表情を変えた愛

隼人が、師範のところにいって5分くらい経っただろうか。さっきから、一向に進む気配を見せない課題を見て溜息を吐き出す。


頭の中ではずっと同じような考えが浮かんでは消えて、浮かんでは消えてと繰り返していた。隼人にまで心配される始末だから、よっぽどひどい顔をしているんだろう。


「空」


呼ばれた声に、びくりと肩を震わせる。おそるおそる顔をあげれば、今一番顔を合わせたくなかった人物がいて、思わず顔をゆがめた。


なんで、なんで普通に話しかけてくるの?昨日あんなことがあったのに。


「空、ちょっと、いいかな」


そういって腕をつかまれる。それはまるで逃がさないとでもいうようで、隣に隼人がいないことを本当に恨んだ。いや、隼人がいないからこそ、話しかけてきたんだろうけど。


昨日、さんざん夜中に考えた。


よぎる言葉は風とけんかした時のこと。先輩の噂だった。何を信じればいいのかもうわからない。


こんな状態で付き合っていけるわけがない。だから、話を聞いて、しばらく距離を置くべきだと思った。でも、話を聞くのが一番怖い。ずっと信じてきた先輩が浮気をしていたなんて、ショックで立ち直れる気がしない。


「空、いい?」


あたしは一つうなずいて、腕を引かれるままに立ち上がり先輩についていく。


ついていって、入った場所はつかっていない会議室だった。机が平行に並べられていて、一つの机にパイプいすが3つ備え付けられている。前にはホワイトボードもあって、コンセントのささっていないテレビもおかれていた。


会議室にきて、離された手を、胸の前で抱きながら、先輩に背を向ける。あたりを沈黙が包み込んだ。


その沈黙を破ったのは先輩だった。


「今日、避けてるよね?どうして俺を避けるの…」


そんなの、決まってる。でも、あたしは口を開かなかった。開いてしまったら、昨日さんざん考えたことがどんどん出てきてしまいそうだったから、唇をかみしめた。


「空答えて」


少し鋭さを含んだその言葉に、少しだけ肩がびくつく。それでも、あたしは振り向こうとしなかった。壁際に近寄って窓の外を見る。外は今にも雨が降り出しそうな分厚い灰色の雲が空を覆い尽くしていた。


あたしは、先輩の問いには答えずにずっと消化不良を起こしている事を聞いてみる。


「…先輩。あのとき、誰と電話してたんですか」


思ったよりも冷たい声音が出た。後ろを向いているから先輩がどんな顔をしたかはわからないけど、しばらく沈黙が続いた。


「……匠だよ」


「…っ!!」


なんで、うそをつくの?あたしが聞いてないと思ったの?


まだ、少し先輩のことを信じていたのに。何か事情があったんじゃないかとか…。でも、ごまかされたら、やっぱりあの噂は本当なんだって思うしかない。あたしは、一つ呼吸をおいて、先輩の方を振り替えった。


まっすぐに先輩を見つめれば、南先輩が息を飲むのがわかった。


「……なら、先輩は自分の弟に愛してるなんて言うんですか?」


「…空、言っている意味が…」


「ちゃんと聞こえてたんですから。はぐらかさないでください」


ぐっとこぶしを握りしめた。怒りより悲しみの方が強い。気を抜けば、涙があふれてしまいそうだった。でも、今泣いてしまうわけにはいかない。泣いたら負けだ。


「昨日の電話は誰ですか。ちゃんと答えて。やっぱり、あの噂は本当なんですか?」


「うわさ?」


「先輩がいろんな女の人と関係を持っているって」


「…空は、俺より、噂なんかを信じるの?」


「あんな言葉を聞いて、どうやって信じろってば言うんですかっ!!」


あたしは声を張り上げていた。今でもはっきり耳にのこる甘くささやく愛の言葉。あたしじゃない人にささやかれる甘い言葉は、あたしのなかで不快感をまさせるだけだ。


「なら、」


あたしから先輩は目をそらした。そらされた瞳にズキンと胸の奥がうずく。静かに呟いた言葉は、二人しかいないこの部屋に大きく響いた。


「なんで空はあいつといつも一緒にいるの?」


問いかけられた言葉に、あたしは心の中で首を傾げた。あいつって誰?それにどういう話の流れ?


「従弟だからっていくらなんでもおかしいでしょ」


その言葉でそれが誰のことなのかわかった。隼人だ。


そらされていた瞳がこちらを向いた。その瞳に宿された憎悪にも似た激しい炎を見て、体がすくみ上った。あんな、冷たい目は初めてみた。


「なんで、いつもあいつばかりに頼って俺には頼ってくれないの?空と恋人なのは俺だろ?」


―――恋人。


その言葉を聞いて悲しくてやり場のない気持ちを抱えていた心が一気に冷えていった。


恋人なら、どうして、他の人に愛してるなんていうの?


