連れてこられたのは体育館裏だった。皆、球技大会に熱中しているからか、すぐそこの体育館からは時たま歓声が聞こえてくる。 壁一枚しか隔てていないはずなのに、隔離されたような空間に二人っきりという言葉を嫌というほど意識させられた。 それと同時に脳裏をよぎるのはあの空手の合宿の時の出来事だ。いまだにつかまれたままの手が、自分で見ても震えているのがわかる。 「空」 ようやく立ち止まった南先輩があたしに向き直った。気まずい沈黙が流れる中、どうやって逃げようとただそれだけを考えていた。 「空。聞いてくれないか」 うつむいたままでいるあたしには南先輩がどんな表情をしているのかはわからない。でも、その声が真剣なのはわかった。 「あの時はごめん。俺、どうかしてたんだ。空にあんなことをっ」 「も、いい、」 「空!本当に反省してる。もう二度とあんなことはしない。誓うから。だから、もう一度はじめからやり直そう。空は昔から、俺のことが好きだろう?」 後ずさろうとするけど、それを阻むように両腕を取られてしまった。あたしは必死に首を横に振って体を後ろに引っ張る。それでも離してくれない南先輩に、頭の中はパニック寸前だった。 「空、好きだよ。好きなんだ。誰よりも、何よりも。だから、誰にも奪われたくない。俺の傍にいてくれ。頼むから」 昔なら、間違いなく喜んでいただろう言葉にあたしは首を横に振り続けた。目からは涙があふれて、前がぼやけている。 無理だと思った。もう、南先輩にずっと想いを寄せていた時のようには戻れないんだと思った。 怖くて仕方がない。 「空!俺には君しかいないんだ!それは、空も一緒だろう?昔からずっと俺が守ってきた。これからも、俺が守るから。だから、俺の傍に!」 “俺がお前を守る” “俺が傍にいる” 同じセリフなはずなのに、あの夜あたしが恐怖でどうにかなりそうだったときに抱きしめてくれた腕はとても優しいものだった。 「もう一度。俺にチャンスをくれないか!?」 捕まれていた腕を引っ張られた。そう思った時にはもう南先輩の腕が背中にまわっていた。とっさに手をついた先輩の肩があたしたちの間にわずかな距離を作ってくれていたけど、すぐそばにある先輩の息遣いを感じたとき背筋を冷たいものが伝った。 呼吸をすることすら忘れる。頭の中が真っ白になった次には、離れたい。ただそれだけが頭に浮かんだ。 「空。頼む。頼むよ」 「空!!」 その声を耳が拾った時、今まで震えて力が入らなかった手がウソだったんじゃないかと思うほど強い力で南先輩を突き飛ばしていた。 まさか抵抗されると思っていなかったのかもしれない。先輩はしりもちをつきあたしを見上げた。 この日、初めて目があった。 時が止まったように感じた。それは一瞬の出来事だったはずなのにスローモーションのようだった。先輩の目が見開き、次にはその眼が揺らいだ。そして、息をのんだことがわかった。 「終わりに、しましょう」 振り絞った勇気の末の言葉は祈りにも似たそれだった。憎むことなんてできない。でも、もう戻れない。それでも確かに、彼はあたしの初恋だったんだ。 目の奥が熱くなって、それを抑えるために唇をかみしめた。 そんなあたしを荒々しく包み込んだのは、煙草の匂いが染みついた空気だった。その匂いに、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。 「てめえっ!」 「隼人、待って!」 「…空?」 「………先輩」 あたしは隼人の腕につかまりながらもう一度先輩を見た。先輩は隼人の登場にか、眉を寄せている。 「…あたし、南先輩を卒業します」 あたしは目を伏せた。先輩が掠れるような声で待って、と言った。でも、あたしはもうそこに居続けることはできなかった。隼人の腕を引き先輩に背を向ける。 「空!待って!待ってくれ!」 「うっせえ。次こいつに何かしてみろ。次は容赦しねえ」 隼人の低く威嚇するような言葉を最後に、あたし達は体育館裏を後にした。 どれくらい歩いたのかわからない気づけば校舎内に入っていた。あたしの手を引き歩く隼人を見ると、さっきまで息ができていないんじゃないかとおもうほど 苦しかったのに、楽になっていた。 終わったんだ。 そうぼんやりした思考で思った時、突然体に力が入らなくなって、あたしはその場に倒れるように座り込んだ。突然のことに隼人が驚いて声を上げたけれどすぐにあたしを心配して声をかけてくれた。 でも、あたしはそれに応えられなかった。 何が悲しいのかわからない。涙は次から次へとあふれてきて、手も体も震えて指先は自分で驚くほど冷たくなっていた。 嗚咽を漏らし泣くあたしに、隼人は最初はおろおろしていたけど、息をつくとあたしをゆっくり抱きしめてくれた。 「…はや、と…」 「空…」 「ちゃ、んと、自分で終わらせたよ…」 「ああ」 「頑張った、でしょ?」 「ああ」 「ほんと、に、ちゃんと、好きだったんだよ?」 「ああ」 「隼人っ」 「慰め方なんざ知らねえから、これで我慢しろ」 そう言って、抱きしめる腕に力を込める。隼人の腕の中であたしは嗚咽をもらしながらしばらく泣き続けた。ないまぜになった感情の中で、ただ一つだけ、隼人の腕の中は安心できるんだということだけはわかった。 だから、あたしは今この時に隼人がいてくれてよかったって本気で思う。 |