いろいろ 不滅の心1(憂国) 『気になる女性がいるんだ』 アルバートの言葉はその場に大きな沈黙を落とした。 たしか今後の動きについて話し合っていたはず。 ルイスは兄の突然の告白に目を開き、ウィリアムは真顔で一瞬固まっていた。ほんとに、一瞬だけ。 それから、「え、俺は何かまずいことを言ったかな?」という顔をした兄に向けて、互いの認識の確認のためにも話の続きを促したのだった。笑いを堪えながら。 「失礼、ちょっと伺いたいことがあるのですが、、」 「はい?」 アルバートが受けたという『違和感』。 貴族社会の隅々を見渡しているあの兄が、違和感を感じて目に留めた女性。 なるほど。兄が見たという夜会での『人形のよう』な雰囲気は全く想像も出来ない、芯の強そうな眼差しを持っていた。 「先程まで、そこの二階の部屋で弾かれていた方をご存知ありませんか?」 「………………どうしてでしょうか?」 ブラウンの瞳にスッと影がさす。 警戒心も鋭く、頭も切れるらしい。 「それは、その、あまりにも美しい音色だったものだから、ぜひこの感銘をお伝えしたくなってしまって」 「…………そうでしたか。……そうお伝えしたらきっとお喜びになるでしょうね。…ですが、私は生憎その方がどなたかは存じませんので…申し訳ありません。 そこの二階の窓でしたら、212という練習部屋だと思います。直接お訪ねになられては?」 では、と、ウィリアムの横を通り過ぎようとするご令嬢へ、 「ですが、今伺っても、どなたもいらっしゃらないでしょう? もう部屋を出られている」 「……さぁ?私にはわかりませんので」 「本当に?ミス・レイトン。 貴女の先程のベートーヴェン。素晴らしかった」 「…っ、私は名乗った覚えはありませんが」 「すみません。 回りくどいやり方でお声を掛けたことも謝ります。 実は、私は先週もここで貴女のベートーヴェンを耳にしてましてね。 あまりにも美しかったものだから、こんな風に他の学生を捕まえてどなただろうかと尋ねていたんです。 そうしたら、貴女のお名前が。 首席でいらっしゃるとすぐに教えていただきました」 「…………」 「もちろん、それだけならお顔まではわからない。しかし簡単なことです、先程まで貴女が楽器を弾いていたことは明白なことと、貴女の服装がレイトン伯爵家のご令嬢として相応しいこと、それらから、貴女がミス・レイトンだと導き出しました」 「……」 それはもう不審感しかない、そんな眼差しを受けたウィリアムは これはまた手強い方だ、と面白くなってきた。 「もう少し種明かしをしましょうか。 貴女の首もとには、ヴァイオリンが当たった痕がはっきり赤くなっている。弓を持つ指にも痕が。 それから、貴女のドレスの生地は最高級のゴブラン織。とても控え目な柄とお色ですが、だからこそ、質の良さがわかる。ゴブラン織は王室御用達ともいわれる仕立屋の十八番の型ですしね。そちらの靴も。その作りはハロッズのオートクチュール。 正装としても十分なものを、普段使いとしてお召しになるのは伯爵令嬢くらいのものでしょう?」 違いますか? 貴女の楽器ケースに入っている楽譜、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタですよね。 一通りの証明をしてみせると、彼女は大きなため息を吐き、 「それで?貴方はどちらの御貴族様?」と呆れるように尋ねた。 「おや、」 「何で貴族だと?なんて聞かないで下さいね。そんな格好と立ち振舞いでいらして。そちらこそ、だわ。 それより、貴方の御用は何でしょうか? 申し訳ありませんが、私からは父に取り次ぐことは致しませんし、私の音楽を褒めたところで父は全く喜びません。お褒めいただいて恐縮ですが、貴方の利となるようなことは残念ながら何もありませんよ」 ですから、私は失礼させていただきますね。喉が渇いたものですから。 もうこれで話は終わりだとばかりに、ウィリアムの名すらも聞かぬままに立ち去ろうとする。 これには思わず笑ってしまった。 すると、少しだけムッとしたような表情で振り返って足を止めてくれた。 「ふふ、失礼しました。 私の用なら申し上げた通りです。 『貴女のベートーヴェンがとても美しかった』ので『この感銘をお伝えしたくなった』と。 ただ、それだけなんですよ。 本当は貴女が誰であろうと構わないのです」 は?と、何か言い掛けたものの何も言えず、立ち止まったままのご令嬢にもう一度クスリと笑って。 「申し遅れました。 私はウィリアム・モリアーティ。 