恋人なら、どうして、そんな冷たい目で見るの?


ねえ、好きって、どんな感情だった?


「…じゃあ、恋人って何なんですか」


「っ!」


そう呟いた瞬間、先輩の目が見開かれたと思ったら、あたしの体は壁に押しつけられていた。もがこうと思うも男と女の力の差は一番よく知っている。


両腕を押さえつけられ、ぎりっと力を込められる。その折れるんじゃないかと思うほどの力の強さに顔をゆがめた。


「俺は、……空だけが好きだよ」


言葉は甘いはずなのに、くわえられる力は真逆にどんどん強さを増していく。


「っ…信じ、られません」


声を絞り出すと同時に頬に熱が迸(ほとばし)った。何が起こったのか理解しきれなくて、ジンジンと痛み始めた頬に手を添えた。痛い?


「う……あ…っ」


先輩を見上げると、苦悶の表情を浮かべ、振り下ろしたままの手があった。そこで初めて叩かれたのだと理解した。


ぞくっ、と背中を悪寒が走り、逃げなきゃいけないと頭の中で警報が鳴り響く。いやだ、助けてっ。


逃れるために自由な腕を振り回した。


「やっ!離して!」


それに一瞬ひるんだ先輩だけど、すぐに押さえつけようと未だに壁に縫い付けられている腕に力を込められる。


「なんでっ!」


先輩がもう一度腕を振り上げた。今度は平手なんかじゃない。拳だ。あたしは、ちゃんと目を開いて、その拳を掌で受け止める。


パシンと乾いた音がして、すぐさま掌から腕に向かって痛みが走った。本気の力と、慣れない衝撃に腕が痛む。


でも、ふせげた、ということに安心していると、先輩がもう一度なんでっ!と叫ぶように声を発した。それと同時に、肩をつかまれ、脇腹に衝撃が走る。


「…うっ!」


息が詰まる。痛みと衝撃でうまく息をすえなくて、痛むおなかを抑えながら壁伝いに蹲った。息を吐くのも吸うのもつらい。


痛みを和らげようと躍起になっていると、暇を与えてくれない先輩にいきなり髪の毛をつかまれ、無理やり上を向かされた。


うっすらと目を開けば、そこにはやっぱり苦悶の表情を浮かべて、瞳には悲しみを宿した南先輩がいた。


「俺は、ずっと、ずっと昔から空だけが好きだったのに…」


さっき殴られた頬に手を添えられた。先輩の節くれだった指が頬をわずかに押し、痛む。その掌は優しくいたわるようになでているのに、いまのあたしには恐怖以外の何物でもなかった。


「だったら…、なんで、浮気なんてするんですか…」


無理やり上を向かされて、先輩を見上げた状態のまま声を絞り出す。溢れ出した言葉はもう、とどまることを知らなかった。


「違う!空が俺から離れようとするからだ!」


その言葉と同時に、また先輩が手を振りかぶった。殴られる前に、懐にできた隙をついて、彼のみぞおちあたりを渾身の力で蹴り飛ばす。後ろにしりもちをついた先輩を見て、痛む体を起き上がらせて先輩の横をすり抜けた。


見えていたのは入ってきた扉だけだ。はやく、逃げなきゃ。


「なんでっ!」


逃げなきゃ―


腕をつかまれ、引き寄せられた。


体を半回転させられ先輩と向き合わされる。と、同時に視界の隅に飛んでくる足を見て、あわてて腕を顔の前にかざしてガードした。


とっさに力を込めれば、そこに先輩のけりが入る。


しかし、その蹴りの強さに、受け身をとれず、体は吹っ飛んでしまった。


助けて―


吹っ飛んだからだは、そばにあったパイプ椅子とか机の方にとび、がたがたとものすごい音を立ててなだれ込むように倒れた。


背中に激痛が走る。息もできないようなそれに、喘いだ。


「―――〜っつー…。はや、と」


でも、痛みに意識を遠のかせている場合じゃない。逃げないと、またっ、またっ!!


助けて。


「なんでっ」


逃げなきゃっ。


そう思い、あわてて立ち上がった。腕をつかもうと伸びてくる手を振り払って、距離を取ろうとする。でも、すぐに詰め寄られる。


「隼人っ!」


口から洩れた声は、いつもいつも助けてくれる彼の名前。その名前を聞いた瞬間、先輩の瞳が悲しみに揺れたなんて知らず、あたしはただその人だけを思い浮かべた。


「なんでっ!俺から離れようとするんだよっ!!」


怒りに顔をゆがませた南先輩の腕がまた振りかぶられる。足は立たず、反応できない体はまるで人形のようにそこに座り込んでいる。


近づいてくる腕を見て、頭を抱えて痛みに耐えるために歯を喰いしばった。


殴られる覚悟を決めた瞬間、あたしの体は何か温かいものに包まれた。


パシッと乾いた音がした。


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あきゅろす。
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