君の距離に

風がたけちゃんの手を弾いたのは本当に一瞬のことだった。あたしが、やばいと思った時にはもうたけちゃんは風の頬をなでていて、それだけを見たらほほえましい光景なんだけど、風にとってはとても残酷なこと。


「たけちゃん……、大丈夫?」


「あ、ああ…。それより、風……」


「せっかく。風には話を振らなかったのに……。風ね?頬に触れられるのが怖いの」


「あいつにも怖いものとかあるんだな」


真面目腐ってそんなことを隼人が言うから、思わずその頭をはたく。禿げちゃえばいいんだ。


「いってえな!」


「風だって、普通の女の子なんだから、怖いものの一つや二つあるよ……」


「でも、なんでそれがほっぺた、なんだ?」


そこで、一瞬迷う。風の過去につながることだから、言ってもいいのかどうか。


でも、たけちゃんの目が鋭くて、とても言い逃れさせてはもらえなさそう。


「空」


たけちゃんがあたしの名前を呼んで促す。


「……あたしの口からは、あまり、詳しくは言えないけどね。いわゆる、一種のトラウマ、みたいな感じ」


「トラウマ?」


「風にとって、それは、頬に触れられることで…、あたしで言えば海、みたいな」


海に溺れる感覚は、今思い出しても震えてくる。それを悟られないように笑うけど。


「なんで、ほっぺに触ることがトラウマなんだ?」


「うーん…、誰にでも、嫌な記憶があって、それを引き出すカギは人それぞれ違う。で、風にとって、頬に触れるってことは、別れのあいさつ、みたいな…って言ってた」


「…よくわかんねえけど…、俺、風に謝ってくるわ」


「うん、いってらっしゃーい。じゃあ、あたしたちも部屋に行こう?」


「ああ」


あたしは隼人を促してそのまま部屋へと戻った。




***

部屋に入ってみれば、電気はつけられていなかった。それでも、ベッドの上で寝転がっている風の姿が見て取れた。息をひそめているのがわかる。


「風…、俺…」


「武、」


遮られる言葉。その言葉がいつもの風の声より鋭い気がして、息をのんだ。


「空から、なんて聞いた?」


「…トラウマ、みてえなもんだって言ってたぜ?」


「うん」


しばらく続く沈黙。それを遮ったのは風だった。風は体をこちらに向けて、俺を見た。


「聞きたい?そのトラウマ」


「……話してくれるのか?」


「簡単にならね」


風はベッドに横たえていた体を起して、隣をポンポンと叩いた。


そこに腰掛ければ、風は少し微笑んだ後、静かに話し始めた。真っ暗な部屋で、かすかにわかる風の表情は、なんともいえないものだった。


「4歳の時、お母さんとお父さんが離婚してね。お母さんが家を出て行ったの。私もついていきたかった」


どこか遠くの方を見つめている風。思わず、手を伸ばしそうになったけどその衝動を押しとどめた。


「でもお父さんが引きとめて、お母さんは楓の手を引いて、出て行くの。どうして?っておもった。部屋の奥で、お父さんが泣いてる声が聞こえて、私は、そこから動けなかった」


私は、いつもの買い物か何かで、またすぐに帰ってくるんじゃないかって、どこかで思っていた。でも、幼いながらにちゃんと理解していた。それを認めたくなんてなかったけど。


「そのあとは、お父さん。小学校1年のときだったかな。仕事のし過ぎで、病院に運ばれたときには、もう手遅れみたいな感じで。何度も呼んでるのに、反応してくれなくて…」


「風」


「気づいたら、空に抱きしめられてた。だから、空がいなかったら、どうなってたかな?そのあとの記憶もあまりなくてね…」


渇いた笑を浮かべる風。笑うなよ、って言いたいのに、言葉が出てこない。なんだか、風が消えちまうみたいな気がして、抱きしめたいと思うのに体は動こうとはしなかった。


「感謝、してるんだ。空には。とっても。いつも、つらい時に傍にいてくれたのは空だったから…」


「風は、楓に怒ってるのか?」


「楓を?なんで?…お母さんが楓を選んだから?」


「……」


「あの選択は間違ってなかったと思う。私の方が親離れしていたし」


ずっと一緒にいた妹。いることが当り前じゃないと気づいたのは、気づかされたのはお母さんに引き離された時だった。失ってから気づいても、遅すぎるというのに。それでも、あの日常はとても、輝かしいものがあった。


「でも、さびしかったんだろ?」


「ハハ、さびしくなんてなかったよ?お父さんもいたし、空もいたし」


「風」


「さて。お話はここまで!これ以上はシークレットです」


クスクス笑う風は、俺をベッドに残して床に引いてある布団へと潜り込んだ。


「風、今もさびしいか?」


「ハハハ。今も、昔もさびしくなんてないよ」


おどけたように言う風の頭を乱暴に撫でれば、少し怒った口調でやめてよと言ってから微笑んだ。


ベッドの方へと入れば、さっきまで風が寝転がっていたからか、少しだけ温かくて、やっぱり、抱きしめてしまえばよかったと思った。


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あきゅろす。
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