ダラム大学で数学を教えています」 「………モリアーティ教授…『音楽と数列』」 「はい、先週と今日と、こちらでその2回の特別授業を致しました」 「お若いと聞いていたけれど、貴方が…。 作曲の友人が先週の講義を聴いてとても面白かったと言っていたから今日のはぜひ聴きたかったのだけど…レッスンの時間と重なっていて残念に思っておりました」 「ミス・レイトン。 もし宜しければ、お茶をご一緒にいかがでしょうか?講義の内容ならかいつまんでお話いたしますよ」 未だ不審感は残るものの、興味はある。そんな逡巡が泳いだ目線から伝わってきて。なんと素直なものか。 『笑顔を貼り付けた仮面か人形のよう』だと言ったアルバートの印象は別人のものに思える。 『だが、何かが引っ掛かるんだ。 眼の奥に、何かが…悲しみのような、怒りのような。もし、ソレを引きずり出すことが出来たなら。 もしかしたら、あの伯爵を崩す為の唯一の取っ掛かりになるかもしれないと思ってね』 彼女の父は、貴族至上主義の骨格に位置するレイトン伯爵。 彼は潔癖で、理知的で、人格者として貴族の中では陰ながら有名な実力者だ。 領内の民への理不尽な振る舞いも聞かないし、腐敗の臭いがする噂も全くない。自分にも他人にも厳しく、不必要な貴族同士の馴れ合いもしないのだとか。それゆえ、貴族の中では煙たがる者も多いが、その実力と手腕、圧倒的な存在感に一目置かれているという。 それだけなら、ウィリアム達の問題にはならないのだが。 その一方で、階級に対して厳格なまでに厳しい一面があった。 どれほど有能でも、階級は絶対、住み分けというものは存在するのだ、と。 国を支え、引っ張っていく役目は貴族のものであり、貴族はその務めを義務とせねばならない。 階級とはだだ生活水準を表すものではなく、役割と責任を示すもの。ノブレス・オブリージュこそが国を支えていく。貴族として生まれ、その精神を持つ者だけが果たせるべき責務である、と。 アルバートは彼を『惜しい』と評した。 潔癖で、理知的で、尊敬に値する人物だが、彼がその貴族至上主義であるがゆえに『惜しい』のだと。 腐敗した貴族達はいくらでも罰することは出来るが、彼だけは、傑物であるからこそ罰する理由がない。 今後、貴族側が弱体していった先で彼が貴族側を浄化し纏め上げ、貴族の改革がなされたとしたら。世は良くなるかもしれないが、この社会構造までは壊すことが出来なくなってしまう。それは懸念される脅威となり得た。 筋の通った人物なだけに、腐りかけの傷んだ部分も見付からず。どこから切り込んだものかと課題のひとつであった。 そんな中、アルバートが先日の夜会で彼の一人娘に目を留めた。 始終、ニコニコと笑顔を貼り付けたまま、発したのは挨拶と相槌のみ。 何の意思も興味もないかのような、人形のような女性。 しかし、彼女が広間に飾ってあったある絵画を眺めた一瞬だけ、瞳の色が変わったのだという。 その絵に描かれていたのは、籠の中の鳥だった。 その一瞬の色に、アルバートは悲しみか怒りのようなものを見たと言った。 先日は『気になる女性』などと紛らわしい言い方をした兄に苦笑したものだが、よくよく聞いてみたら、それなりに兄の気を引く女性であったのも確かなのだろう。 いくら違和感を感じたといえ、それだけの観察力をずっと発揮して目で追っていたのだろうから。 実際に会ってみれば、なるほど。 兄の見た姿は全くの作り物であり、感じた違和感は正しかったと言える。 人形のような雰囲気など皆無で、大変思慮深く、聡明そうな芯のある眼差し。 そして、彼女の奏でる音色が。澄んだ音色の中に見え隠れする、怒りにも似た熱情のようなもの。 これぞ完璧なベートーヴェンと思わされる音楽だった。 この女性のどこかにそんな熱が存在するのだと思うと、高揚する自分を感じた。 それをこれから暴くのだ、と。 取っ掛かりになるかどうかはわからない。 わからないが、確かに興味はそそられた。 「それは嬉しいお申し出ですが…そんな、講義をタダでお聞かせいただく訳には」 「タダだなんてとんでもない。 あのベートーヴェンを聴かせていただいた、正当な対価になれば嬉しいだけです」 「っ、」 「数学のことなどはご興味ないかもしれないですが…」 「いえっ、…いえ、とても伺ってみたい内容でした」 「それならば! その角のカフェはいかがでしょうか?確かガトーショコラが美味しいと評判でしたね」 「ええ、レモンパイもオススメですよ」 「では私はそれをいただくことにしましょう」 こうして、二人は出逢ったのだった。 . [*前へ][次へ#] [戻る] |