある」


私はうなずいた。もう一度深呼吸をする。


リボーンが一緒なら、大丈夫だ。


「ここに、いて」


彼に腕を伸ばす。


5歳しか離れていないはずなのに大人顔負けの彼は、私をその胸にすっぽりと納めて、
きつく抱きしめてくれた。


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